10話 日々の終わりは突然に、微笑みが告げる2
――高御座。
渡り廊下に腰を下ろした少女は、金無垢の双眸を微笑みに翳らせながらそう告げた。
白衣に藍の着物。
「強引な手管で呼び込んだこと、先ずは詫びておこう。
何しろこの後を思えば、落ち着いて会話を交わす機会を持つ事も難しかろうしな」
「――本当に、」
「
神柱は偽らぬ。その事実をして、其方には何よりの保証になると思うが」
黄金の輝きを放つ長髪を揺らし、同じ輝きを宿した眼差しで中庭に遊ぶ爪先を眺める。
その姿は如何にも人臭く、だが
高御座の
五行に
公に知られている事実はそれだけだ。
それに神柱は偽れないと云う前提は、
故に、眼前の少女が真にその通りの存在であると、晶は完全な確信を得ることは出来なかった。
「判らないことが幾つかあります」
「聞こう」
「
――どうやってここに足を運べたのでしょう?」
鐘楼山の風穴にほど近くとも、晶たちの立つ場所は龍穴でも風穴でも無い。
神柱が、
如何に強大な神柱であろうとも。
――否。強大な神柱であれば尚の事、現世に足をつけて闊歩する事は叶わないはずである。
「その応えは既に返した。私が其方の元へ足を運んだのではない、其方が私の夢へと渡ったのだ」
「夢渡り、ですか」
端的に少女が断じ、晶も先刻の会話にその言葉が浮かんだ事を思い出した。
神柱が
「然り。其方が私の領域へと足を踏み入れたことは、最初から気付いていた。
――言葉にしても実感が湧かなかろうが、央都は余すところなく私の祭壇。神域の表層であるが故」
殊に細かい部分で護られていた事実に、晶の頬にも赤みが差した。
「……俺に、何を望んでいるんですか?」
姿勢を正し、勢い込んでそう口にする。
己が
「何も」
だが、純金の少女は酷く端的に、それだけを返す。
「気負うことは無い。神代に杭を穿つものは、人の世における自由を約されておる。其方は望むが侭、好きに振舞うが善い」
「それは」
――それは、ただの欺瞞だろう。
雨月での日々が記憶に過ぎり、晶は両の拳を握り締めた。
今が良ければ、過去の不遇を忘れられるだろう。と正論で頬を叩かれても、納得いかないのが人心だ。
どんなに優しくされてもどこまで癒されても、過去が書き換えられる訳では無い。
晶にとって、今ある優しさの薄皮一枚下に焼きついているのは、雨月の中広間で平伏させ続けさせられた記憶。
無意味に尊厳を踏み躙られた、
「事実として、
「――だからと云って、好きにしても良いという理由にはならないだろ。
この怒りを好きにしていいならば、結局、歯止めすら利かなくなってしまう」
「その総てを、
好きにせよ。とは、そう云う事だ。
――其方だけではないぞ。我が前夫にも、その後に続いた其方の同輩にも、同じく言葉を告げておる」
晶の迷いを受けて尚、揺らぐことなく高御座の
過去の記憶に耐える晶へと向けるその眼差しは、迷う子供を容れる母の如く、
……そして、人の世を顧みない神柱の傲慢さに満ちていた。
「畏れるならば迷うが善い。自由の権利とは、結論を出す義務を負う事でもある。
何れ出さねばならぬ終焉なら、焦らず迷い確実に望みへと導くが最上なれば」
空を泳ぐ高御座の指が、掌ほども無い小さな木彫りの盃を弄ぶ。
満たされる甘い香りで唇を湿らせて、質素な造形のそれを晶へと向けた。
「毒味の真似事じゃ、気にせず呑むが善い」
「変若水ですか」
晶は手に取ろうとするが、躊躇うように指先が泳ぐ。
記憶の中で、何故か朱金の少女が唇を尖らせたからだ。
「
――それとも、
「いいえ。
――いただきます」
悪戯めいて問う高御座の挑発に乗り、勢い込んで盃を手に取った。
口に含むと同時に鼻腔を抜けていく、圧倒的な甘さと共に爽やかな香り。
生命の気配を欠片も感じることの無い日差しの中、穏やかな時間がただ過ぎていった。
「さて、本題に入るとするか。
――
「!」
「然り。彼奴目の狙いは央都なれば、神託が私の掌中にあるは必然よ。
だが、神託の限界が問題でな。読めたのは百鬼夜行の戦端が何処で開かれるか迄であったのよ」
木彫りの盃を脇に置いて、高御座は悩まし気に眉根を寄せる。
その姿を目に、晶は首を傾げた。
「神託は、
下ろした本人が、神託に疑念を立てるのは不自然な気もしますが」
「
――下手に結果を読んでしまえば、神託は絶対の結果として確定してしまう」
選び得る未来は、無数に存在する。
だが、訪れる未来が一つしかないのも、又、絶対の真理なのだ。
嘘のつけない神柱が未来を観測した瞬間、過程が確定し訪れる結末も一つとなる。
観測された結果は不可避。それは、敗北の未来であったとしても変わりは無い。
「では、神託とは……」
「勝敗が確定する、その分岐点を読むのだ。
本来なら起きる出来事の詳細まで読めるはずなのだが、今回の百鬼夜行はその殆どが見透せなんだ」
それは、高御座として
得られたのは僅かに一つ。百鬼夜行が央都を襲う、その事実だけ。
「しかし、逆に論理を辿るならば、対応策も立てることが出来よう。
百鬼夜行の戦端までしか読めなかったと云う事は、それ以降の定跡は悪手であるという事」
戦略に
神柱も龍穴も動かすことが不可能。そうである以上、神柱が選択する定跡も守勢が基本であった。
――だが、勝敗が確定する分岐点が百鬼夜行の戦端以前であったならば、本来、高御座の取るべきであった
「故に私は、百鬼夜行に対して攻勢に出る事を決定した。
具体的には
――そろそろ、私が敷いた策動に、向こう方も気付いている頃合いであろうな」
♢
濃密な瘴気溜まりは心地も良いが、やはり、外の風に触れると一味違う感慨にも襲われる。
ぎりり。錆びついた躯の筋肉が軋みを上げて、久方ぶりの解放に悦びを謳う。
―――
周囲に蠢く瘴気の気配が、巨大な老鬼の帯びる歓喜に迎合の唸りを併せた。
その背中へと、呆れの響きを多分に含ませた男の声が掛かる。
「童子殿。これは一体、如何したことかね?」
「……我ラハ、百鬼夜行ヲ支配シテイル訳デハナイカラナ。
周囲カラ掻キ集メタ化生ヤ
如何に強大な瘴気と高い知性を誇っていたとしても、分類上、
瘴気溜まりの核そのものでもある
集めた連中は総じて知性も低く、狂乱に飢えた獣程度。
我慢が利かなくなった個体から、瘴気の流れに乗って目的地へと向かうようになる。
そして、1匹が行動を起こせば2匹3匹と後に続くだろう。
群体の決壊が時間の問題となるのは、至極、明瞭な結論でしかなかった。
――そう。今まさに
「……不味いのう。未だ、五行結界に四院は揃っておらん。
「結界ノ強化ガ施サレレバ、
「でもない。央都の表層までは侵入する術を見つけてある。
――後は、小娘に預けられた杭を回収すれば良いだけじゃ」
五行結界は確かに強固な結界だ。
三宮四院の手で強化されれば、怪異であろうとも近寄るだけで浄化の危惧を抱きかねない程である。
だが、だからこそ付入る隙も生まれるのだ。
「やけに身共の策動が素直であると思っていたが、どうやら高御座の仕業のようであるな。
百鬼夜行が未熟な段階で動かすように仕組めば、此方の殲滅も可能と踏んだか」
ぎり。奥歯を鳴らして、
本来、用兵に
だが、状況が早く動き過ぎた。
戦術も望めない
「儂ガ征コウカ?」
「童子殿には別の役目もある故、動かせんよ。
少々、悪手であるが仕方があるまい。未だ陽は高いが、このまま百鬼夜行を動かす。
身共たちの動きも制限されるが、決戦が夜半になれば帳尻も合うはずじゃ」
「フム」
しかし、他に手段も見当たらない。
「所詮ハ囮程度、仕方アルマイ。
儂ハ本陣二戻リ合図ヲ待ツ、御大将ノ狼煙ト同時二動コウサ」
「……待たれよ」
未だ思考に沈む
じゃり。砂粒を踏み躙る音に混じり、巌の如き老鬼の背中に
「何カ」
「童子殿の旗下から、般若を貸して欲しい。
最悪、人語繰りが望めればいいが」
「問題無イ、後デ寄越ソウ」
短い問答の後に、
瘴気が茫漠と辺りを満たす中、それでも翳りの窺えない日差しを
「一手を譲った事実は認めましょう。
――ではあるが、この程度の抵抗を想定しなかったとでも?
四院を集めて五行結界を強化する流れは、身共も把握しておりますぞ」
―――卑、非。
五行結界の強化を予定に組んでいるという事は、
策の開始が早められただけであるならば、布陣を状況に合わせて変えればいい。
五行の要山に四院が到達するならば、方針そのものを変える必要はないからだ。
策が動いてしまった以上、ここから後は、それこそ時間との勝負である。
「さて、身共も動くとしようか。
此方が狼煙を上げんと、童子殿も動くに動けんからな」
一際に濃い瘴気が
――その後に残っているのは、瘴気に
♢
「――
「動いたのであろう?」
余程の緊急事態なのか、僅かに焦りを覗かせた
事態の把握はしていたのだろう。
然程に焦りも窺えないまま、高御座は亜矢の箴言に頷いて見せた。
「百鬼夜行ですか」
「然り。彼奴目の策動を逆手にとって、戦端が開かれる時機を数日早めた。
今頃、
何しろ
純金の視線を脇に置いた盃に落とし、気怠く持ち上げる。
鷹揚なその仕草を余所に、晶は亜矢の方へと足を向けた。
――随分と、長居をし過ぎた。
「そろそろ、征きます」
「待ちや」
穏やかな
陽の光を反射しながら宙を踊るそれを、危なげなく掴む。
掌中のそれは、一片の水晶であった。
「……これは?」
「餞別よ。使い方は自ずと判ろう。
何じゃ。
悪戯に微笑む高御座の言葉に反発を覚え、晶の頬に朱が散る。
その様子を目に、少女にしか見えない眼前の神柱は声を上げて笑って見せた。
「済まぬ、戯れよ。案ずるな、娘の佳い人を横から攫うような真似はせぬ。
――それに、私はこれでも身持ちが堅いのでな、応じることは出来かねる」
喉を鳴らしながら、高御座は手を振って晶の退座を許可した。
一礼に頭を下げた晶の視界が、ゆっくりと溶け始める。
「……お礼は何時か、必ず」
「礼は不要。
――が、そうさな。礼と云うならば、余り末娘を邪険に扱わんでおくれ。
あの娘は、其方が身元に戻るのをひたすらに待ち続けているだけなのだから」
視界が溶ける中で神柱が呟いた最後の言葉は、永く晶の記憶に残る事となった。
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