閑話 蝕む夜に、瘴々と蛇が哭く

 華蓮の南方には、沓名ヶ原くつながはらと呼ばれる広大な湿原が広がっている。


 舘波見川たてばみがわが貫くそこは、湿地であるがゆえに一見では分からない沼地が多く、広大であっても地盤の緩さから永く人間を拒み続けてきた一種の魔境であった。


 この地を哨戒し、生じる穢レの討滅を任じられている11番隊は、常にはあり得ない大規模な哨戒を命じられて、その日の夕刻に所属する全員でこの広大な湿地を探索していた。


 夏の湿原だ。蛙や虫の鳴き声が耳鳴りを憶えるほどに五月蠅く、人を恐れる気配もなく賑やかに生を謳歌している。

 11番隊のものたちは、背の高い雑草をがさがさと掻き分けながら、そんな夏の湿原の深くに散らばって浸透していた。


――なんだって、いきなりこんな………………


 11番隊の末席に座る練兵の一人、佐久治さくじは、内心の不平不満を押し殺しながら、自身が所属する分隊の殿しんがりに貼り付いていた。


 佐久治の不満も当然であろう。

 大規模哨戒の任が聞かされたのは当日の昼であり、夕刻からの哨戒に間に合うように急ピッチで準備が進められたからだ。


 佐久治に至っては、今日は非番であり、ゆっくりと休みを満喫しようと気を緩ませていたところに水を差された格好なので、他のものよりも抱える不満は一層根深いものであった。


 だが、不運なのは自分一人の話ではなく、華蓮に所属する全ての守備隊が全体動員を余儀なくされていると聞いているから、辛うじてそんな境遇に耐えることができていた。


「――佐久治、不満か?」


 しかし、内心で抱えているだけのつもりだった不満も、分隊長にはお見通しだったようだ。


「はい。あ、い、いいえ。そんなことはありません」


 思わず本音で答えてしまい慌てて取り繕ったが、手遅れではあったろう。

 本来ならば叱責ものの失態ではあったが、分隊長は特に何も云うことはなく苦笑だけを口元に浮かべた。

 佐久治の不満は、隊全員も同感であったのだろう。

 隊の間からも、押し殺したような笑い声が交わされる。


「まあ、気持ちは分からんでもないが、今日は堪えておけ。

 全体動員は、奇鳳院から百鬼夜行が起きると神託が下ったからだ。

 神託である以上、百鬼夜行は必ず発生する。大規模な穢レの侵攻に、一人のほほんと休暇が取れる訳もあるまい」


「――はい。

 ですが、百鬼夜行は本当に起きるのですか?

 自分は半年前に入隊はいったばかりの新参ですが、ここ最近は瘴気濃度が非常に薄く穏やかな状態が続いていました。

 神託とは云え、瘴気の氾濫が起きるなど正直云って信じられません」


 佐久治の知識は、そこらの農村の小倅こせがれとそう変わりはない。

 神託は殿上人の催し物程度に思っていた佐久治は、神託を占術、予知の類と同じ胡散臭い大道芸のようなものとみていた。

 しかし、分隊の先頭を歩く隊長は、笑って否定した。


「信じられんだろうが、神託は絶対だ。

 神託が下った以上、それは必ず発生する。

 心しておけ、百鬼夜行はもうすぐ起きる」


「……起きるんでも、沓名ヶ原ここではないとか。

 確か神託の内容では、百鬼夜行は舘波見川たてばみがわを遡って侵攻するんでしたよね?

 沓名ヶ原ここの下流は大丈夫なんですか?」


「なんだ、佐久治。

 お前、沓名ヶ原くつながはらの名前の由来を知らんのか?」


 佐久治は、自分の疑問に逆に問い返されて、少し焦った。

 周囲の先輩たちも、仕方のないヤツという呆れの混じった視線で佐久治を見てくるに至り、よくわからないものの随分と世間知らずな質問をしたのだと気付いた。


「……すんません。

 名前の由来なんて、気にした事も無かったんで」


「あぁ、いいさ。これはどっちかというと先達俺たちの失態だ」


 そうだろ、副長。そう同意を求められて、隊の中ほどを歩いている副長は笑って頷いた。


「そっすね。普通なら気にするような事じゃあ無いっすから。

 俺たちにしたって、入隊してから夏の怪談話の定番として聞いた位だ」


 そんなもんか。そう独白するように応えてから、隊長は佐久治に視線を向けた。


「良い機会だ、頭の片隅に置いておけ。

――舘波見川たてばみがわを遡上する百鬼夜行は、その昔から一つしかない。

 沓名ヶ原くつながはらの怪異をヌシとする百鬼夜行のみだ」


 500年近く前からあるここら辺りで定番の怪談ネタだが、実際は史実だそうだ。そう前置きして、隊長はその話を語り始めた。




 諸外国との交易が唯一赦されている珠門洲は、交易による豊かさの反面、その豊かさを切り分けるための派閥争いが盛んである。

 今でこそ多少は落ち着いてはいるものの、少し前まではどこの家がどこの派閥にくっついたのだの、どこの家が沈んでどこの家が浮き上がったのだのが日常に起きていた。


 当然のことだが、上位の華族であってもその流れに無関係でいられる訳も無く、むしろ苛烈になる傾向が強かった。


 そんな中、一つの華族が望むべく立っていた最高峰の地位から、どん底に転落した。


――その華族で在れなければ、ひと・・では無し。


 そううそぶくほどの盛況を誇る一族であったが、たった一つの政争の敗北から全てを喪って、一族郎党が華蓮より追い落とされた。


――後の噂に聴くに、

 内争に持ち込もうとするも、恨みを買い過ぎていた一族に合力するものも少なく、逆に啄まれるように貯め込んでいた財貨を蚕食されたとか。


 その華族の当主であった男は、散々に追われ、こけまろびつ身一つで逃げ出したとか。

 全てを喪い寄る辺を無くした華族の男が気楽に生きる事ができるほど、この世界は優しくない。

 華族として生きるしか知らない男に地に生きる術がある訳も無く、ほどなく何処かで野垂れ死ぬ運命しか残されていなかった。

 結局、当主であった男は、逃げる途中で沓名ヶ原くつながはらの深部に迷い込み、そこで世の全てを呪いながら死んだとか。


 そこまで・・・・は、よくある不幸話の一つに過ぎない。


 三宮四院でない限り、どんな華族であろうが浮沈の運命は必ず付き纏う。

 その華族は敗けて、浮き上がれないほどに沈んだ。

 それだけのことである。


――それだけで終わる、筈だった。


 異変は、その直後から起きた。

 沓名ヶ原くつながはらから強大な怪異が生じ、華蓮への恨みを叫びながら舘波見川たてばみがわを遡って侵攻を始めたのだ。


 その脅威は計り知れず、初めての百鬼夜行の際には、討滅に一昼夜、華蓮の半分が灰燼に帰す被害が出たと伝えられていた。


 穢レは、それが何を核にしているのかで呼び方が変わる。

 在野の獣が、瘴気によって変異するのが穢獣けものである。

 そして、その地に焼き付いた負の感情を核として生じるのが怪異である。


 憤怒、憎悪、絶望。核となったものの歴史そのものが、肉体を得た災厄となってその原因を襲うのだ。

 その歴史によって強さの程度は変わるものの、強大であることに変わりは無い。

 そして、何よりも厄介なのが、相手にしているのが歴史そのものであるため、完全な討滅は事実上不可能であるという事だった。


 討滅しても、核となった土地に充分に瘴気が溜まれば、怪異は再び発生して再び災厄をまき散らす。

 沓名ヶ原くつながはらの怪異が受肉する間隔は100年ほど、そろそろ発生してもおかしくないとは考えられていた。


 湿地特有のぬかるんでぶよついた地面を、葦などの草を踏みつけて足場にして、強引に先に進む。

 歩く速度は遅々として、終わりの見えない警戒行動の疲労が全員の神経を逆なで続ける。

 そんな中での小声の会話は、僅かなりとも隊員の息抜きとなっていた。


「佐久治。おェは入隊して半年だったな。

 これまでに、穢レはどんだけ見てきた?」


 副長の言葉に、佐久治は記憶を探った。

 とはいえ、たった半年程度の記憶だ。すぐに答えは出た。


「……大概は小物の虫っす。大物は大百足と化けガエルが一度だけっすね」


 そんなもんか。そう頷いて、副長は佐久治の目を見る。


沓名ヶ原くつながはらで遭遇する穢レは、おェが云ったそいつらで大体全部だ。

 だが、おかしいと思わねぇか? 沼や湿原の化け物っつったら、もっと有名な奴がいるだろ」


「え?」


 訊き返そうとしてから、佐久治の脳裏に天啓のようにその答えが降ってきた。

 確かにおかしい。

 大百足や化け蛙がいるのだ。なら、そいつらを餌にする大物がいるはずだ。


 蛙を喰らう化け物で、すぐに思いつく奴は一つ。


「全隊、止まれ!!」


 それを口にしようとした時、隊長が鋭く制止の合図を出した。

 全員が隊長を中心に纏まり、周囲の警戒を素早く行う。


「――どうしました?」


「やられたな、静か・・だ」


 副長の短い問いかけに、隊長がそう返した。

 静か? その答えに、全員が疑問を抱く。

 周囲には何も見えず、何かがいるような気配も感じない。

 潮騒のように耳を苛む耳鳴りも一向に止む気配を見せず、どちらかと云えば煩いほどだ。


 そこまで考えてから、全員がようやく隊長の口にした静か・・の意味を理解した。


 確かに静かだ。

 先ほどまで聴いていた虫や蛙の鳴き声は、いつの間にか彼らの周囲から消え失せていた。


 気圧が変わっているような、もっと直接的な耳鳴りが強すぎたせいで、それらの鳴き声が消えていたのに気づかなかった。


「総員、警戒!」


 もう遅いだろうが、隊長の指示に全員が身構える。


――ここはもう、敵地のど真ん中だ。


「今、どの辺りだ?」


「周囲が暗すぎるんで断定はちぃとできんですが、歩いてきた時間だと深部の外周部手前かと」


「だな。俺も同意見だ」


 周囲を見渡す。

 いつもなら月の明かりでそれなりに見渡せるはずなのに、周囲は墨を垂らしたかのように暗い。


「副長、陰陽計の確認」


「――変です。瘴気濃度は、むしろ低い」


 副長の返答に、隊長の眉根が寄せられる。

 確かに変だ。

 深部とは、瘴気の溜まり場の事を指す。

 平常時であっても、外周部辺りにいるのなら瘴気濃度は濃くなる傾向は当然にある。

 重ねて、視界が塞がれるという異常が起きているのだ。

 瘴気濃度が低いという状況は、理解が追い付かなかった。


 撤退。その二文字が選択肢として脳裏に浮かぶ。

 しかし、頭を振って直ぐに選択肢から外す。


「佐久治、照明筒用意。

――だが、合図があるまで絶対に鳴らすな」


「隊長、撤退を……」


「遅かった。

 もう、こっちに気付いてやがる」


 この分隊の隊長は防人では無いものの、長く守備隊を務め上げた叩き上げである。

 今までを生き延びた事に対する自負と、それを支え続けた勘所は非常に鋭く的確だ。

 それ故に、自身の勘を騙し切るほどの隠形を使う相手を、軽く見積もることは出来なかった。


「総員、撃符の準備」


 大規模哨戒に当たって、常よりも多く支給された撃符攻撃用呪符を一枚、懐からいつでも出せるように抓み出す。


「撃つなよ。

 絶対に向こうを刺激するな」


「隊長、これからどうすれば」


「副長、陰陽計を地面に近づけてみろ」


「――数値、跳ね上がっています!」


「……だろうな。

 誰も気づかなかったはずだ。瘴気の本流は、地下・・だ」


 おそらく陰陽計の数値は、周囲のものを蝕み腐食させるほどに高くなっているはずだ。

 それでも違和感を感じなかったのは、瘴気の流れは地面の中を走っていたためだ。


 これだけの異常、間違いなく沓名ヶ原くつながはらの怪異は受肉・・している。


「総員、姿勢維持のまま後退。

 奴が姿を見せた瞬間に、鼻面目掛けて撃符を叩き込む」


「「「はいっ!!」」」


「佐久治。俺たちが撃符を叩き込んだ瞬間、後ろを向いて逃げ出せ。

 周囲が開けたら、後の事は考えずに照明筒を打ち上げて走れ」


「は、はいっ!!」


 ざ、ざ、ざ。酷くなる耳鳴りに混ざって、何か巨大なものが草を掻き分けて迫る音がする。

 音は、全周から響いてきたが、隊が向いている正面からは聴こえてこない。


 周囲から湧き上がるように、無数の青白い鬼火が立ち昇る。

 そして、隊の正面には、あかい鬼火が二つ。ゆらり、ゆらりと立ち昇った。




――伝承に曰く、


 鬼火のかすかな明かりに照らされて、白い鱗を纏った巨躯が分隊の周囲を悠然と横切る。


――其の眼、鬼灯あかかがちの如くして、


 生臭い瘴気混じりの息が、毒牙の隙間から吐き出される。


――白濁凶面にて、毒炎の主。


 赫い鬼火でできた双眸が、暗闇から分隊を睨み付け。


――其は、


「撃符、放てぇっ!!!」


 撃符に籠められた炎の塊が、姿を見せた怪異の鼻面に叩き込まれる。


―――ジャジャジャジャ!!


 隊のものからすれば強力な攻撃であったが、そんなもので怪異が倒れる訳が無い。

 ちっぽけな生き物ただ人の可哀らしい抵抗を無抵抗で受けて、無傷の姿で嘲笑う。


「佐久治、走れぇぇぇっっ!!」

 しかし、そんなことは隊長も承知の上であった。

 次の撃符を用意しながら、喉も嗄れよとそう叫ぶ。


 その言葉よりも早く、佐久治は後方向けて既に走り出していた。


「二撃目ぇっ、はなっっ…………」


―――ジャジャ! ジャ!!


 怪異は、撃符を2度受けるような寛容さを見せなかった。

 ただ・・人の無駄な抵抗を嘲笑いながら、高濃度の瘴気を含んだ毒の炎を分隊に吐きつける。


 骨すら蝕む強烈な瘴気を浴びて、撃符を再び放つ余裕も無く隊員たちは毒の炎の中に熔けて消えた。




「はぁっ、はあっ! あぁ、畜生、畜生っ!!」


 辛うじてその炎から逃れた佐久治は、走りながら懐から照明筒を取り出した。

 考えるよりも、手を動かして足を動かして、その場から少しでも早く遠くに逃げたかったからだ。


 照明筒の蓋を開けて、導線代わりに塗布された赤燐を擦る。

 筒口を上に高く掲げると、ほどなく赤い信号弾が打ち上げられた。


 最上級の緊急事態を意味する色。これで、沓名ヶ原くつながはら全域に散っていた守備隊に、怪異の発生が伝わったはずだ。


――オォォォオンンッッッ!!


 後は逃げればいい。そう思った佐久治の背後を、衝撃と爆炎が舐めた。

 耐えきれず地面に前のめりに這いつくばった佐久治の背後の暗がりから、悠然と怪異が姿を現す。


「あ、あ、ぁ……!!」


 恐怖と苦痛でままならない身体で藻掻きながら、ようやっと後ろを見上げた佐久治を、本来は表情が浮かばないはずの怪異の面相が、遥か上から見下しながら嗜虐に染まって嘲笑う。


「あ、あぁ……、く、くちなわ・・・・!!」


 思わず口にしたその言葉を最期に、佐久治もまた、吐きつけられた毒炎の中に熔け崩れていった。


―――ジャジャ! !!!


 くちなわの、否、大蛇おろちの姿を得て、現世への受肉の喜びを禍々しく怪異が嗤う。


――嗚呼、其は、悪堕あくだの王なれば。


 蕭々しょうしょうと、怪異が啼く。

 生まれ落ちた憎悪のままに、現世全てを怨嗟の渦に巻き込みながら。


 瘴々ショウショウと、大蛇がく。

 赤黒い瘴気の輝きのみに祝福されながら。


 沓名ヶ原ここに、白鱗と赫い鬼火の双眸を持つ大蛇の怪異が、怨嗟と共に受肉した。


 ♢


TIPS:深部について。

 常に高濃度の瘴気が溜まり続けている瘴気の沼。

 穢獣けものが生きていけないほどの濃度の瘴気がある。

 妖魔の生息帯であり、怪異の発生点でもある。

 実際はそこまで珍しいものではなく、山間部の合間によく存在している。

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