第9話 幸せのサクラマス
はるか下を流れてた沢の上流と合流したようだ。
水の音がすぐそばで聞こえ、森に凛とした涼しい空気が立ち込める。
ここまで、緩やかな下り坂だったが、少しずつ、上り坂になっていく。
ただ、道はあまり険しくない。
後ろから、佑夏の声がする。
「山田さん、ザック、私が持ちます。」
上り坂になり始めてから、東京から来ている
おそらく50代。最年長で、肥満体の人である。
足場もゴツゴツした河原の石になっており、疲労が倍加。
とは言っても、子供でも余裕で歩ける程度だ。
山田さんは極めて体力に乏しい。
しかし、佑夏をはじめ、小林さん、ルミ子さん、理夢ちゃん、水野さんの五人の女性達は嫌な顔一つせず、山田さんの手を引いたり、後ろから支えてあげたりして、入れ替わり立ち代わり、世話をしていた。
それでも、山田さんは、とうとうギブアップ気味になってきたので、佑夏はリュックを持ってあげる、と申し出たのである。
僕はここまで、何もしていない。
女にそんなこと、させる訳にはいかないのが道理だ。
「佑夏ちゃん、俺が持つよ。」
僕は山田さんから、ザックを受け取ろうとしたのだが。
「中原さん、私が持ちます。」
ディーンフジオカ添乗員が割って入り、山田さんの荷物を肩に掛ける。
まあ、彼は職務上、当然だ。
任せることにしよう。
でも、本当は、予定外に参加者の一人がモタモタしていて、苛立ってるんじゃないだろうか?
まさか、客に向かって「早く歩いて下さい」とは言えないだろうけど。
肝心の山田さんはいえば、消え入りそうな小さな声で添乗員に「アリガトウゴザイマス」と言ったものの、相変わらずブスッとした顔をしたままである。
何だか、怪しい人だな。
ここに何しに来てるんだ?
メガネの奥の目も、不気味にギョロギョロ、周囲を探っているようで、気味が悪い。
しかも、山田さんは何かよく分からないことを、ブツブツブツブツ不気味に呟いている。
氣のせいか「金だ、金だ」と言っているように聞こえるが?
他の参加者は、みんな感じのいい人ばかりだが、どうも、この人だけは要注意だ。
それにしても、佑夏の山田さんへの扱いは見事。
微笑みながら、励まし、元気付け、しかもそれが少しもわざとらしくもなく、嫌みもなく、ごく自然なのである。
おそらく、教育実習でも、こういうクラスに溶け込めない生徒はいたのだろう(山田さんはれっきとした大人だが)。
爪はじきの子の対処など、お手の物といった感じである。
このあたり、既に経験豊富なベテラン教師のようだ。
佑夏はまだ、大学生なのに。
やがて、川面が見え、苔が鮮やかになりだすと、先頭の東山さんが振り返って、説明してくれる。
「皆さん、渓流にいる山女魚ヤマメと、海のサクラマスは実は同じ魚なんですよ。」
ヤマメと、サクラマスが同じ魚!?どういうことだ!?
渓流の紅葉は、息を飲む美しさ。
水面を流れる落ち葉の美と、同等の驚きが東山さんの口から語られたのである。
やはり、というかルミ子さんが真っ先に質問する。
「ヤマメちゅうたら、小さな魚ちゃいますか?なんで、サクラマスとおんなじなんどす?」
東山さんは答える。
「ヤマメとサクラマスは、生まれた時は同じヤマメなんです。」
「餌の獲り方で、ヤマメか、サクラマスになるか、違いが出てきます。」
小林さんが、すかさず付け加えてくれる。
その時である。
渓流の上流から、なぜか笹舟が流れてくるのである。
一艘、二艘、どんどん増えていく。
??ドングリを乗せているものまである?どうなってんだ?
「ドングリの国から、こんにちは~☆」
佑夏の声。
「あら、カワイなー。」
吉岡さん親子が笑う。
「東山先生、ここでもっと、サクラマスのお話、聞きたいです!」
見上げると佑夏と、彼女につられたのか、横浜の水野さんまで一緒になって、笹舟を作って流している。
何をやらせても手早いのが佑夏だ。
笹舟の増殖スピードがハンパない。
しかも、バリエーション豊富。
「佑夏ちゃん、何やってんの?」
僕はつい、叫んでしまったりする。(衆人の手前だというのに、危うく甘い声になってしまいそうだった。)
「アハッ、笹舟、ダメかな?」
「そ、そりゃ綺麗だけどさ。」
この沢沿いでも、山田さんを除く、全員が爆笑。
添乗員が東山さんに申し出る。
「先生、お座りになっては?」
東山さんも同意。
「そうですね。ちょっと休憩しましょう。皆さん、座って下さい。」
それぞれが、傍らの石に腰掛け、東山さんの説明が始まる。
「餌を獲るのが上手いヤマメは、そのまま川に残ることができます。
でも、獲るのが苦手で、生存競争に勝ち抜けなかったヤマメは、川では生きていけません。」
「生きていけへんヤマメは、どないなるんどすか?」
心配そうに、今度は理夢ちゃんが聞く。
「そのヤマメが海に下り、サクラマスになるんです。」
東山さんと、小林さんがほぼ同時に答えた。
渓流の上を一陣の風が吹き抜け、この不思議な事実に、僕達は顔を見合わせている間に、さらに東山さんは続ける。
「海に降りたヤマメは、川に残った者よりずっと大きくなり、サクラマスになります。
そして、産卵の為、秋には戻ってくるんです。」
そうだったのか?知らなかった。
東山さんはみんなの驚きを楽しむように、
「精神科医であり随筆家であった人が、こう言ってるんですよ。
”30㎝のヤマメと、その倍もあるサクラマスが同じ魚ということをご存じですか?
生存競争に敗れたヤマメが餌を求めて海に下り、大型化したのがサクラマスです。
その時は負けたように思えても、自分に見切りを付けなければ、人生に「負け」なんてものは存在しません。
人と競うのではなく、できることから少しずつ努力を重ね、成長しようと心掛ける。
そうすれば、サクラマスのように、グーンと大きくなってるはずですよ”」
佑夏ちゃん、試験に落ちても、サクラマスに...........。
ここでまた、小林さんが補足説明する。
「サクラマスになるのは、雌が多いです。雌は雄に比べて、餌を獲るのが上手くないからです。」
ええ?それ、僕の姫君のことのように聞こえるが?
「佑夏ちゃん。」
僕が、隣に座っている彼女に話かけると、すぐ返事が来る。
「うん?」
「もしさ、
「中原くんも、そう思った?私も。ありがと、素敵なお話ね~☆」
白い貝殻の髪飾りと、三個のシーグラスが木漏れ陽で、光り輝いている。
巻貝を耳にあてると、森を通り抜ける風、あるいは波の音といった音がするけど。
今、小鳥の声、渓流のせせらぎ、落ち葉舞うサラサラとした風の音が、白い貝殻の中で増幅され、佑夏の耳には自然のシンフォニーとなって聞こえているのだろうか?
きっと、貝殻は「試験に落ちても氣にやむことはない。広い大洋で生きなさい。」と言っているに違いない。
そう、この白い髪飾りはそういう人に作られた物。
高原の渓流に、海の巻貝を付けた美女。
山に棲むヤマメと、海に下るサクラマスを現しているようで、胸を打つ。
さて、東山さんも、サクラマスの話はお気に入りのようだな。
まだ語ってくれる。
「私は釣りはやりませんが、釣り人の中には、サクラマスを夢中になって追いかける人もいますよ。
銀色に光る、大変美しい魚ですから。
普通、釣りは海釣りと川釣りを分けるものですが、自然と一体化して海にも川にも生息するサクラマスにロマンを感じるようです。」
またまた小林さんの補足が。
「秋に川を遡上したサクラマスは、雄と雌が一匹ずつ、つがいとなって産卵します。」
僕も佑夏に寄り添ってあげたい。サクラマスの雄のように。
競争に負けたからといって、人生も終わりではない。
僕達は幼い頃から、学校でこれでもか、というくらい競争させられ、競争こそ人生で、それが当たり前だと思い込まされている。
だが、幸福論の一人、ラッセルは、競争を完全に否定している。
彼自ら、私立学校を創設したにも関わらず、である。
ラッセルによれば、人生の目標に競争をあげることは、あまりに冷酷で、神経の疲労と様々な逃避現象を生み出すのだという。
競争の汚毒で、仕事も余暇も毒され、最後には種の滅亡をもたらす、とラッセルは言っている。
今、氣付いたが、教員採用試験の二次面接で、佑夏は「生徒には競争させない」なんて言わなかっただろうか?
多かれ少なかれ、学校とは生徒を採点し、競争させる場だ。
そんなこと、言ってしまえば、採否に不利になりそうに思う。
しかし、心優しい佑夏には生徒を競争させる「権力の教官」より、フリースクールで、学校に行けない子供に勉強を教える方が、向いているんじゃないか?
彼女本人に、そう話したことがあり、まんざらでも無さそうだった。
絶対、フリースクール!
佑夏ちゃん、ケニアに行かないで~!!!
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