第2話 幸せの汽車旅
「免許、見せて。」
そう言うと、佑夏は僕の手からそっと免許を取り上げてしまった。
この子には逆らえない僕である。
大抵の場合、普通の大学生は、一年生か、二年生の内には、車の免許を取ってしまうものだ。
しかし、母一人、子一人の母子家庭の我が家は、大学の学費の支払いでいっぱいいっぱいで、とてもそんな余裕は無かった。
一年の頃から、バイト代を少しずつ貯め、あと半年で卒業という今頃になって、僕はようやく免許を取ることができたのである。
「中原くん、やっぱり武術の先生だね。すっごく品のある顔してるよ。」
免許の僕の写真を見ながら、佑夏が言う。
そう、武術家であるから。
合氣道。亡き父が授けてくれた、僕の唯一の武器。
「え、そうかな?」
これは悪い氣がしない、というより嬉しい。
実は、佑夏が蟹座生まれであると知ってから、彼女には秘密で、蟹座の女性の好みを徹底的に調べあげた。
調査の結果、蟹座の女性は、黒髪の短髪で清潔感のある男性が好きだと判明し、僕はいつも髪が伸び過ぎないようにしている。
ちなみに、僕の星座、山羊座との相性は決して悪くなく、密かに喜んでいる。
免許の写真を撮る前も、髪を切ったばかり。
もっとも、僕は元々、長髪や染髪にしたことはない。
ちなみに、貧乏な僕だが、なぜか床屋代に苦労したことは無い。
それを誰よりも知っているのは、他ならない、このお姫様である。
佑夏が言葉を続ける。
「あ、中原くん、やっぱり馬の仕事がしたいんだ。」
しまった!バレた!
「え、何で?」
とりあえず、僕は平静を装おってみる。
「だってコレ、大型免許じゃない!スゴーい、大型特殊も取ったの!?馬の仕事で使うんでしょ?」
(そりゃ、俺はなけなしの金をつぎ込んだからね、佑夏ちゃん。)でも。
「そういう訳じゃないよ。何かの役に立つかと思っただけだって。」
佑夏は、僕の夢が乗馬クラブのインストラクターであることを知っている。
それも、住宅地にある都市型のクラブではなく、山の林間コースを走る自然系の。
だが、そういう乗馬クラブはおっそろしく給料が安い。
それで、僕は決心がつかずにいた。
「中原くん、迷うことないよ。自分の好きなこと、やろうよ。」
「い、いや。今、内定もらってる会社がやりたいことだよ。」
「ホントに?」
「ホントだよ。」
「自分の気持ちに嘘つかないで。中原くんがそんなだと、私···············。」
佑夏は右手で目を覆い、うつむいて涙を拭う仕草を見せた。
「佑夏ちゃん?」
返事が無い。
「佑夏ちゃん!佑夏ちゃん!」
狼狽した僕は、微かに佑夏の肩に触れ、呼びかけ続ける。
「アハハッ!♬中原くん、やっぱり優しーね!☆」
その声と共に、佑夏は一転、ガバッと跳ね起きると、大口を開け、顔を天井に向けてケラケラ笑い転げている。
やられた···········怒るに怒れん··········。
「どーしたの?中原くん?タイの黄金大仏みたいな顔して固まって??」
佑夏は、ますます楽しそうに笑う。
(中原仁助・注釈)
仏教国タイにはいくつもの巨大な黄金の仏像が存在し、最大で座高95メートルのものまである。奈良の大仏が15メートルであるから、その巨大さが分かるだろう。
それにしても、仮にも武術家である僕の虚をついて世界遺産に変えてしまうとは。
この娘、なかなかやる。
「アハッ。笑顔が広がってく。素敵♡」
車内の他の乗客達を見渡しながら、佑夏はそう言葉を紡いだ。。
佑夏につられて、僕も車内を見渡してみる。
すると。
ついさっきまで、ブスッと不機嫌そうな顔をしていた乗客達が、みんなニコニコした表情で談笑したり、ウキウキした表情で目を輝かせながら、車窓風景を眺めたりしている。
佑夏の笑顔につられたようだ。
笑いの輪は広がり、また笑顔を生む。
広がった笑顔の輪は、幸せの波動を生み、また自分に返る。
それが幸福の源になる。
アランの「幸福論」の中でも、特に有名な部分である。
常にこれを、佑夏は実践している。
佑夏には、不思議な力がある。
その場にいるだけで、周囲を明るく、和やかな雰囲気に変えてしまうのだ。
これは、蟹座の特徴であるらしい。
が、特に彼女はこの力が強い。
この人は7月7日七夕生まれ。
星の運勢が、何か関係しているのだろうか?
何を隠そう、汽車旅は、なかなか良いものだと、僕も思っていたところである。
「秋高し 甲斐路彩る ブドウの葉」
などと、つい一句浮かんでしまう。
これが車であれば、運転しながら、こんなにのんびり風景を眺める訳にはいかない。
東北の僕達の町から新宿までは、新幹線を使う余裕はなく、夜行バスでやってきた。
佑夏は、こういうところは文句は言わない子だ。
「はい、中原くん。」
持ってきたお菓子を、佑夏が手渡してくれる。
山梨の果樹園の風景を満喫しながら、二人そろって、お菓子をポリポリ食べて、ぶどうジュースを飲む。
これも車なら、どんな高級車でも不可能だ。
「これ、美味しー☆、
それでね、アランがね、特急の汽車の中ほどいいものはないって。
あ、ブドウ採ってる人がいる。私も採りたいな。
ねえねえ、富士山、見えるかな?」
お菓子を口に運びながら、絶景を堪能し、アランを解説する、大忙しのお姫様。
これも、汽車旅ならでは。
でも、君の声ほどいいものはないよ、佑夏ちゃん。
すごく胸に迫るし、癒されるんだ。
「アランが言うの。
特急列車は、どんな安楽椅子より座り心地がいい。
広い窓から、川や谷や丘や、町や村が通りすぎるのが見える。
目は山の道や、その上の馬車や、川に群れる舟を追う。」
「すごいな。暗記してるの?」
「アハッ、全部じゃないけどね。」
何しろ、佑夏は高校時代に幸福論に出会い、本が擦り切れるくらい読み返している。
最近は、原文のフランス語からの翻訳に自ら取り組んでいるようだ。
そんな佑夏だけに、ほとんどの部分は頭に入っているだろう。
いやー、しかし。
詩のように美しいアランの文章を、さらに美しい佑夏の美声で詠んでもらえると、まさに天使の囁きといった感じで最高に心地よい。
アランの言う最高の場所、「汽車の中」で、美女の美声で癒やされる、本当に最高の贅沢だ。
僕は、こんなに幸福でいいのだろうか?
「続きがあるんだよね?佑夏ちゃん、もっと(君の声を聞かせてよ。)」
「うん。ありがとー、聞いてくれて。」
なんだか、すごくいい雰囲気だ。
ありがとう、アラン。
「国の富は、麦や甜菜畑や製糖所、それから、見事な大樹林。牧場、牛、馬という風に繰り広げられる。
堀は地層を見せている。
素晴らしい地理のアルバム。
めくるのに、手数も要らない。」
ふと、車窓を見てみる。
東北地方では見られない、切り立った山々が重なり、麓からブドウ畑が広がっている。
やがて平地に下ると、人々の普段の日常がある住宅地になっている。
なんというか、桃源郷のような風景だ。
雛人形の飾り台のような段々畑に、ブドウと並んで名産の桃畑が見える。
桃の花の季節は、また見事だろう。
「風景は、季節と天気で毎日、変化する。
丘の向こうに嵐が来ると、干し草を積んだ馬車が道を急いでいるのが見える。
別な日になると、刈り入れ人が金色の埃の中で働き、空気は太陽に輝いている。
これに匹敵する光景はあるのか?」
アランには悪いが、内容より、佑夏に感動している僕である。
よくこれだけ、覚えたものだ。
ただ、後から佑夏に聞いた話では、今回は汽車旅に決まってから、幸福論のこの章を、またしても読み返したらしい。
しかしまあ、その通りではある。
心から綺麗だ。
風景も、佑夏も。
「それなのにね、誰も汽車の旅を楽しんでないんだって。」
「そりゃ、もったいないな。」
「旅行してる人達はみんな、新聞を読んだり、時計や良くない写真を見たり、あくびしてカバンを開けたり閉めたり。」
「あくびをするのは、いいと思うけど?」
「うん。
リラックスしてる証拠だもんね。」
僕の手元にある写真集は、良くない写真ではないはずだ。
佑夏は、この写真集の表紙を見て「キャー!カワいー!」と絶叫し、ツアー最終日、二日目は教採試験の合格発表当日だというに、この旅行に行くと言って譲らなかった。
僕は何度も止めた、「大事な合格発表の日に何で来るの?」と。
しかし、佑夏は「何処にいても同じだから。」と言って笑い、今こうして、僕の隣に。
写真集の表紙には、苔むした樹木の洞から顔を覗かせている、小さな動物が写っている。
著者は東山大悟ひがしやまだいご。
霧ヶ峰高原在住の動物写真家だ。
まだ、佑夏によるアランの解説は続く。
「駅に着くと、みんな、自分の家が火事になったみたいに、大急ぎで辻馬車を走らせる。
それで夜になると、お芝居を見に行ったり、作り物のイルミネーション見て、感心したりする。
やっぱり、何だかちょっと、おかしーね。」
ああ、確かに。
余韻に浸れるくらい、汽車旅を楽しんでる人など、僕は見たことがない。
日本人特有の気質かと思ったが、100年前のフランスも同じだったとは。
「そりゃ、変だね。見るべきものが、逆だよ。
そんなことしてたら、幸せになれない氣がするな。」
「でしょ?ねえ、中原くん。
上諏訪駅に着いたら、ゆっくり諏訪湖、歩こうよ。
集合時間まで、時間あるよね?」
え?
「も、もちろんだよ。
俺も、それがいいと思ってたんだ。」
実は、到着と同時に企業戦士よろしく、慌ただしく荷物をまとめ、脇目もふらずに猛ダッシュで集合場所に向かうのが、佑夏にアピールできるだろうと考えていた僕である。
上諏訪駅から諏訪湖までは徒歩10分だ。
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