零の薔薇

水が滴る音がする。

 今日はいい日だ。爽やかな風が、あたしを冷ましてくれる。小さな池にかかる橋、いだ水面に映る夕陽。町のはずれにある、自然豊かなあたしの隠れ家。蜻蛉とんぼも、へびも、小鳥もいない。ただ風にささやく草木が、そして一人の蜥蜴とかげがそこに。

 「もう遅いから帰りなさい。」

これはあたしの独り言。夕陽が傾きだしたら、17時のチャイムがじきに鳴る。チャイムを合図に、あたしは町に帰る。町の門から、一匹のからすが丘へ飛び立つのを、見届けて。


水は、朝方の仄暗ほのぐらいい陽光をも包む。白い太陽がまるで、揺らめく水月くらげのように。

 今朝は、鳥肌が立つ程、寒かった。鼻や指先が赤く染まり、キンキンと痛みをはらむ。依然として隠れ家に気配はない。水面は変わらずあたしだけを映し出す。

 「昨夜は、人が死んだね。顔も名前も知らない誰かが、丘の上で。」

これも独り言。橋の上に横たわり、昨日の日記をつける。ゴシップ誌以下のニュースの殴り書き。自己満足の域には達している。

 「字が汚いな。」

驚きのあまり放り投げた鉛筆は、池の底に消えていった。振り返った先には、白い鱗の竜が大口を開け、流暢に日本語を話している。あたしレベルなると、妄想の竜が話しかけてくるようだ。人間大の二足歩行、鋭い目つきが畏怖の念を抱かせる。唐突に現れた人ならざる者、意図せず体が強張るのは仕方がないことだ。

 「どうやって、入って、きた。」

震える声を顔を締めて誤魔化す。

 「どうやってもなにも、ここに入ってきたのは君だ。私はずっとここに居たよ。」

まだ混乱しているのだろうか、まったくもって理解ができない。こんなやつなど見たことがない、あたし一人の水辺のはずだ。

 「あたしがわからないからといって、嘘をつくな。お前など見たことがない。」

 「嘘などついていない。私に名乗る名はないが、知っているよ。君は少し前からここにきているね。そして日没と共に帰っていく。」

だからなんだと言うのだ。あたしは今この瞬間から、お前が嫌いだ。赤く陽が差し、灯された灯りから伸びる影。ともすれば、17時のチャイムが鳴り響く。震える足を叩き、逃げ腰の逃走。竜はあたしに手を振っていた。


 点いていなくても変わらない、音だけ立派な蛍光灯。床に広がるゴミの匂い、流しっぱなしのシャワー、見るだけで体がかゆくなる布団。乾燥したまずい米をしがんで少しでも空腹を紛らわせ、黒く濁ったシャワーの水を飲む。これがあたしの家で、これがあたしの日々。いくら甘露かんろを求めても、ことごとく躱される。人生は檸檬れもんのように、もはや生きる意味を問うほどに、酸い。

 「鉛筆、なくなっちゃった。」

誰に言うでもなく、つぶやいた。


次の日も、彼女は池を訪れた。私を見るなり狼狽ろうばいし、引きつり怯えた表情を浮かべている。

 「そう怖がるな、君を取って食うわけじゃない。私と話をしよう。名は何という?」

 「あたし…あたしは、」

目がうつろになり、過呼吸を起こす彼女。急いで駆け寄り、爪で引っ搔かぬよう、優しく背中をさする。跳ねる背中が小さくなり、声を生む。

 「あたしは…おもいかえせば、じんせいは、きれいで。でも、あたしの、れもんみたいな、きらきら。だから、おとしたの。おもいだせなくても。あまい、えんぴつを、ほしい。あたしは、おまえが。」


 朦朧もうろうとした意識の中で、欲したのは竜の鱗だった。首に手をかけ、一枚だけ、手に握る。瞬間、叫び声をあげる竜。逆立つ鱗に、息は荒々しい。大きな爪が触れ、投げ出された体は池へ落ち込む。たかぶる水面は液体ではない。にじむ血に這う水月ように、掻いては捌け、沈むはさらり。沈む体は、大口から腹を満たす甘い塊を、拒まない。陽光すら届かない場所で。


 きしむ橋には蜥蜴とかげが一匹。今日も一匹で道を往く。誰もいない池のほとりにぽつんと一本鉛筆が。風はささやき、草木は歌う。この世に生まれた甘い幸せも、明日には「ぽっ」と泡に消える。

 照る朝日に鱗は光る。

今日のゴシップは、ないかもしれない。ただ、平和な一日を。

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