5話 戯れに謀る、終わりも知らず1
「今、確かに……」
――僅かだが、山巓陵を渡る大気が震えたな。
自身の知る限り、神域で覚えた事の無い感触。旧交を温めていた
気付いてしまえば、頬を撫でる微風にも違和感が。
――現世から流れる外気だ
「どうされましたか、父上?」
「……いや」
「――ほほ、これは珍しい。
儂の晴れ舞台じゃ、共に言祝いで下さるのかな」
怪訝な
巡る視線の先には、初老の男性が独り。歓迎で糊塗された嘲りに、両者だけ判る緊張が奔る。
「はは。足腰が弱る前に一度だけでもと、
懐かしい顔触れと会話をするのも、悪いものではありませんな。――石蕗殿」
「左様ですか。大役を退かれては、部洲と
「稀しい土行の遣い手は、昨今では数も減らすばかり。部洲の気風は央都にこそ必要なものと思ったばかりですな。そうそう。風の噂に、近衛の動きが随分と悪くなったと。内府が
にこやかな応酬の裏で、刺し合う皮肉。心中の痛い部分を突かれ、石蕗家当主の
盤石と思えたその政治基盤も、百鬼夜行での醜態に大きく揺れ動いていた。
「――何。守備隊の総隊長に在った愚物は、丁度、首も挿げ替えようとしていたところ。
彼奴めも責任を覚えたようでしてな、宮さまのお目汚しとなる前に始末はつけさせましたが」
「愚物の処分は当然。
――だが、問われてそこで終わりでは、納まりもつかんかと」
「ふん」
普段は旧家の取り巻きに護られている身分だが、旧家筆頭の佐門であっても神嘗祭の最中では簡単に派閥だけで仲良しとも云ってられない。
嘗て政争を繰り広げた至心からの嫌味に、石蕗の当主である男は鼻を鳴らした。
央都の近衛職は当然、守備隊の要職に至るまでが
任命責任が至心の眼前へと辿られるのは、云わずもがなの帰結であろう。
「守備隊も近衛も、総入れ替えは難しかろう。
相応しいものと近場を漁っていれば、少ない旧家の面子は簡単に枯渇もする」
「だから問わずと? 否早、佐門殿の度量には感服する。
――そう云えば儂が近衛を退いた理由も、誰ぞが任命責任を声高に叫んだからであったな」
「……それは、ただの一面よ。寧ろ、ご自身の声望の低さに足を掬われたのが、理由を大きく占めていたのでは?」
「何ぃっ」
嘗て己が仕出かした失態を突かれ、至心の頬が紅潮した。
老躯が思わず前のめりとなり、
「はは。旧家筆頭の重責故、口が過ぎた事も謝罪しよう。
我らの本番は明日の中日程よ。今は精々、旧交を温めておくが宜しかろう」
至心の様子に手応えを感じたのか薄く嗤い、佐門は踵を返した。
神嘗祭も未だ初日程。三宮四院八家を除けば、明日の三宮御覧を前に派閥の意向を確認し合うための時間である。
佐門は背中越しに、敢えて至心へと近づいた本題を口にした。
「――旧家歴代の悲願は、隠居の身でも承知していよう。
此度に漸く、この佐門の代にして叶うのだ。この数日を大人しくしていれば、近衛の後見として意見侭を赦すに
「この。儂が……」「父上」
青筋を浮かべた至心より早く、
云うに足りない様子の父親と代わり、
「石蕗殿の言、確と
旧家の悲願もまた、心おきなく果たされるが宜しいかと」
「結構。話は以上よ、精々、近衛の後釜を見繕っておき給え」
腰も低く、一応は恭順の姿勢を見せる
この場に立つものは、旧家の出身だけではない。各洲の有力な所領華族も雁首を揃えているのだ。
政敵に釘を刺すためとは云え、旧家の結束を疑われる行為は控えるべきであろう。
颯爽と去る佐門の背中を忌々し気に見送り、至心は愚痴混じりに言葉を紡いだ。
「怨敵を前に耐えて頂き、ありがとうございます。……父上」
「我らの悲願も後少しなのだ。
しかし、あれだけの失態を許した挙句、宮家から権利を貪ろうとは。奴の俗物も極まったな」
「目の敵だろう我らにあそこまで譲歩して、この数日の沈黙を謀ったのです。こちらの想定は、恐らく間違いないかと。
三宮御覧の緒戦こそ石蕗家に譲れば、後は遠慮せずに石蕗の戦果ごと我らの総取りが叶います」
「く。それは痛快よな。
油断するなよ、
その瞬間を待ち望む至心の声に、
神嘗祭に
――そう。旧家とてその辺りに例外はなく、参加を許された前例も無い。
八家は旧家と同格と認めてやっている。そう
年次大綱を取り纏める場を仕切り、旧家として三宮四院八家を配慮してやる地位に任じられる事こそ、石蕗家、引いては旧家としての悲願。
今回の三宮御覧に
勝算が無い訳ではない。これまで三宮は、旧家の判断に対して特に却下することは無かったからだ。
歴代からだが、三宮は政治的な権利に対する執着を余り見せない事も理由の一つだ。
今回の要請は三宮四院八家の権限を大きく喰い込むことになるが、それでも三宮が見せた失態を突けば譲歩も容易いと石蕗家も考えているのだろう。
――だからこそ、
石蕗家に権限を奪わせ、その後で旧家の騒動として石蕗家を処分する。
そうすれば、石蕗家の利権ごと
これは、
「ご安心ください。昨今の石蕗家は失態も多く、権限に任せて黙殺している有様です。
此度の利権蚕食も、それらの失態を糊塗する意味合いが強いのでしょう」
「派閥の取り込みはどうなっている」
「囮として派手に近づいた近衛周辺はともあれ。――慌てていなかった辺り、内府も取り込まれているとは気付いていないかと」
「知らぬは彼奴めのみばかりか。ならば儂は、
薄く嗤い、至心は今度こそ派閥固めに動き始めた。
追従する
彼らにとって、神嘗祭は未だ、その本番を迎えてすらいなかった。
♢
きしり。骨張った爪先が透渡殿に落ちる度、微かな音が連れるように鳴く。
清かに流れる水の囁きも穏やかに、老躯は広がる山巓湖の脇を只管に歩いた。
「天覧仕合も
雨月との密談を終えた
――天覧仕合の結果は、晶の勝利で疑っていない。
だからこそ、天山たちに唆した策は、試合の決着を数秒でも引き延ばす為のもの。
天覧仕合に誰もが釘付けとなっている今、神域の深部に対する警戒は、非常に薄くなっているのだから。
思考に連れ漫ろ歩くその向こうから、歩く人影が視界に映った。
視界を眼帯で覆う少女。
「――おや、
「これは
無事のお役御免にこの光景も見納めと思えば、随分と感慨深く在りまして」
「左様ですか。翁殿が山巓陵に登殿するようになって、幾年が経ったのでしょうか」
「10代の終わりからですから、60年にもなりましょう。……色々とありました。
「ふふ。三宮の寿命に追いついたならば、確かに」
少女が口元で含む微笑みに、
天覧仕合の行方をさて置いて、ただの老人でしかなくなった此方の前に現れたのだ。
警戒されたかと危惧を圧し殺し、当たり障りなく話題を向ける。
談笑も交えつつ、やがて
「それでは、そろそろ失礼させていただきたく」
「あら、引き留めてしまいましたか。――申し訳ありません」
「はは。山巓陵の最後の機会に、儂も良い思い出が出来ましたな」
にこやかに、2人の肩が
何処までも穏やかな光景は、
「そうそう。これで漸く、確信が持てました。
――貴方は、ラーヴァナであって、ラーヴァナでは無いのですね」
「………………何の事でしょうか?」
何気ない言葉で真実が貫かれ、
致命的なまでの、告白代わりの隙。
「隠す必要はもうありませんよ。神柱としての格を完全に封じ、
亜矢の言葉に宿る確信の響きに、
眼前に映る、何処までも自然体の少女の姿。
「……何時から気付いておられたので?」
「
――
決定的なのは、
蒸気機関を搭載した快速船を酷使しても、片道に半年はかかる距離である。
往復も侭ならない状況、
特に
ただの替え玉では有りえない。思考もほぼ同期した、腹心以上の存在。
――少なくとも、ラーヴァナが二柱は存在していなければ説明がつかない。
「もう一つ。
半神半人の血筋は、九法宝典の他人を演じる権能に対して抵抗ができる。
正しくその通り、晶や
――だが、同じく神子である筈のベネデッタ・カザリーニには、
だからこそ、矛盾が浮き彫りになる。
それは、ラーヴァナの神器を知れば漸く、想定に浮かび上がる仮定の一つ
「ラーヴァナが客人神の正体だと気付いてから、此方も貴方を徹底的に調べ上げました。
特に神器。ラーヴァナが修めたとされる、荒行の象を」
九法宝典は、10あるラーヴァナの頸を9つまで斬り落とし、火口に焚べた荒行を象とした神器である。
「九法宝典の最後に隠された10番目の宝典。
極限まで存在を隠しきり、万が一、策に敗れたラーヴァナが復活するための最終手段。
10番目の宝典が有する権能はたった一つ。神柱としての格を剥奪し、
「……儂がそれだと、能く予想がつきましたな」
「苦労しましたよ。ですが、直接的な記憶の共有までは出来ないのでしょう? それが致命的な隙を与えてくれました。
確信を得たのはつい先刻。貴方は、晶さまが空の位だと知らなかった」
――まあ、逃がすような隙もありませんけどね。
お道化た亜矢の言葉を理解するにつれ、思わず
確かにそれは致命的な隙だ。――相手が空の位に至っているならば、策の全てを
「――それでも、八家の誰が取り込まれているとは確信も無かったでしょうに?」
「ええ、流石に。……ですが、
流石の九法宝典も、人間を創り出すことは不可能。
であれば
ここまで可能性を削れば、対象は
「詰みですか」
「ええ。晶さまの比翼足らんと、身の丈を追いつかせた少女がシータと契約しました。
――彼女の契約を叶えるためにも、貴方をランカー領へと還す必要がある」
神柱との契約は絶対だ。特に、救世を象とするシータとの契約は、生涯を賭けても為さねばならない決定的な理由となる。
救いは、契約した以上、成立する事も決定しているという辺りか。
事も
「これは参りました。……が、
「ええ、存分にどうぞ。私も、貴方を捕えるために充分策を施しましたので」
腰を落とす
見る間に肌が張りを取り戻し、特徴が薄くも若い姿へと変貌する。
――幾許も経たない内に、そこには
――それだけを勝算に、懐に忍ばせた短刀の精霊器を引き抜いた。
相対する
――抓むように、眼帯の結び目を解く。
「――
これこそ、その理由です」
しゅるり、しゅる。僅かに絹の音を残し、眼帯が少女の足元に
隠されていた双眸を見開き、視界の中心にアハンカーラを捉える。
両の眼差しの中央で、重なるように二つの黒瞳が瞬いた。
血肉を備えた生ける神器。太極に
未来を見通し過去を閉ざす
「漸く、神柱たる貴方を封じる事が叶いました。
――おやすみなさい、ラーヴァナ。シータが貴方の還りを待っていますよ」
決着は静かな内に、抵抗は最早なかった。
気付いた時に
♢
小説家になろうで、この伏線を仕込んだのが2022年の4月9日。
回収までに、2年。遅筆な事、申し訳ございません。
あ。って思っていただけたらすごく嬉しいです。
読んでいただきありがとうございます。
よろしければ、ブックマークと評価もお願いいたします。
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