閑話 焦寂を俟つ、雪灯りに過ごして2
防人たちの去った道場の床を、練兵の少年たちが雑巾がけに走った。
樫材を過ぎる滑らか音に、返る光が少年たちの姿を映し出す。
練兵の少年たちと共に、掃除へ勤しむ背へ声を掛けようと。
「お帰り。
「……気付いていたの?」
「これまでは兎も角、
――咲が口を開くよりも早く、背を伸ばした晶が掃除の喧騒から一抜けた。
その手に残る竹刀の欠片を、用意された麻袋へと放り込む。
周囲の少年たちから寄せられる無言の懇願に気を遣ったか、肩を竦めて掃除の輪から距離を取った。
「掃除の手を奪うなんて可哀想じゃない」
「
「それは段位が同じ場合の理屈。
……ほら。周囲の子たちも、口に出さないだけで迷惑がっているわ」
声を潜めた咲の忠告に虚を突かれ、晶の眼差しが道場の中を一巡する。
晶の視線に映る、少年たちが掃除の手を急がせる光景。
その表情は一様に、
「掃除は段位を挙げる考査の項目だよ。
練兵の頃は晶だって、先に上がる正規兵へ陰口を打って、みんなと結束していたんじゃない」
「だから、俺が段位を得ても掃除を止めないと決めていたんだけど」
門閥流派に
項目自体は経験則に基づいたものが多いが、長い時代を受け継がれる中で錬磨されてきた確かなものでもあった。
十把一絡げにされる練兵の技量は実際、防人は当然、
集団行動と統率能力が直に問われる掃除の場面は、段位の評価を下す貴重な瞬間でもあるのだ。
――練兵の頃を忘れたの?
評価の機会を奪った自覚を言外に指摘され、晶は少しだけ肩を落とした。
悪意がない事は充分に判っている。だが
「悪くはないけど、客分なら遠慮しておきましょう。
――
「太刀? 薙刀にはしないのか」
「薙刀の刃には細いし、仕立ては少し無理があったの。
大丈夫。太刀の扱いも中伝に至っているし、
――いざとなれば
武芸百般にあって、太刀と薙刀は同時に修めるを必須とされた技術である。
理由は単純。剣術と薙刀術は、その多くが両方に共通するものだからだ。
当然に咲も太刀の扱いを修めている。薙刀との決定的な間合いの差は未だ慣れず、懸念として残っているが。
少女の不安に晶はそれ以上の追及もせず、2人連れ立ち道場を出た。
陽が昇り切っても残り雪は未だ深く、厚着に膨れた往来の人々を横目に帰路を急ぐ。
「先刻の試合だけど、あんな派手に立ち回って大丈夫なの?」
「
……俺が中伝を享けて半年だって公表されたのが、最後の切っ掛けだったと思う」
「それなのに、怪我もさせず10人抜きなんて凄いじゃない。
最後の六郷殿は師範でしょ?
何時かは来る問題であったから驚きはない。案じる咲の呟きに、晶は肩を竦めた。
勝つだけならば今の晶なら容易いだろうが、相手に怪我を負わせる事なく勝利するのは、人数が重なるほどに難しくなる。
特に最後の六郷は師範。咲の見立て通りなら、
「それは違うよ。――実は勝つだけの仕込みはしておいたんだ」
晶から何かが手渡され、掌のそれへと視線を落とす。
晶が拾っていた竹刀の欠片。逆剥れた繊維の感触に、少女は意味も分からず首を傾げた。
「竹刀?」
「
ありふれた訓練と思っていたけど、話を聞く分に
「そうよね。攻め足からの一撃は、
只でさえ重い
「ああ。だから竹刀を選べば、相手の油断を誘えると期待した」
晶の思惑通り、晶との仕合を希望したものは軒並み、勝利の余裕に笑みを浮かべていた。
一人目は、初動さえ許さずに上段。二人三人と続くにつれ、晶が
油断から全員が冷めた頃には遅く、
残り五人となった時点で、相手は晶が油断ならない相手だと理解したはずだ。
「
「呪符が書けるだけじゃないの?」
「違うよ。符術師の技術は、呪符を自在に行使する点にこそある。
――簡易的には、呪符の術式も書き換えることができる、はずだ」
だが、それらも総て、ある程度の距離を置いて開始する事が最大前提だ。
「正式な試合は距離を置いてから始めるけど、今回の試合は道場内だけの非公式。
なら開始点は、練兵たちのものを基礎として
「それって」
「そう、一足一刀の間合い。
その条件が絶対である限り、
問題だったのは最後の一人。この仕合を焚き付けた、師範の六郷だけ。
「俺の武功は認めるが、10人程度が束になれば勝てる程度の相手。
多分、六郷はそう締めたかったんだと思う」
初手の試合で圧倒し、精神的に晶を服従させる。六郷の目的は恐らく、勝って晶に恩を売る事だったはずだ。
だが、最後まで気付けなかった。晶が掌握したのは距離であり、小細工を赦さない間合いそのもの。
何時も見ている道場の光景が罠だったが故に、理解するよりも早く六郷は敗北けたのだ。
初手の10名はその為の捨て駒。晶が
晶の初手を奪う事が叶えば勝利する。その確信を以て六郷は、晶と対峙したのだろう。
防人や衛士の序列は、何処まで行っても実力至上である。
未だ定まっていない夜劔家の陪臣。そこにさえ潜り込めば、晶を屈服させた六郷は盤石の発言権を持って夜劔の摂政位として振舞える目論見が立つのだ。
晶を何処まで腑抜けさせられるかに依るだろうが、夜劔家と成り代わる目途も容易く衝けられる。
策動を決めたのは六郷だけか、それとも
――こんな無謀を黙認しようと思うほどに、
「雨月4千年を謳っていた八家筆頭殿の武名は頼もしいが、それ以上に上位を頭打ちさせた憎い相手だったんだろうな」
その野望も、夜劔家とか云う訊いた事も無いような家系の台頭で露と奪われた訳だが。
呟く晶の声音に、六郷たちへの憐れみが欠片と浮かんで消えた。
守備隊の道場から僅か10分も歩く事なく、晶たちは目的地に着いた。
「――晶!」
途端。出迎える弾む声音に、晶の身体へ軽い衝撃が奔った。
年齢10ばかりの童女が、晶を逃すまいと抱き締める。
「ただいま戻りました、
晶の声に廊下の
「お帰りなさい、晶さん、咲さん。
「はい、ありがとうございます。静美さま」
――現世総てが
その規格外の本質を証明するかのように、
そうであっても風穴の犇く
「そうですか。公表した時の反応から近日に動くと思っていましたが、
――やはり師範たちは我慢できなかったようですね」
「
かちゃり、かちゃ。
雨月が亡んで尚、――否。亡んでしまったからこそ、噴出する問題は後を尽きなかった。
「晶の好きに振舞えば善い。
有象無象が吠えたてても、
「
俺だって、武名を聞いてから小兵の若造を見れば、同じことを思います」
「――なら尚更に、私が雨月天山を討ったことにして良かったの?
あれがあったら、少しは周囲の目も違ったはずだけど」
「あれはあれで仕方の無い。
結局、雨月天山が蜘蛛の怪異に変わった事は公表しなかった。これも晶の意向が通った格好である。
雨月天山が蜘蛛に
「ああ。やはり雨月
それなのにあれだけの恩情を傾けるなど、本当に良かったのですか」
「
――
本来の晶の感情論からすれば、雨月の果てなどどうだって良い。本音を云えば、亡びるなら己の手で滅ぼしてやりたい。
だが、それとは別に。外から見た雨月が罪らしい罪を犯していないのも又、事実なのだ。
雨月を心底の悪人として裁けない以上、表に出せる情報だけで組み上げるしかない。
結果として公表されたのは、偶然に発生した蜘蛛の怪異を
晶も助力の体裁で武功の端に乗っているが、悪目立ちが過ぎるため辞退した格好である。
「……腹立たしいですが、
俺が天山を斃した状況に居合わせたのは偶然だとしても、
決して理解し合えない弟ではあったが、その優秀さは晶をして認めざるを得なかった。
「ああ、誉さまと云えば、先方から連絡が。
――予定は把握したとのことです」
「そうですか」
静美の応えに、晶は短くそれだけを口にした。
さらりと茶碗へ緑茶を流す。やや濃い目に淹れられた茶の熱に、茶碗へ残った米粒が浮き上がる。
箸でこそぐように泳がせ、茶と米を流すように掻っ込んだ。
やや苦く緑茶の芳香が一際に、米の甘みを舌から洗い流した。
♢
――
駅の改札で、次々と切符に鋏を入れる音が鳴る。
小気味良い響きを脇に、雨月
威勢の良い男たちが、大八車に木材を載せて走って行く。
「何の臭いだ? 何処かで嗅いだが、思い出せん」
「……潮だろう。
共に来た酒匂
背中に荷物を背負い直し、続く表通りへと足を踏み出す。
「――さぁさ道行く方々、一寸とばかりは足を止めては観て聞いたっ。
我が社の記者が危険を承知で、一等乗りに
こいつで洲都一の事情通になれること請け合いってもん。――あ、そこのお姐ぇさん、 、」
「彼奴っ。
「――よせ。事を荒立てたら、面倒が増す」
熱る
囃し立てる雑音を、学帽を目深に被って耐える。
「――そう。それで正解だよ、
利用している僕が云うのもなんだが、連中は通り過ぎる嵐のようなものさ」
曲がり角まで来たところで、背中に投げられた声に
振り向く先に立つ、水兵服に短い髪の少女。
「……お久しぶりです。真逆、誉さまが出迎えに来られるとは思っていませんでした」
「そこまで薄情だと? 悲しい事を云ってくれるね。
これでも君のことは、気の置けない友人だと思っていたんだけど」
「だから、距離を置く方に判断されるとばかり」
通りの先で待たせていた蒸気自動車へと案内される侭に、
駆動音と流れる窓の外を横目に、やや渡る沈黙を破ったのは
「これでも学期の成績を競った仲だろう。
――と云ったものの、反対意見が根強かったのは事実だ」
「そうでしょう。
「
何しろ
「裏があるだけ有り難い。それが僕の命綱になってくれる可能性がありますから」
短い
裏表があるのは、何も悪い事実ばかりではない。
裏がある事実を畏れるのは、単に無知と教養が足りないから。
――それを理解しないものが何と多い事か。
「ま、
西巴大陸のように徴用ってのは品が無いし、困っていたんだ」
「海軍ですか。正直、遠征に出る機会があるなんて思っても見ませんでした」
「体裁だけ軍学校に入って貰うけど、恐らく年明けにも外洋訓練に出て貰う。
――あらゆる面で時間が無いんだ。
「大丈夫です」
迷いなく返る友人の肯いに、誉は内心で安堵を浮かべた。
澄んだ眼差しには、晶への憎しみは無い。
後は時間が癒してくれると信じ、この提案は晶の依頼からである事実を、
――そっと己の心の奥に潜めて隠した。
♢
最後まで悩んだ颯馬の結末。
これで閑話は終了です。
来週より本編に戻ります。
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