第10話 再会
明日はいよいよブバスティスに帰るという日の夕方だった。
「父さん、遅いなぁ。いつもならとっくに帰ってきている時間なんだけど……」
レイラはいつもより帰りが遅いムクターのことが心配になった。
「ネジムが一緒だから大丈夫よね」
心細くなったレイラは(宿舎から一人で出ていけない)というムクターのいいつけを破り、父親を探しにギリシア商店街へ向かった。
宿舎から一歩外に出ると真っ暗で、遠くには商店街の明かりが微かにゆらめいている。
あの光を目印に行けばいいわ。
レイラはネジムと光に誘われる羽根虫のように夜道を歩く。
光がだんだん大きくなった時、暗がりから男が飛び出してレイラを羽交い絞めにした。
「きゃ……」
「黙れ!」
男は叫び、片手でレイラの口を塞いだ。
「……」
レイラは恐怖で身動きが取れない。
男はレイラをそのまま片腕で脇に抱きかかえ、人気のない暗がりに引きずり込んだ。
「……」
レイラは恐怖で震えがとまらなかった。
「ガルルル」
その時、全力で追いかけてきたネジムが爪を立てて男の背中に飛び掛かった。
「ギャア!」
男はネジムの鋭い爪に背中と首を引っかかれ、レイラを地面に落とした。
「シァアア!」
ネジムはレイラをかばい男の前に立ち塞がった。
「野良猫やろう!」
男は叫び声をあげながら地面に倒れたレイラに襲い掛かろうとしたが、
「ガルルル!」
ネジムが猛烈に威嚇した。
「このクソ猫が! 死ね!」
男はネジムめがけて大きく足を蹴り上げた。
その瞬間、ネジムはヒョイと身をかわし男の背後に回り込んだ。
「わぁ!」
男はネジムを蹴り損ね「ズドン!」と大きな音をたてて尻餅をついた。
「レイラちゃん、早く宿舎に逃げるにゃ!」
「ネジムも」
「にゃー!」
その隙にレイラとネジムは、宿舎の方に全速で駆け出した。
すると背後から男が猛ダッシュで二人を追いかけてくる。
もう少しで宿舎に逃げ込める。
レイラは心臓が破裂しそうになるほど全力で走った。
宿舎まであと少しというところで男の手がレイラの肩を鷲づかみにした。
「嫌アア!」
「黙れ! このエジプト娘が!」
レイラは激しく男に抵抗した。
「シャアアア」
ネジムは毛を逆立て、鋭く爪を立て男の背に飛び掛かった。
「死ね! クソ猫!」
声を荒げ、男が大きな手でネジムを振り払う。
「にゃアアア」
叫び声をあげてネジムは地面に叩きつけられた。
「ネジム!」
ネジムは胸やお腹を地面に強くぶつけ、痛みと息苦しさで立ち上がれない。
「声を出すと殺すぞ」
男は短剣をちらつかせニヤリと笑い、レイラの服を剥ぎ取ろうとした。
その時だった。
「ゲスやろう」
男の腕が何者かに急にねじあげられた。
「て、てめぇ、なにしやがる」
男は足をかけられあっけなく地面に倒された。
「きさま!」
男は捻られた腕をかばいながら立ち上がる。
「消えろ」
暗がりから野太い声がした。
「なんだと!」
男が声の主に襲い掛かろうとした時、雲間から溢れ出た月明かりがお互いの顔を照らした。
「ア、アキレス……」
その瞬間、男は一目散にその場を立ち去った。
(アキレス……)
レイラは奇跡の再会に、飛び上がらんばかりに喜んだ。
「大丈夫か?」
アキレスはレイラを助け起こすと優しく微笑んだ。
まだあの時の少女とは気づいてないようだ。
「あ、ありがとうございます」
何かお礼を言わなきゃいけないと思うものの、気が動転しているのか胸が激しく鼓動して言葉を思うよう発せない。
「かすり傷はあるが、猫は大丈夫そうだ」
扱いなれているのかアキレスは横たわったままのネジムを抱きかかえている。
「ネジム! よかった。もうあんな危ないことしちゃだめよ。でもありがとう。ほんとにありがとう」
レイラはネジムをアキレスから手渡されると、胸に抱き、ぎゅとだきしめた。
「にゃー」
ネジムは目を細めペロペロと擦り傷を舐めはじめる。
「ネジムっていうのか」
「はい。あたしを守ってくれたんです。とても勇敢で優しい猫です」
レイラはネジムの頭や襟首、まるい背中を優しくなでると、地面にゆっくりおろした。
「わたしも猫がすきだ。それにしても珍しい猫だが」
アキレスもほんとに猫好きなのか目じりをかすかに下げて、ネジムのあごの下をくすぐった。
「リビア山猫です。あたしたち家族はリビアから来ました。移民です。この子はリビアとエジプトの国境を越えようとしたとき、馬車の荷物に隠れていたのを見つけたんです」
話すきっかけが出来てレイラはつい話過ぎてしまう。
「リビアからきたのか」
「はい、リビアの移民です。アキレスさん、ブバスティスの市場でもありがとうございました」
レイラは姿勢をただし、礼儀正しくあたまを下げた。
「ブバスティスの市場……」
アキレスは遙か彼方の過去の記憶を思い出そうと遠い目をしている。
「奪われた財布を取り返してくれてました。それから……」
レイラはあの時のことをもっと具体的に話し始めた。
「あ、あの時の」
やっと思い出したのか、アキレスは旧知にでも再会したかのような和やかな瞳で目の前の少女をみつめた。
「はい」
アキレスがやっと思い出してくれたので、レイラは安心して胸をなでおろした。
「この猫、どこかで見たと思ってたら、そうだったのか」
アキレスはネジムのよこに屈んで、猫の背中を丁寧に撫ではじめた。
「いつかお礼を言いたくて。市場で野菜を売って得たお金だったんです。あのお金がなかったら大変なことになるところでした」
レイラは精いっぱいアキレスに感謝の気持ちを伝えたかった。
「礼なんかいいさ」
照れくさそうにアキレスは横をむいて、町の明かりをながめた。
「アキレスさんがこの基地にいると聞いていたので父と探していました」
レイラは彼の正面にまわりこんで話し続けた。
「お父さんは何処に?」
アキレスは心配して尋ねてくれる。
「あのギリシア商店街です」
レイラは行こうとしていた遠くの町の明かりを指し示した。
「こんな遅くに?」
困ったもんだと言いたげにアキレスは腕を組む。
「あたしたちは、すぐ近くのアルテミスという宿舎に泊まっているのですが、商談に出かけた父の帰りが遅いので迎えに出かけたのです」
「そしたらさっきのクズやろうに襲われたのか。ふざけた奴だ。任務を放棄しやがって」
アキレスは身内の恥だと言わんばかりに憤慨して、小石を蹴った。
「あいつは基地の衛兵だ。君に怖い思いをさせてほんとにすまなかった」
よほど心苦しいのかアキレスは本当にすまなさそうに謝る。
「ギリシアの兵隊さんなのですね」
ギリシアにたいする洗練された芸術のイメージが強かっただけにレイラにとっても残念で仕方がない。
「ああいうごろつきは沢山いる、それに……」
よほど正直な人なのか誠実な人なのだろうアキレスはなにもかも話してくれる。
「アキレスさんみたいな良い人ばかりではないのですね。でもエジプトもリビアも同じです。いい人もいれば悪い人もいますから」
レイラの正直な思いだった。国や民族や宗教で善し悪しを決めるべきじゃないと思う。あくまでも人なんだ。
「基地周辺は治安が悪いから近寄らないほうがいい」
親切心からアキレスは念を押した。
「アキレスさんに会えたので、もう基地に近づくことはないと思います」
本当は会いに来たいけどこう言わざる終えない状況をレイラはかなしく感じた。
「それがいい。ここじゃエジプト人の人権は守られない」
アキレスのアドバイスはあくまでストレートだった。
「……」
レイラは言葉が続かなかった。
「宿舎まで送ってやろう」
アキレスがついてこいと手で合図した。
「だ、大丈夫です。ありがとうございます」
「こっちだ」
アキレスはさっさと先に歩き出した。
「はい!」
レイラは地べたに座り込んでグルーミングしているネジムを抱きかかえ、アキレスを追いかける。
二人が暫く歩いていると遠くからレイラを呼ぶ声が聞こえた。
「レイラ!」
憔悴しきったムクターの顔に微かな光がさした。
「父さん!」
レイラはムクターのほうに走って行く。
「心配したぞ」
ムクターはレイラをきつく抱き締める。
「御免なさい」
レイラは父親の胸に顔を埋め涙を流した。
「こちらは?」
そのときムクターはふたりの前から帰りかける男の姿に気づいた。
「アキレスさんよ」
アキレスは軽く会釈するとその場を立ち去ろうとした。
「ありがとうございます」
ムクターは慌てて彼の前に回り込み、何度もおじぎをした。
「父さん、またアキレスさんに助けられたの」
レイラがニコニコしながらいう。
「レイラ、危ない目にあったのか?」
ムクターは娘の両肩をやさしく掴んで顔をのぞき込む。
「基地の衛兵に絡まれたの」
申し訳なさそうにレイラがうなずく。
「衛兵に」
ムクターは眉間に縦皺をつくりレイラを見つめた。
「危ないところだった」
アキレスがぼそっと答えた。
「そうでしたか……本当にありがとうございます」
もしアキレスが通りがかってなかったら、そう思うとつい商談に夢中になり早く帰らなかった自分を責める気持ちがわくのを感じた。
「基地周辺は昼夜問わず危険だから、エジプト人は近寄らないほうがいい」
アキレスの言葉は厳しかったが心は優しさと親切に満ちていた。
「ブバスティスの時といい、今夜といい、アキレスさんには感謝し切れません」
ムクターはそう言いながら再びアキレスに繰り返し頭を下げる。
「じゃ!」
アキレスは何度もムクターから頭を下げられ困り顔になり、軽く微笑みレイラの肩を軽くポンと叩いてその場から立ち去ろうとした。
「また会えますよね!」
レイラは歩き去ろうとするアキレスの背中に向かって声をかけた。
「……」
レイラが月明かりに浮かぶアキレスの背中を見守っていると、彼は軽く右手を挙げて応えてくれた。
「ありがとうございます!」
レイラは手を振りながら大きな声で叫んだ。
翌朝、ムクターとレイラ達は宿舎をチェックアウトするとブバスティス行きの船に乗った。
「アキレスさんに会えてよかったな」
ムクターは娘の頭を軽く擦る。
「うん。パパありがとう。本当に会えて良かった!」
船が大きく帆を広げナイル川をゆっくり進み始める。
やがてデッキからエジプトの砂漠と田園の見慣れた景色が広がり、ナウクラティスのギリシア都市がまるで幻のように思える。
「ネジム、痛い目に遭わせてしまったね」
レイラは腕に抱いたネジムの頭と頬を優しく撫でた。
「大丈夫にゃー」
ネジムは目を細めて心地よさそうにゴロゴロと喉を鳴らす。
「あたし、今とっても幸せよ。ふふ、ひみつだけど」
レイラは意味深なことを呟く。頬は赤らみ、長い髪が風になびいた。
「にゃー」
ネジムが良かったねと頷く。
レイラはネジムとデッキの最後部から小さくなっていくギリシア都市を眺め続けた。
「あたし、新しい夢ができたの」
レイラは星の煌めきのように目を輝かせた。
「どんな夢にゃ?」
「エジプトの芸術に新しい風を吹き込むの」
「新しい風?」
「エジプトの重厚な芸術にギリシアの繊細な技法を取り入れて、もっと活き活きとした絵や彫刻を創作してみたいのよ」
「すごい夢だにゃー」
ネジムもレイラの夢が叶うといいなと大賛成だ。
「そうでしょ!」
レイラはこの新しい閃きにトキメキを感じた。
「きっと素敵な絵が描けるにゃ」
ネジムは生き生きと新しい作品を制作するレイラを想像して、自分の事のように喜んだ。
「あたしに出来るかなぁ」
「できるさ!」
いつのまにかムクターが来て、レイラの肩をポンと叩いた。
「父さん……」
「レイラ、自分を信じるんだ。才能に男も女も民族もない。エジプト人だろうがギリシア人だろうが関係ないんだ。あるのは自分をどこまで信じきれるかだ。ただそれだけなんだ」
ムクターは娘の新しい夢が実ればいいと願った。
「あたしにも人の魂を揺さぶるような美しい絵が描けるかな?」
レイラが父親を信頼の眼差しで見あげる。
「描けるさ!」
親ばかかもしれないが、この子なら必ず出来るような気がする。
「本当!」
レイラは燃えるような瞳を輝かせた。
「心と魂は正直だから、自分の心と魂が感じるままに表現するんだ」
自分がこのエジプトという新しい大地に踏み込んだときの感覚と同じような感性を娘も持っているに違いない。
「それが自分を信じるということなのね」
新しい事への挑戦それはお父さん譲りなのかもしれない。
「そうだよ。そうなんだ!」
ムクターは心で思わずエールを送った。
「そしたら魂を揺さぶるような絵が描ける」
心が感じるままに描く刻む形作る。
「そうだ」
「あたし頑張る!」
大きな夢を胸一杯に膨らませ、レイラの黒い瞳はとても大きく輝いた。
ナウクラティスから帰ったレイラは情熱的に創作と勉強に打ち込んだ。そしてエジプトの古典的な絵やレリーフ、彫塑の技法をすべてマスターすると、エジプトのすべての神々をパピルスに描き、石に刻むことが出来るようになった。さらにヒエログリフもヒエラティックおまけにギリシア語も自由に読み書きできるようになり、学校の図書館でエジプトの神話や古典文学を読み漁るようにまでなった。
先祖代々職人の家柄の男子生徒ばかりが通う職人学校の中で、レイラは移民でしかも女子というだけで苛めと差別にあい、ノイローゼぎみになって登校できなくなるという、とても辛い時期もあった。しかし、レイラがめきめき頭角を現すと、先生や周囲の生徒から一目おかれる存在となり、今まで冷ややかな目で見ていたクラスメイトも手のひらをかえしたように親切になった。やがて心を許せる先輩や友達もできたレイラは、学校での生活がより楽しく過ごせるようになった。こうして学校生活が軌道に乗ったレイラは水を得た魚のように活き活きとスクールライフを満喫し、その職人の技もより高みを目指して羽ばたこうとしていた。
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