第8話 交易都市ナウクラティス

 エジプトでの生活も慣れてきたある日のこと「こんどナイル・デルタの交易都市ナウクラティスに仕事で行くんだけど一緒に来ないか?」仕事先に家族を滅多に連れて行かないムクターが珍しくレイラを誘った。

 それを聞いたレイラは大喜び。

「わぁーい!」

 ネジムの両手を握って回りだした。

「にゃー、にゃー」

 ネジムの抵抗も虚しくレイラは楽しそうにグルグル回る。

「にゃ……」

 ネジムはあっという間に目が回った。

「ネジムも嬉しいでしょう」

 レイラは既に意識が朦朧としているネジムに向かって微笑んだ。

「レイラ、もうネジムを放してあげなさい」

 見かねたマブルーカが注意する。

「はーい」

 レイラは回るのを止め、ネジムをゆっくり床に下ろした。

「ネジムごめんね」

 レイラが申し訳なさそうにネジムに謝る。

「目が回るにゃ~」

 ネジムはふらふらよろめき、二、三歩いてパタンとダウンした。

「ネジム!」

 慌ててレイラが駆け寄ると「ナウクラティスはきっと楽しいにゃ」レイラに小さく呟いた。

「ネジムも一緒に来るんだよ」

「ふにゃ」

「なぁにその気のない返事、あ、タミットが気になるんでしょ」

「ち、ちがうにゃ。あんな高慢ちきなやつ」

 タミットと聞いてネジムはシャキッと起き上がる。

「うそうそ、あなたの顔に『惚れた』って書いてあるわ」

 顔に書いてあると聞くや、ネジムは慌てて桶の水を覗き込んで自分の顔を確認した。

「あははは! ジョーダンよ」

 背後でレイラの笑い声が響く。

「にゃー」

 カチンときたネジムはレイラのふくらはぎを素早く甘噛みし逃げた。

「痛い!」

 レイラがふくらはぎを見ると蚊に刺されたような小さなミミズ腫れが出来ている。

「もうネジム! 待ちなさい!」

 レイラは部屋の奥に逃げたネジムを追いまくる。

「レイラ、いい加減になさい」

 マブルーカの雷が落ちた。

「だってネジムが」

 レイラが半べそをかく。

「あなたが振り回すからネジム、腹を立てたのよ」

 マブルーカは容赦しない。

「ち、違うわ。タミットに惚れたのよ」

 ネジムをちらっとレイラは横目で見る。

「タミット?」

 まだ何も聞かされていないので、マブルーカの反応は鈍い。

「ほら噂の神殿の白猫よ」

 白猫に話題をそらそうとするレイラ。

「その白い猫がどうしたって言うの」

 白だろうが猫に変わりはないとマブルーカは相手にしない。

「ネジムが惚れているのよ」

 むくれるネジムを横目にみながらレイラは話し続ける。

「いいじゃない」

 マブルーカはいっこうに話に乗ってこなかった。

「まぁ、たしかに良いことだけど……」

 レイラは返す言葉がなかった。

「あなた、レイラはまだ子供です。仕事で行くのに邪魔になりませんか?」

 マブルーカが心配そうに夫を見る。

「マブルーカ、大丈夫だよ。レイラは大人以上にしっかりしてるから」

 妻の心配をよそにムクターはニッコリ笑い、大きな手でレイラの頭をゴシゴシ撫でる。

「でも急にどうしてレイラを?」

 マブルーカはあらためて聞きかえす。

「ナウクラティスがギリシアとの交易都市として栄えているのは、大のギリシア贔屓の王様、イアフメス二世の肝煎りの事業だからなんだ」

「王様のギリシア贔屓が度を超して、エジプト領のナウクラティスにギリシア軍基地を作らせ、ギリシア傭兵団が常駐しているという噂を聞いたことがありますわ」

「マブルーカ、それは本当のことなんだ。王はペルシアの脅威に備えるため、安全保障上ギリシアとの関係強化に努めている。だからナウクラティスは単なる交易都市ではなく、エジプトとギリシアの有事における軍事同盟の拠点でもあり、美術と文化の交流の象徴でもあるんだ」

 夫の口からペルシアと聞いてマブルーカの顔が曇った。

「ペルシアのカンビュセス王はとても野心家で残虐な人だと聞いています」

 マブルーカは、ご近所の奥さんや市場の商人達の中で流れる様々な噂話の中で、最近しきりにペルシアの脅威が囁かれていることに不安をおぼえていた。

「強敵ペルシアが侵攻してきても、エジプトはギリシアと同盟国だから、いざという有事の際には、ギリシア本土とナウクラティスのギリシア基地から援軍が来ることになっている。遠方のペルシアから大量の軍は送れまい。もし遠征してきたら後方の物資の補給ルートが伸びきってしまいそれが弱点になる。そこをエジプトとギリシアの陸軍と海軍で寸断してしまえばペルシアもお終いだよ」

「ギリシアの傭兵が頼りじゃエジプトの国力も落ちたものだわ」

 ムクターの楽観論にマブルーカは納得出来なかった。

 ギリシア傭兵団と聞いてレイラが顔をのりだしてきた。

「ナウクラティスに行けばアキレスさんに会えるかなぁ?」

 レイラが二人の会話に急に割り込んできた。

「アキレスさんに会えるかもしれないね。それだけじゃない。ギリシアの絵や美しい壺やお皿も沢山見ることが出来るよ」

 ムクターは笑顔でレイラを見つめた。

「あたしギリシアの美しい絵がみたいし、アキレスさんにもお礼が言いたいの」

 レイラは目を輝かせる。

「仕事が終わったらギリシアの美術品を見てまわろう。アキレスさんのことも、ナウクラティスのギリシア人に訊いたら何か手掛かりが掴めるかもしれない」

「やった!」

 レイラは飛び上がらんばかりに喜び、またネジムの手を握ろうとしたが、悪い予感がしたネジムは既にテーブルの下にもぐりこんで避難していた。


 数日後、ムクターはレイラとネジムを連れてナウクラティスに旅だった。


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