第9話 エピソード1 宗介(9)

 アイとシーは、学生達の休憩用に用意されたベンチに腰掛ける。冷たい風が吹き上がり、アイの髪を掻き上げる。

 宗介は、屋上の扉に隠れて2人の様子を見ていた。

「大分、冷えてきたね」

 アイは、柔らかな笑みを浮かべて言う。

 シーは、ベンチに座ってからじっと膝に置いた自分の手を見つめていた。

「話したいことって何かな?」

 アイは、低い、しかし柔らかい声でシーに訊く。

 どうやらアイを屋上に呼び出したのはシーのようだが、アイ自身もなぜ、シーに呼ばれたか分かっていないらしい。

「進路のこととかで相談かな?確かシーちゃんって医学部を受験するんだよね?私、文系だから相談乗れるか・・」

「好きです!」

 アイの言葉の上に札の揃ったトランプロイヤルストレートフラッシュを叩きつけるようにシーは言葉を被せた。

 アイは、彼女が何を言ったのか、何が起きたのか理解出来ず呆然とする。

「・・・えっ?」

 アイの言葉には思考がまるで乗ってなかった。ただ、条件反射のように疑問符が溢れていた。

「好きです!」

 その疑問を払拭するようにシーはもう一度、はっきりとした言葉で告げ、整った顔をアイに近づける。

 アイは、思わず頬を赤らめる。

「あのシーちゃん?それは何の冗談かな?」

「冗談なんかじゃありません」

 シーは、アイの言葉をキッパリと否定する。

「初めて先生を見たその日から恋に落ちました。この思いに嘘偽りはありません。先生、好きです。どうか私の思いを受け取ってください!」

 そう言ってシーは、アイの手を握る。

 アイは、思わずその手を引き離そうとするがバスケ部主将の握力はか弱い教育実習実習生の力を軽々と凌駕しており、びくともしない。

 シーの視線がアイを捉えたまま離さない。それはまるで蛇が絡まるのようにアイの動きを封じる。

 宗介は、2人の様子を左胸を押さえながら見守っていた。少しでも手をずらしたらその音で2人に気づかれてしまうのではないかと思うほどに心臓がうるさい。

 アイがどう返答するのかが気になって気になって仕方なかった。

 もし、アイがシーの思いを受けたら?

 そんなことはないと分かっている。分かっているのだが・・。

 宗介は、千切れんばかりに唇を噛み締め、2人の動向を見続けた。

 糸を引きちぎるようにアイの形の良い唇が開く。

 空気と一緒に言葉が漏れるが小さくて聞き取れない。

 シーが眉間に深く皺を寄せる。

 アイは、もう一度、唇を動かす。

「ごめんなさい・・・」

 今度は、はっきりと聞こえた。

 宗介の心臓の音が静まり、固まっていた血が流れ出す。

 いや、何を安堵しているのだ?

 こんな返答分かりきった事だし、アイがシーにどう答えようと関係ないではないか。

 それなのに宗介は、全身に心地よい疲労が広がり、足がよろけそうになる。

 そんな宗介の安堵なんて知る由もなくアイは、緊張した面持ちで言葉を続ける。

「シーちゃん。貴方の気持ちはとても嬉しいわ。でも、ごめんなさい。私はその気持ちを受け入れることは出来ない」

 とても優しい振り方だ、と宗介は思った。

 今まで自分が異性に放ってきた言葉がどれほどの毒で刃だったのかを思い知らされる。

 シーは、アイの手を握ったまま顔を伏せる。

 ひょっとしたら泣いているのだろうか?

 宗介は、なぜか罪悪感が湧いてしまった。

 元々、アイと接触しようと思ったのはシーにも自分と同じ屈辱を味合わせようと思ってのことだった。結局、接触してきたのはアイの方だったし、そんな計画を考えていたこと自体も忘れていたので、未遂にすらなっていないのだが、バタフライエフェクトのように自分がそんな邪な考え方さえ起こさなかったら彼女に辛い思いをさせる事はなかったのではないか?

 そんな考えに浸っていた時、2人の変化に気付いた。

 シーは、アイの手を握ったまま離さなかった。

 むしろその力は強まっているのか、アイの表情が歪む。

「シー・・ちゃん?」

「なんで・・・」

 シーが顔を上げる。

 アイの表情に怯えが走る。

 シーの目は、暗かった。暗く、重く、そして寒かった。

 アイは、恐怖し、脳裏に黒く、大きな棘が無数についた鉄球がアイの心臓の中で膨れ上がって突き破る様を想像させた。

「なんでそんな事を言うんですか?」

 その恐怖は、屋上の扉の裏に隠れた宗介にも伝染した。

 あの美しく、聡明で快活なシーにこんな泥のような一面が存在したなんて思いもしなかった。

「私は、こんなに先生の事を愛しているのに」

 シーは、もう一つの手でアイの白い頬を撫でる。

「私と先生の相性は抜群ですよ」

 シーの言葉にアイの目が震える。

「先生だって分かってるでしょ?」

 シーの顔がアイの頬に触れるくらいに寄り、熱を帯びた吐息が肌を舐める。

 アイの頬が赤くなる。

「先生が抱けるのは私しかいないって・・・」

 シーは、笑う。

 美しく、艶かしく、妖しく笑う。

 そしてアイの唇に自分の唇を重ねた。

 アイは、大きく目が大きく開く。そして薄く涙が流れる。

 銅鑼のような音が屋上に響き渡る。

 その衝撃音に驚き、シーとアイの唇が離れる。

 宗介は、頬を紅潮させ、息を激しく切らしながら2人、シーを睨みつける。左手が強く握られ、屋上の扉を殴るように突きつけられていた。

 シーが狐のように目を細めて宗介を睨む。

「あんた・・・いつから・・・」

 シーから発せられた声は、鋭いナイフで腹を抉られるように痛く、冷たかった。しかし、興奮している宗介にその痛みも冷たさも届かない。

「ア・・・アイ先生・・・」

 宗介は、大きな塊を吐き出すように声を絞り出す。

 冷静、平常に。

「職員室で先生を呼んでました」

 宗介の言葉にアイは、我に返る。

「あ・・・ありがとうございます」

 そう言うとアイは、力の緩まったシーの手を振り解いてベンチから立ち上がり、屋上の扉に・・宗介の方に寄っていく。

 宗介は、反射的にアイに手を伸ばそうとする。

 しかし、アイの足はその途中で止まり、シーの方を向いた。

 宗介は、アイがシーの元に戻ってしまうのではと言う焦燥に駆られた。

 しかし、アイは動かなかった。胸元に握った右手を当て、感情を振り絞るようにシーを見る。

「シーちゃん・・・ごめんなさい」

 アイの言葉にシーの目が大きく震える。

「貴方の思い、私には受け取る事が出来ない。どんなに出来損ないの私でも、自分の気持ちを偽ることは出来ないの。だから、ごめんなさい」

 アイは、深く頭を下げる。

 シーは、身体を震わせ、表情を震わせて手を伸ばそうとして・・・下ろす。

 アイは、顔を上げると宗介の方を向き、「行こうか」と声をかけてくる。

「・・・はいっ」

 宗介は、小さく頷く。

 アイが屋上の扉を抜けるのを見守ってから宗介も扉を抜けようとする、と首筋に視線を感じた。振り返ると、シーが憎悪と怒りのこもった目で自分を睨みつけていた。部活で強豪校と争う時にも見せたことのなき激しい激情に宗介は背筋が冷たくなり、逃げるようにアイの後を追いかけた。


 屋上に続く階段を全て降りた途端、アイは膝から崩れ落ちる。

 宗介は、慌ててアイの身体を支える。

 見かけ通り華奢でがっちりとした身体はとても温かく、甘い香りがして、そしてとても震えていた。

「ごめんなさい・・・」

 そう謝るアイの声はとても震えていた。

「こんなの・・・初めてで・・・」

 アイの目が涙に濡れる。

「とても・・・怖かった・・・」

 宗介は、アイの身体を優しく抱きしめた。

「もう・・・大丈夫ですよ」

 宗介は、子どもをあやすようにアイの背中を撫でる。

 アイは、ぎゅっと顔を宗介の胸に埋める。

 しかし、次の瞬間、ばっと顔を上げて慌てて離れる。

 その表情は、焦りと恥ずかしさで真っ赤に染まっている。

「ごめんなさい!私ったら」

 アイは、大慌てに頭を下げる。

 その様子に宗介は、安心したように口元を釣り上げて笑う。

「大丈夫ですよ。さあ、行きましょう」

 宗介の言葉にアイは、頷き2人は歩き出す。職員室で呼ばれているなんてブラフだったのだが、目的がなかったので自然とそちらに向かって歩き始める。

「先生・・・」

「いつも通りアイさんでいいわよ」

「それは学校ではさすがに・・・」

 宗介は、苦笑する。

「先生は、来期も来るんですよね?」

「ええっ夏休みが終わったくらいかな?」

 アイの言葉に宗介は拳を強く握り、小さく「夏休み明け・・」と呟く。

「あの子の面倒よろしくね」

 あの子とは、公園に住む茶トラ猫のことだ。

「大丈夫です。しっかりと面倒を見ます。それに・・宿題も必ずやります」

 宗介の言葉にアイは、形の良い眉根を寄せる。

「宿題?」

「人の気持ちを理解して、人に興味を持つことです」

 文章を読み上げるように言う宗介の言葉の意味を理解し、アイの表情が明るくなる。

「次に先生が来た時、それがしっかりと出来てる事を証明してみせます」

 2人は、職員室の前に来る。

「それじゃあ先生、来年もよろしくお願いします」

 宗介は、頭を下げる。

「こちらこそよろしくお願いします」

 アイもゆっくり頭を下げる。

 そして顔を上げるとにっこりと微笑む。

「期待してるよ。宗介君」

 そう言い残してアイは、職員室の中に入っていた。

 宗介は、閉められた扉をじっと見つめていた。

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