5話 戯れに謀る、終わりも知らず1

「今、確かに……」

 ――僅かだが、山巓陵を渡る大気が震えたな。


 自身の知る限り、神域で覚えた事の無い感触。旧交を温めていた御厨みくりや至心は、漫ろ歩く爪先を止めた。

 気付いてしまえば、頬を撫でる微風にも違和感が。

 ――現世から流れる外気だ


「どうされましたか、父上?」

「……いや」


「――ほほ、これは珍しい。御厨みくりやのご隠居が参内とは。

 儂の晴れ舞台じゃ、共に言祝いで下さるのかな」


 怪訝な御厨弘忠息子の口を制し、至心は背中に歩み寄る気配へと向けた。

 巡る視線の先には、初老の男性が独り。歓迎で糊塗された嘲りに、両者だけ判る緊張が奔る。


「はは。足腰が弱る前に一度だけでもと、現当主息子から勧められまして。

 懐かしい顔触れと会話をするのも、悪いものではありませんな。――石蕗殿」

「左様ですか。大役を退かれては、部洲とちかしくするばかり。

 央洲おうしゅうには興味も失せたのだろうと、専らの噂でしたが」

「稀しい土行の遣い手は、昨今では数も減らすばかり。部洲の気風は央都にこそ必要なものと思ったばかりですな。そうそう。風の噂に、近衛の動きが随分と悪くなったと。内府が近衛護持きんえいごじとは、いやはや、流石に荷も勝つらしい」


 にこやかな応酬の裏で、刺し合う皮肉。心中の痛い部分を突かれ、石蕗家当主の石蕗佐門つわぶきさもんが僅かに唇を震わせた。

 内府官吏筆頭を歴任してきた石蕗家と近衛筆頭の御厨家みくりやけは、舞台を問わず対立を繰り広げてきた間柄である。

 御厨家みくりやけを近衛筆頭から蹴落とし、石蕗家がほぼ全ての権限を握ったのが20年ほど前。

 盤石と思えたその政治基盤も、百鬼夜行での醜態に大きく揺れ動いていた。


「――何。守備隊の総隊長に在った愚物は、丁度、首も挿げ替えようとしていたところ。

 彼奴めも責任を覚えたようでしてな、宮さまのお目汚しとなる前に始末はつけさせましたが」

「愚物の処分は当然。

 ――だが、問われてそこで終わりでは、納まりもつかんかと」

「ふん」


 普段は旧家の取り巻きに護られている身分だが、旧家筆頭の佐門であっても神嘗祭の最中では簡単に派閥だけで仲良しとも云ってられない。

 嘗て政争を繰り広げた至心からの嫌味に、石蕗の当主である男は鼻を鳴らした。


 央都の近衛職は当然、守備隊の要職に至るまでが石蕗佐門つわぶきさもんの意向で運営されているのは有名な事実。

 任命責任が至心の眼前へと辿られるのは、云わずもがなの帰結であろう。


「守備隊も近衛も、総入れ替えは難しかろう。

 相応しいものと近場を漁っていれば、少ない旧家の面子は簡単に枯渇もする」

「だから問わずと? 否早、佐門殿の度量には感服する。

 ――そう云えば儂が近衛を退いた理由も、誰ぞが任命責任を声高に叫んだからであったな」

「……それは、ただの一面よ。寧ろ、ご自身の声望の低さに足を掬われたのが、理由を大きく占めていたのでは?」

「何ぃっ」


 嘗て己が仕出かした失態を突かれ、至心の頬が紅潮した。

 老躯が思わず前のめりとなり、弘忠ひろただの制止に爪先を止める。


「はは。旧家筆頭の重責故、口が過ぎた事も謝罪しよう。

 我らの本番は明日の中日程よ。今は精々、旧交を温めておくが宜しかろう」


 至心の様子に手応えを感じたのか薄く嗤い、佐門は踵を返した。

 神嘗祭も未だ初日程。三宮四院八家を除けば、明日の三宮御覧を前に派閥の意向を確認し合うための時間である。


 佐門は背中越しに、敢えて至心へと近づいた本題を口にした。


「――旧家歴代の悲願は、隠居の身でも承知していよう。

 此度に漸く、この佐門の代にして叶うのだ。この数日を大人しくしていれば、近衛の後見として意見侭を赦すにやぶさかでは無いぞ」


「この。儂が……」「父上」


 青筋を浮かべた至心より早く、弘忠ひろただ掣肘せいちゅうが間に合う。

 云うに足りない様子の父親と代わり、御厨みくりや現当主が前へと出た。


「石蕗殿の言、確と御厨家みくりやけは受け止めています。

 旧家の悲願もまた、心おきなく果たされるが宜しいかと」

「結構。話は以上よ、精々、近衛の後釜を見繕っておき給え」


 腰も低く、一応は恭順の姿勢を見せる弘忠ひろただを前に、佐門は言葉を切り上げた。

 この場に立つものは、旧家の出身だけではない。各洲の有力な所領華族も雁首を揃えているのだ。


 政敵に釘を刺すためとは云え、旧家の結束を疑われる行為は控えるべきであろう。

 颯爽と去る佐門の背中を忌々し気に見送り、至心は愚痴混じりに言葉を紡いだ。


「怨敵を前に耐えて頂き、ありがとうございます。……父上」

「我らの悲願も後少しなのだ。

 しかし、あれだけの失態を許した挙句、宮家から権利を貪ろうとは。奴の俗物も極まったな」

「目の敵だろう我らにあそこまで譲歩して、この数日の沈黙を謀ったのです。こちらの想定は、恐らく間違いないかと。

 三宮御覧の緒戦こそ石蕗家に譲れば、後は遠慮せずに石蕗の戦果ごと我らの総取りが叶います」

「く。それは痛快よな。

 油断するなよ、弘忠ひろただ。石蕗の絶頂も、明日の御覧を最期にしてやれ」


 その瞬間を待ち望む至心の声に、弘忠ひろただは声も無く首肯で返した。


 神嘗祭にける年次大綱は、三宮四院八家のみが参加を許される初日程で取り纏められる。ここには参加にも特別な許可が必要になる上、三宮四院八家以外の意見が通る事も無いのだ。


 ――そう。旧家とてその辺りに例外はなく、参加を許された前例も無い。


 八家は旧家と同格と認めてやっている。そううそぶいていても、否応なく家格の差を見せつけられる瞬間だ。

 年次大綱を取り纏める場を仕切り、旧家として三宮四院八家を配慮してやる地位に任じられる事こそ、石蕗家、引いては旧家としての悲願。

 今回の三宮御覧にいて石蕗家は、その地位を明確に狙っていた。


 勝算が無い訳ではない。これまで三宮は、旧家の判断に対して特に却下することは無かったからだ。

 雅樂宮うたのみやもそうだが、藤森宮ふじのもりみやの所有する近衛や守備隊の権限を、特に言及する事無く旧家の要請に従って譲渡している。


 歴代からだが、三宮は政治的な権利に対する執着を余り見せない事も理由の一つだ。

 今回の要請は三宮四院八家の権限を大きく喰い込むことになるが、それでも三宮が見せた失態を突けば譲歩も容易いと石蕗家も考えているのだろう。


 ――だからこそ、御厨みくりや弘忠ひろただの狙いも活きてくる。

 石蕗家に権限を奪わせ、その後で旧家の騒動として石蕗家を処分する。

 そうすれば、石蕗家の利権ごと御厨家みくりやけが総てを手にする結果が生まれる。


 これは、石蕗佐門つわぶきさもんでは不可能な立場に在る。今回の一件でさえも、表面上は無関係であった御厨家みくりやけでこそ可能な策動と云えた。


「ご安心ください。昨今の石蕗家は失態も多く、権限に任せて黙殺している有様です。

 此度の利権蚕食も、それらの失態を糊塗する意味合いが強いのでしょう」

「派閥の取り込みはどうなっている」

「囮として派手に近づいた近衛周辺はともあれ。――慌てていなかった辺り、内府も取り込まれているとは気付いていないかと」

「知らぬは彼奴めのみばかりか。ならば儂は、久我くが家との関係を精々強調するとしよう」


 薄く嗤い、至心は今度こそ派閥固めに動き始めた。

 追従する弘忠ひろただも、抜け目なく周囲の力関係を図り始める。


 彼らにとって、神嘗祭は未だ、その本番を迎えてすらいなかった。


 ♢


 きしり。骨張った爪先が透渡殿に落ちる度、微かな音が連れるように鳴く。

 清かに流れる水の囁きも穏やかに、老躯は広がる山巓湖の脇を只管に歩いた。


「天覧仕合もたけなわといった辺りかの。さて、神無かんな御坐みくらが相手であれば、此方もそろそろ深部に侵入せねばならんか」


 雨月との密談を終えた真崎さねざき之綱ゆきつなは、その真意を悟らせる事なく独り呟く。

 ――天覧仕合の結果は、晶の勝利で疑っていない。


 仮令たとえ颯馬そうまが実力で優っていようとも、勝利自体は必ず晶に齎されるのだ。

 だからこそ、天山たちに唆した策は、試合の決着を数秒でも引き延ばす為のもの。


 天覧仕合に誰もが釘付けとなっている今、神域の深部に対する警戒は、非常に薄くなっているのだから。


 思考に連れ漫ろ歩くその向こうから、歩く人影が視界に映った。

 視界を眼帯で覆う少女。雅樂宮うたのみや亜矢が、邪気も窺えない微笑みを之綱ゆきつなへと向ける。


「――おや、真崎さねざき翁。未だ此方に居られたのですか?」

「これは雅樂宮うたのみやさま、お恥ずかしい処を見られましたな。

 無事のお役御免にこの光景も見納めと思えば、随分と感慨深く在りまして」

「左様ですか。翁殿が山巓陵に登殿するようになって、幾年が経ったのでしょうか」

「10代の終わりからですから、60年にもなりましょう。……色々とありました。

 雅樂宮うたのみや様の代替わりも見届けた事、あの世の自慢代わりになるでしょう」

「ふふ。三宮の寿命に追いついたならば、確かに」


 少女が口元で含む微笑みに、之綱ゆきつなは僅かな警戒を浮かべた。

 天覧仕合の行方をさて置いて、ただの老人でしかなくなった此方の前に現れたのだ。


 警戒されたかと危惧を圧し殺し、当たり障りなく話題を向ける。

 談笑も交えつつ、やがて之綱ゆきつなは辞去の言葉を口にした。


「それでは、そろそろ失礼させていただきたく」

「あら、引き留めてしまいましたか。――申し訳ありません」

「はは。山巓陵の最後の機会に、儂も良い思い出が出来ましたな」


 にこやかに、2人の肩がなぞれ違う。

 何処までも穏やかな光景は、之綱ゆきつなの背中に少女の声が投げられるまで続いた。


「そうそう。これで漸く、確信が持てました。

 ――貴方は、ラーヴァナであって、ラーヴァナでは無いのですね」

「………………何の事でしょうか?」


 何気ない言葉で真実が貫かれ、之綱ゆきつなの爪先が凍った。

 致命的なまでの、告白代わりの隙。


「隠す必要はもうありませんよ。神柱としての格を完全に封じ、ただ・・人として振舞う。――此方も想定していましたが、ラーヴァナと貴方はどれだけ認識を共有できるのかそれが判らなかったので」


 亜矢の言葉に宿る確信の響きに、之綱ゆきつなは諦めて踵を返した。

 眼前に映る、何処までも自然体の少女の姿。


「……何時から気付いておられたので?」

藤森宮ふじのもりみやにラーヴァナの神託を告げた瞬間、敗北が確定する状況を逆算すれば自ずと。

 ――奇鳳院くほういんの、否、波国ヴァンスイールの使節が齎した情報が決定打でした」


 波国ヴァンスイールで蠢動した、神父ぱどれを名乗る男の詳細。徹底して足跡は隠されていたが、それでも矛盾は幾つかある。

 決定的なのは、波国ヴァンスイール高天原たかまがはらの距離だ。大洋を3つ越えなければならない、隔絶したそれ。

 蒸気機関を搭載した快速船を酷使しても、片道に半年はかかる距離である。


 往復も侭ならない状況、高天原たかまがはら波国ヴァンスイールでほぼ同時期に蠢動しているのだ。

 特に万朶ばんだの立場を奪った辺りが、神父ぱどれの活動とほぼ重なっている。


 ただの替え玉では有りえない。思考もほぼ同期した、腹心以上の存在。

 ――少なくとも、ラーヴァナが二柱は存在していなければ説明がつかない。


「もう一つ。波国ヴァンスイールの神子、ベネデッタ・カザリーニは一度だけ、神父ぱどれと顔を会わせているそうですが、神父ぱどれは面をつけていなかったと証言を受けています」


 半神半人の血筋は、九法宝典の他人を演じる権能に対して抵抗ができる。

 正しくその通り、晶や嗣穂つぐほはラーヴァナを見破った際、九法宝典を木彫りの面として認識していた。

 ――だが、同じく神子である筈のベネデッタ・カザリーニには、神父ぱどれがただの人間としか視えていなかった。


 だからこそ、矛盾が浮き彫りになる。

 それは、ラーヴァナの神器を知れば漸く、想定に浮かび上がる仮定の一つ


「ラーヴァナが客人神の正体だと気付いてから、此方も貴方を徹底的に調べ上げました。

 特に神器。ラーヴァナが修めたとされる、荒行の象を」


 九法宝典は、10あるラーヴァナの頸を9つまで斬り落とし、火口に焚べた荒行を象とした神器である。

 ただ・・人としての祝福をそれぞれの頭に修めた、10の宝典こそ九法宝典の本質。


「九法宝典の最後に隠された10番目の宝典。人間の本質アハンカーラ真崎さねざき翁、貴方です」


 極限まで存在を隠しきり、万が一、策に敗れたラーヴァナが復活するための最終手段。

 10番目の宝典が有する権能はたった一つ。神柱としての格を剥奪し、ただ・・人として生を過ごす能力。


「……儂がそれだと、能く予想がつきましたな」

「苦労しましたよ。ですが、直接的な記憶の共有までは出来ないのでしょう? それが致命的な隙を与えてくれました。

 確信を得たのはつい先刻。貴方は、晶さまが空の位だと知らなかった」


 ――まあ、逃がすような隙もありませんけどね。


 お道化た亜矢の言葉を理解するにつれ、思わず之綱ゆきつなは苦笑を漏らした。

 確かにそれは致命的な隙だ。――相手が空の位に至っているならば、策の全てをなげうってでも之綱ゆきつなは離脱を選択していたのだから。


 十干じっかんの大法。神域の要を晶が雨月から奪うだろう瞬間こそ最大の隙になるはずだが、それが無と帰したらどうしようもなくなる。


「――それでも、八家の誰が取り込まれているとは確信も無かったでしょうに?」

「ええ、流石に。……ですが、神父ぱどれとは誰か、が最後の手掛かりとして残りました」


 流石の九法宝典も、人間を創り出すことは不可能。

 であれば神父ぱどれも、基礎となった相手が居なければならない。


 神父ぱどれが青年の姿でアンブロージオと接触したのが、15年前だと記録にあった。――つまりそれ以前に青年であり、現在も八家の縁者として山巓陵に立っているものが九法宝典の最後アハンカーラだ。

 ここまで可能性を削れば、対象は真崎さねざき之綱ゆきつなしか残っていなかった。


「詰みですか」

「ええ。晶さまの比翼足らんと、身の丈を追いつかせた少女がシータと契約しました。

 ――彼女の契約を叶えるためにも、貴方をランカー領へと還す必要がある」


 神柱との契約は絶対だ。特に、救世を象とするシータとの契約は、生涯を賭けても為さねばならない決定的な理由となる。

 救いは、契約した以上、成立する事も決定しているという辺りか。


 事も此処ここに至り、之綱ゆきつなは覚悟を決めた。


「これは参りました。……が、人間の本質アハンカーラである通り、儂も最後まで足掻かせていただきましょう」

「ええ、存分にどうぞ。私も、貴方を捕えるために充分策を施しましたので」


 腰を落とす之綱ゆきつなの老躯が、不意にざわりと蠢いた。

 見る間に肌が張りを取り戻し、特徴が薄くも若い姿へと変貌する。

 ――幾許も経たない内に、そこには神父ぱどれとも呼ばれた青年が立っていた。


 仮令たとえ、表だって活動はしなくとも、之綱ゆきつなは八家の当主を過不足なく治めている。

 陣楼院じんろういん流の遣い手としても相応に。眼前のか弱い少女1人だけを相手するならば、逃げ果せることも不可能ではない。

 ――それだけを勝算に、懐に忍ばせた短刀の精霊器を引き抜いた。


 相対する雅樂宮うたのみや亜矢は無手のまま。微笑みを残し、頭の後ろへ指を向けた。

 ――抓むように、眼帯の結び目を解く。


「――月宮つきのみやの神器が知られていない事実を、不思議に思ったことはありませんか?

 これこそ、その理由です」


 しゅるり、しゅる。僅かに絹の音を残し、眼帯が少女の足元にわだかまった。

 隠されていた双眸を見開き、視界の中心にアハンカーラを捉える。


 両の眼差しの中央で、重なるように二つの黒瞳が瞬いた。


 血肉を備えた生ける神器。太極にける陰の相たる雅樂宮うたのみやが、神威を解放する。

 未来を見通し過去を閉ざす重瞳ちょうどうこそ、その権能の具象だ。


「漸く、神柱たる貴方を封じる事が叶いました。

 ――おやすみなさい、ラーヴァナ。シータが貴方の還りを待っていますよ」


 決着は静かな内に、抵抗は最早なかった。

 気付いた時に真崎さねざき之綱ゆきつなの姿は無く、そこには無表情な木彫りの面が一つ残されているだけであった。


 ♢


小説家になろうで、この伏線を仕込んだのが2022年の4月9日。

回収までに、2年。遅筆な事、申し訳ございません。


あ。って思っていただけたらすごく嬉しいです。


読んでいただきありがとうございます。

よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。

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