煙を立てろ愛神の花

藤田桜

1


 カーマフアレレの表情に昔の面影はなかった。彼の詩集にあった古代の女神メレヴァーティーの挿絵のような微笑みを浮かべて、仄暗い廊下を先導する。西洋のドレスと先史王朝コーハラの衣装を組み合わせたような格好をして、時おり僕を待つように佇んで。背中にまで垂れたヴェールが長く伸ばした女の髪のように見えた。


「まさかおまえが屋敷に来るなんて思わなかった。こういうこと、嫌いそうなのに」


 僕は「うん、嫌いだよ」とだけ答えてカーマフアレレの後をついていく。香でも焚き染めているのだろうか。僕の真意を探るように顔を覗き込んでくる旧友からは、甘く眩むような匂いがした。あの頃のような、何でもない、ただの人間の肌の匂いはすっかり隠れてしまっている。


 足を止めた、カーマフアレレの肩が首筋にぶつかるくらいに近づいたから。「この部屋だよ」と、どこか幼さの残る声が告げる。ああ、そういうところは昔のままなのか。何度もの引っ越しのために、子供の頃から各地を転々としていたせいで色々な訛りが混ざった、アクセントの崩れた話し方も。ノブを握るときドアに左手を添える癖も。それが無性に愛おしく思えて、カーマフアレレの頭を撫でようと手を伸ばすと「なんだよ」と避けられた。


「変わらないな、と思って」


「おまえと一緒にいたの、いったい何十年前の話だと思ってるんだよ。変わったよ、おれは。おまえが思ってるよりずっと」と笑う顔には確かに昔の面影はなくて。「そうだね」と答えると、カーマフアレレは興味を失ったかのように部屋の中へと入っていく。衣擦れの音がやけに艶をもって耳に纏わりついた。


 部屋の中もやはり薄暗かった。小さなランプの明かりが一つあるばかりで、まるで星も街灯もない夜道のよう。隅に鎮座する寝具は、二百年前ヨーロッパによって滅ぼされたコーハラの王宮の様式で、それに腰掛けるカーマフアレレはまるで伝承の王女か何かのように見えた。彼は、努めてそう見せている。


 ──詩壇の怪人、カーマフアレレ。十三年前に処女詩集『マウーラ・ヌイ宮殿の猿』を引っ提げて現れ、現代コーハラ語における韻文の作法を整え、自分の派閥を文壇に築いてみせた男。物珍しさもあったのだろう。神話や伝承の時代から一足飛びに自由詩や散文詩の真似事をするようになったこの国の文学者にとっては。まるで音楽のように明確なリズムに支えられた彼の詩が。それを抜きにしても、カーマフアレレは美しい詩を書いた。


 もっとも、彼の名を世間に知らしめた立役者は別にあった。カーマフアレレを現代の詩の女神メレヴァーティーだと担ぎ上げる勢力がいたのである。人々は彼らを「クペカラの客」と呼んだ。ほとんどが、カーマフアレレが岩牡蠣クペカラと称した屋敷での情事によって、すっかり彼に参ってしまった若手詩人たちである。


 カーマフアレレは彼の住まいをまるで高級娼館か何かのように飾り立てた。先植民地期の遺物のレプリカが並べられた様は、伝承に現れる宮殿を思わせると評判である。その主人であるカーマフアレレもまた人々を魅了した。あたかもサロメやシバの女王、サランボーの模倣のように。逸話を重ね、幾度も語り直される中で。


 ──もとは、そんな大それたやつじゃなかったんだ。僕が知っているカーマフアレレは。


 カーマフアレレはいったいどれだけの人間と肌を重ねたのだろう。こうして「応接用」の一室に辿り着くまでに、幾人もの住み込みの弟子とすれ違った。その度に、胃の中の酸がせり上がるような気分を覚えた。


「カーマフアレレ」


 呼び掛けると、彼は嫣然と微笑んで「どうかした」と聞いてくる。僕がそのまま何も返さないので「早く始めようか」と言って、こちらの手を引いてベッドの上に引き倒した。ちょうどのしかかるような姿勢になる。


 柔らかな産毛に覆われたうなじを撫でてやると時おり「ん」と悩ましげな声を上げた。皮膚ごしに、温かな血液が流れているのを感じる。額に口づけてやると、身じろぎに合わせて耳飾りがちりりと音を立てた。彼の短く刈り込まれた髪も、今では暗闇の中でヴェールの色と溶け合って、蔦を伸ばし、まるで澱んだ川のように滾々と蠢いている。


 帯を解くと、存外かんたんに装束を脱がすことができた。恐る恐る触れるうちに、肩のあたりに瘡蓋ができているのを感じる。暗がりでよく見えないが、これは、歯型だろうか。目を凝らせば、傷跡のようなものは体じゅうにあった。


「これは」思わず口からまろび出た言葉に対して、カーマフアレレは悪戯めいた笑みを返すと「みんなつけるんだ。おれのこと、自分のものだってしるしをつけるみたいに」


 きっと、彼は僕の嫉妬を煽るためにそんな言い様をしたのだろう。「痛くない?」と問えば「痛いに決まってるじゃん。ひりひりする。でも噛まれた瞬間は、焼けるみたいに熱いんだ。おまえもやってみろよ」と挑発をしてくる。


 僕は黙ったまま、彼の装身具を一つずつ外していく。鈍く金や緋色に輝く石や造花を落とし、ヴェールを剥がし。流石に彼もおかしいと思い始めたのか「何するのさ。やめろよ」と腕を掴んでくる。


 最後に残ったのは、まるで孤児みなしごのようにみすぼらしい体をした青年だった。魔法は解けた。暗闇にも目が慣れて、首や背中につけられた歯形や痣がよく見える。男たちに抱かれる度に、こうして君は傷つけられてきたのか──「ねえ、カーマフアレレ」僕は笑う、引き攣ったように。「もうやめなよ、こんなこと。まだ、病気も良くないんだろう?」昔よりいっそうやつれて見える、痩せっぽちの旧友を抱きしめた。「僕たちもう、四十を越えたんだぜ。こんなに無理すること、ないじゃないか。だから」


「クアイヴァーミン」彼が、僕の名前を呼んだ。「おれ、やりたいことがあるんだ。それが終わるまで、おれは止まるわけにはいかないんだよ」


 明確な拒絶だった。大切なひとが死に急いで、どこかに消えてしまいそうになっているのに、僕では手が届かない、と例え一瞬でも思ってしまった。それから僕はすっかり力を失ってしまって、ろくな言葉を口にできなくなってしまった。陳腐な、しようもない説得ばかり。終いには「帰れよ。おまえには分かんないよ」と突き放されて、追い出された。


 ──僕の知っているカーマフアレレは、まだあそこにいるのだろうか。ふとしたときの仕草には、昔の面影があったようにも思えるけれど、それは彼のうちを占める中でも些細なことなのかも知れない。


 ただ、僕を睨んだあの瞳が、いつかの、意志の強そうな透き通った瞳のままだったことだけが救いだった。

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