泡沫に神は微睡む

安田のら

一章 華都奏乱篇

序 晩夏の記憶は、今なお鮮明に1

「――――よって、我らが雨月の地より、雨月うげつあきらを放逐することを決定する」


 雨月家当主、雨月うげつ天山てんざんの冷然とした声がしわぶき一つとてなかった雨月の屋敷の中広間に、何の感情も見せずに響き渡った。


 雨月直系の血筋を持ち、本来であるならば紛う事無く当代の嫡男であった雨月うげつあきらは、その時に寄る辺ない流浪の民と同じ、姓を持たぬただのあきらとなった。


 中広間の最下座で額を擦り付けるように平伏させられた・・・・・晶は、畳に爪を立て必死に心を圧し殺して視線を畳の一点から動かさぬように耐えた。

 ……何故ならば、動く事を赦されていなかったからだ。

 雨月の嫡子として産まれていながら、晶はその場にいる誰よりも立場が下だった。


 厭悪えんお侮蔑ぶべつ嘲弄ちょうろう。思いつく限りの悪意をはらんだそれら・・・

 よわい10とおを数えて、一ヶ月が過ぎただけの幼い身体に、中広間に集った雨月の家臣全員の視線が無遠慮に突き刺さる。

 それらは見えない針となり、痛苦すら伴う無言の圧力で晶の矮躯わいくを責め立てた。


 ……こうなる事は判っていたのだ。

 覚悟だってちゃんとしてきた。何時かではなく、何時でも云われる覚悟はしてきた。

――積もり、だった。


 それでも自分の意思とは関係なく、晶の身体はおこりかかったかのように小刻みに震える。

 見限られた。その現実に晶の自我こころが耐えられなかったのだ。

 盛夏が過ぎてもなお汗ばむほどに暑気の残る昼下がりの最中さなかであっても、晶には凍原の只中に放り出されたかのような寒さしか感じていなかった。


 未だよわいも幼い子供に下された酷すぎる判断を、それでも雨月の当主を筆頭はじめとする中広間の全員が当然と受け入れていた。


 晶は、己が属してきた一族の誰からも、疎まれ、見下され、蔑まれながら追い放された。

 時は統紀3996年。葉月8月も終わりに差し掛かった日。

 永く晶を庇い立ててきた祖母の雨月房江が亡くなって、初七日も過ぎぬ4日目の事であった。


 ♢


 この世界に正しく生を受けたものは、必ず精霊をその身に宿す。

 大抵の者は意志すら持たぬ小精だが、それでも人は必ず人生の傍らを精霊と共に過ごすのだ。


 此処は極東の大洋に浮かぶ島国の高天原たかまがはら。この国は五柱もの神々が五つのくにを知ろしめす島である。だからだろうか、この地に生きる人には他国よりも高位の精霊が宿りやすい。

 精霊には位階が存在する。

 下位精霊であるならば霊力も持ちえないが、中位以上の精霊は霊力を揮う異能を与え、上位精霊なら、より高次の精霊力を宿主に与える。


 別けても貴人、その中でも名門と讃えられる三宮四院八家は、当たり前のように上位精霊を宿す。


 央洲を統べる神人たる三宮の御杖代と、高天原の東西南北に分かれているくにを統治する四院、それらに仕える八家は、上位精霊の莫大な霊力を背景に其々の地を治めていた。


 雨月家は、北部國天洲こくてんしゅうに所領を持つ八家の一角である。

 その歴史は八家に於いても最も長く、武に於いても八家中最強と名高かった。

 その雨月家で、表にも出せぬ汚点と蔑まれているのが晶だった。


 晶が何かをした訳ではない。

 勉学はそれなり以上に修めていたし、機転も悪くない。

 武芸は剣術を修めた。齢10までの技量と見るならば、基礎のみだが呑み込みは早い方とみるべきだったし、誠実に剣と向き合っていた。


 誰からも疎まれる環境に耐えるためか、人の目を避ける癖があるものの物静かな性格で、遊びたい盛りの年月をひっそりとこれまで過ごしてきた。


 其処に問題があったわけではない。

 だが唯一、看過し得ぬ問題を晶は抱えていた。


 精霊を宿し・・・・・ていないのだ・・・・・・


 正しく生を受けて産まれ落ちたものは、必ず精霊をその身に宿す。

 誰であろうと、どんな生物・・・・・であろうと、例外は存在しない、筈だった。


 正しく生を受けられなかった者たちはどうなるのかを、その地に生きる者たちは知っている。

 禍ツの生を受けた者は、穢レけがれに堕ちるのだ。


 六道輪廻の定めから外れ、正者を憎み、災いを撒き散らす。怪異、妖魔、穢獣けものと呼ばれる魔に堕ちる。


 産まれて直ぐ、晶に精霊が宿っていないことは知れた。

 穢レがどうやって発生するのか実際のところは知られていなかったが、精霊が居ないという事は穢レなのだろうと結論付けられたのだ。


 忌み子、鬼子。そう呼ばれて、本来は産まれた日に密かに処分される筈だった。


 その命を永らえられたのは、幸運が十重に二十重に重なったからだ。


 先ず、晶の生誕を雨月家以上によろこんだのは、國天洲を治める四院の一角、義王院であったのが大きかった。

 母の胎にいた時点で、何処から聴きつけたのか、雨月当主を呼びつける前にわざわざ義王院の当代当主自ら赴いて母の妊娠を確認したほどだ。


 そのまま常ならぬ強引さで、産まれてくるだろう晶より数ヵ月早く産まれる予定であった、義王院の継嗣たる娘との婚約を結んだほどだから慶びの大きさも知れるだろう。


 前代未聞とも云える義王院の決定は、洲内の華族たちをも驚嘆させた。

 何故なら、高天原を統べる三宮四院はただの貴人ではない。

 伝承にも曰く、神代の頃、降臨した神と人が産霊むすびの儀を経て産まれた、半神半人の末裔だ。

――く迄、只人である八家以下と違い、三宮四院は字義通り種族が違うのだ。


 三宮四院の、神性が顕わす特性は様々ある。

 その中でも特に有名な特性に、産まれてくる子供の性別は女性と決まっていることが挙げられる。

 例外は無い。それ故に三宮四院は必ず入り婿を取らねばならないのだ。

 そのため、三宮四院の婚儀は決定までに長時間の審議を経るし、難航するのが常であった。


 三宮四院の一角たる義王院が、審議を通さずに完全に一存のみで婚約を決定したことは、洲内でも語り草にはなったが、相手が雨月であったことで驚きも減った。

 八家に於いて最も永い歴史を刻んできた雨月家は、己が主と掲げる義王院への忠誠に疑いなしと謳われていたからだ。

 これまで義王院は、華族の勢力バランスを取るために敢えて八家から婿を取ることは無かったが、その信義を破って望んだのが忠臣たる雨月の子供であったのは、他家の誰もが納得するところであった。


 子供が産まれる迄の十月十日、ほぼ毎日使者が日参を繰り返し、遂には義王院の先代当主が出産にまで立ち会ったと云うのだから相当なものだ。

 そして出産と同時に、晶と義王院の継嗣は婚約関係を宣言された。


――晶に精霊が宿っていない事が雨月内で判明した時、状況は既に後戻りできないところまで進んでしまっていた。


 精霊を宿さない忌み子とは云え、晶の生死は義王院の預かりにもなってしまっている。

 雨月にいながら、晶の処遇は義王院に伺い立てしなければならないのだ。加えて、忌み子の存在が義王院に知られれば、終生、雨月に消えぬ汚点が付く事になる。


 簡単に密殺出来なくなったところで、後ろ盾に祖母の雨月房江が立ち上がった。

 雨月にて永く台盤所を預かってきた女傑、先代の御代から刀自女当主と呼ばれた彼女は、晶の立場を憐れんだのか積極的に晶を可愛がった。

 ……晶にとって息の詰まる屋敷地獄で発狂もせずに生きてこれたのは、ひとえにこの祖母の存在が大きかったのだろう。


 様々な援けと護りがあり、辛うじて晶は生存を赦されてきたが、状況は悪くなる一方だった。

 先ず、晶が産まれた次の年に年子の弟が産まれ、今度こそ、雨月家は熱狂の渦に沸いた。

 颯馬そうまと名付けられたその子は、雨月の歴史上でも数少ない神霊みたまを宿して産まれてきたのだ。

 上位精霊の中でも希少な、神柱みはしらの頂に手を掛けた精霊。

 最強となるべく産まれてきたような子供の誕生は、忌み子の存在を邪魔のものと決定づけた。


 下手に義王院に知られると、晶との婚約を勧めた義王院の体面に泥を塗るため、表立っての排斥や策謀は行われなかったものの、晶に対する陰口は祖母の庇護があっても留めることができなかったのだ。


 そして、忌み子と断じられる決定的な問題が発生した。


 晶が7つの頃、『氏子籤祇うじこせんぎ』に落ちたのだ。


 真実、神性が息衝くこの地に於いて、神社の役割は余人が想像するよりも大きい。

 人別省に戸籍登録するためには、何よりも神社の氏子となりその地の一員であると神に認められる必要があるのだ。

 しかし、氏子と認められるための儀式、『氏子籤祇うじこせんぎ』を引いた結果、晶に与えられた籤紙には白紙しかなかったのだ。

 絶望し、無表情で涙をこぼしながら、数えて十回引き直す。結果は総て白紙のみ。


 精霊が宿っていないという事は、神性にさえ受け入れられることは無いのだと思い知らされた瞬間だった。


 齢10を数えたこの夏、最大の後見であった祖母の死と共に、晶はこの地での居場所を喪った。


 ♢


「精霊の宿らぬ穢レに、これ以上屋敷を彷徨うろつかれる訳にはいかぬ。

 早々に立ち去るように」


 本来罪に問われるものが座る最下の位置で、父親であった天山の下知を平伏したまま受け入れる。

 しかし、退出の許可は与えられていないので、平伏の姿勢が解かれることは無い。

 これが雨月における衆議の日常だった。

 晶の退出が赦されるのは、衆議の出席者が全て退出した後、他者の耳目が無くなる頃であるのが屋敷の常識であった。


「精霊に見捨てられる。勉学も剣も並み以下。

 挙句、唯一の望みを掛けて符術ふじゅつを学ばせてみても、辛うじて上手くなるのは筆の扱いのみときた。

 ……貴様には、ほとほと愛想が尽きたわ」


 吐き捨てられるように侮蔑に塗れた文言が投げつけられる。

――昨年から、天山の下知により符術を学んでいたのだが、符術を扱うには霊力の操作を会得しなければならない。

 右上座の2座目に座る青年に、ちらりと目を遣る。


直利なおとし。教導の身として、実際のところ此奴の出来はどうだった?」


 右上座に座す、晶に符術を教えた不破直利が、平伏の後に率直な意見として晶の評価を下した。

 ただ、直利は晶に対する悪感情は無く、憐憫の情で接していたのが救いであった。

――それでも、教導した者として、正直に所感を述べたが。


「……符術の文言は上手く作成できるようにはなりました。

 しかし、200ばかり書かせましたが、霊脈の脈動を感じる事はありませんでした。

 力不足で申し訳ありませんが、晶君には符術の才は無いかと存じます」


 霊力の操作には、霊脈の脈動を自覚することが必須となる。

 これは符術の練習などを行う事で自然と自覚するものだが、晶は幾つも符を書き続けても、一向に霊脈を自覚する事が出来なかったのだ。

 誰もが嘲笑するが、その誰もが晶は符術を会得出来ないことを確信していた。


 何故なら、霊力操作には中位以上の精霊が条件となる。精霊無しの晶には、最初から無理難題と理解していた筈なのだが、それを指摘する者はその場に居なかった。

 精霊無しと云う事実が、晶にとっても忌まわしい枷となって何処までも付いて回ったのだ。


「ふん。これで、貴様が無能と云う結論は確定したな。

 貴様を嫡男として、義王院の姫のもとに送り出す訳に行かん。

 だが、貴様はまだ義王院の預かりにも掛かっている為、我らが処分する訳にもいかん。

 此処まで育ててやった恩を感じているなら、せめて自裁を選んで欲しい処だが、まぁそれは余りにも酷と云うものか。

 しかし、至上の御方々に我らの恥を晒す前に、貴様を追放する。

 この時点より、此処に控える颯馬が雨月の嫡男となる。総員、異論は無かろうな」


 左上座に座る颯馬が、頭を垂れながら溌剌はつらつと嫡男の挨拶を挙げる。

 その背中には、明確に姿をあらわせるほどの精霊力を持った、単衣を纏った女性の神霊みたまが微笑みを浮かべて立っていた。


「この度、雨月の嫡子を受命致しました、雨月颯馬と申します。

 家臣の皆々様、これよりご指導のほど宜しくお願い致します!」


 雨月の将来におもねる家臣たちが、口々に祝辞をさえずる。

 表情が見えぬように平伏する晶の事は、既に其処に居る者たちの思考には無かった。


 ただ、晶は無心に努め、平伏を続けるのみだった。


――晶の退出が赦されたのは、常より長いそれから一刻2時間の後だった。

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