第36話 エピソード2 シウマイ弁当と卵焼き(12)
「理由は今でも分かんないよ」
母親は、そう言って小さく笑う。
「強いて言うなら女の本能って奴かね?」
妊娠したと分かった瞬間から湧き出てきた今まで味わったことのない高揚感。それが脳を通り越して心に訴えてきたのだ。
産みたい・・・と。
母親は、産む決意をして店に退職を申し出た。
店のオーナーは、驚いた顔をしたものの「産んで働くところがなけりゃまた来な」と言って止めなかった。
関係を持った男達は大慌てだ。
中絶して欲しい。産んでくれるな。
全員が全員、定型文のように同じことを言って必要以上の大金を持ってやってきた。
引き取りたい、一緒に育てたいという男は誰1人としていなかった。
母親は、子どもは自分が産んで育てるから金はいらないっとつっ返すと「なら俺ことは言わないでくれ」と口止め料として金を置いていった。
子どもを育てるのに金がかかることが分かっていた母親は結局。有り難く受け取ることにした。
そして十月十日後、名も知られてない小さな助産院で母親は先輩を産んだ。
「可愛かったよ」
母親の口元が自然と弛んだ。
その瞬間だけありとあらゆる苦しみから解放されたようだった。
「こんな可愛い子がこの世に存在するんだ、と疑うくらいに可愛かった」
母親は、生まれたばかりの先輩をぎゅっと抱きしめてこの子を守り、育てると誓った。
看取り人は、そんな母親の話しを平然と、いや少し冷たい表情で聞いていた。
「・・・なら何故・・」
何故、虐待なんてしたんですか?という言葉を看取り人は口に出すことが出来なかった。
それは問いて答えるものではない。母親が自分の意思で、自分の言葉で答えるものだ。
それが彼女がこの世に残す最後の言葉であるなら尚更だ。
母親は、天井を向いたまま切長の目を看取り人に向ける。
「不思議だろう?なんでそんなに可愛いと思っているのに虐待なんかしたのかって」
母親は、看取り人の心を代弁するように言ってほくそ笑み、再び天井を見る。
「私も不思議だよ」
母親は、溢すように呟く。
「あんなに可愛いのに、愛おしいのにダメだった。止まらなかった。あの顔を見てしまってから」
母親の脳裏に浮かぶ幼い先輩の顔。
恐らく2歳ぐらいの時の顔。
輪郭がしっかりしてきて、髪も綺麗に伸び、母親に似た切長の両目で可愛く微笑む先輩の顔。
それは幼い頃の妹の顔とあまりにも瓜二つであった。
それに気づいた瞬間、心の奥に押し込んでいた感情が溢れ出した。
虚栄。
悲観。
嫉妬。
失望。
虚無の中に放り込んでいた様々な負の感情が泉のように溢れ、心に芽生えた愛情の芽を引き剥がしていった。
その瞬間、母親は先輩を育てるのを放棄した。
看取り人は、冷徹な表情のままパソコンの上に置いた両手を握りしめる。
そんなことに気づかず母親は話しを続ける。
「不思議だったよ。あの子の顔が妹にそっくりだと気がついた瞬間、色んなものが心から剥がれていったんだ」
母親の顔がくしゃっと歪む。
「それまではあの子をどうやって育てようか?家族の元に戻って行方不明扱いになっている自分の戸籍を復活させて籍を与えないととか、あの子が恥ずかしくないようにまともな仕事をしようとか、愛しいあの子を抱きしめたいとか思ってたのに全てが剥がれてしまった」
それからは酷いものだ。
母親は、必要最低限のものだけを置いて自宅を何日も空けるようになった。たまに帰っても娘の頭を軽く撫でて食糧だけ置いてまた出掛けた。
先輩は、母親が出ていっても泣きもせず、笑顔で見送ったと言う。
その目から放たれる母親への愛おしい気持ちを感じる度に胸が抉られた。
仕事も場末のキャバクラに戻った。
オーナーに子どもはどうしたのかと聞かれたが親戚に預けたと嘘を吐き、浴びるほどにアルコールを飲んで接待し、気があった男と同伴して1夜を共にし、意気投合したらその男の家で何泊も泊まった。
その間も決して先輩のことを忘れた訳ではない。
頭の隅のどこかにはいつも先輩の顔が過ぎった。
その度に胸がきゅっと締まり、閉じ込めていたはずの愛おしさが膨れ上がる。だが、次の瞬間に先輩の顔と妹の顔が重なってぱんっと弾ける。
そして思う。
自分は母親失格だ。
いや、母親になんてなっちゃいけなかったんだって。
そんな生活を何年も続けたある日のこと。
母親の携帯に一本の電話が入る。
母親の住むアパートの大家からだった。
大家は、遠慮がちに、しかし問いただすような口調で聞いてきた。
「貴方、子どもなんていなかったわよね?」
母親は、胸が握りしめられるような感覚に襲われた。
大家の話しによると以前から同じ階の住民達から異臭とテレビの音、そしてそれに混じって子どもの声がすると問い合わせがあったとのこと。
最初は、それこそテレビの音とズボラな女がゴミを溜めているくらいの認識しかなく、ゴミ屋敷にならないよう注意が必要だぐらいにしか思っていなかった。
しかし、こうも頻繁に子どもの声が聞こえる、対処してくれないなら警察に通報してするとまで言われて大家も重い尻を上げて動き出したと言うことだ。
大家からの問い詰めに母親は笑って気のせいじゃないですか?と言って電話を切った。
間違いなく怪しまれた。
このままじゃああの子が見つかる。
あんな状態が見つかればきっと自分はあの子と引き離される。
恐怖が母親を襲った。襲われてから・・気づいた。
「ああっ自分はまだあの子を愛しているんだって」
そう呟いた母親の目尻から涙が
酸素チューブから空気が漏れる。
「そして・・・私はあの子を手放すことに決めた」
事件は起きた。
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