氷華、咲くとき
神山雪
序章 蕾【2014年、崎山留佳】
仕事が終わって一歩外に出ると、銀世界が広がっていた。
雪なんて慣れっこだと思っていたけれど今日は違う。盛岡でも稀に見る大雪だ。傘を差して、バス停までの道のりを、しっかりと踏み締めながら歩く。車道を通る車も、徐行運転を余儀なくされている。
私は顔をぐるりと回して、街のシンボルの方に目を向けた。
岩手山が荒れている。何かの前兆だろうか。火山活動の噂は聞かなくて久しい。最後に噴火したのって、いつだったっけ? 十年前? いや、もっと前かもしれない。
『俺が生まれたのは滝沢市の病院です。母が滝沢市の出身でしたから。岩手山の麓の、本当に小さい病院で。あの時も大雪が降ったらしいですよ。母の胎内から出てきた俺は未熟児でした。俺の体が弱いのも、無関係ではないかもしれません』
盛岡にいると、外にいればどの角度からも岩手山が見える。だから錯覚してしまう。この山は盛岡にあるのだと。いつも傍にあるけど、実際はもっと遠い場所にあるのだ。
ふと、あの子の顔がよぎった。大雪が絶え間なく降り注ぎ、車が亀のような速度で進む中、私は立ち止まってスマートフォンを起動させる。表示された日付は、二〇一四年二月十三日。寒さで右足の古傷が少し痛むけれど、構うことなく指を動かしてニュースサイトを開いた。スマートフォン対応の手袋をつけているけれど、指がありえないぐらい震えている。
ソチ五輪開催中の今、出てくるニュースは、五輪がらみの事柄が圧倒的に多い。今競技が行われているのは、スキーのアルペン、カーリングの予選、女子のショートトラックに……。
フィギュアスケートの男子シングル。
今日の深夜にかけて、現地では男子シングルの決勝が行われるはずだ。
昔の私はフィギュアスケーターだった。女子シングルの選手として、少しだけ大会に出場していた。中学で断念せざるを得なくなり、スケートに関する出来事は、私に決して小さくない傷を残していった。今でも思い出すと胸が痛む。滑りたかった曲。やってみたかった技。実力者だと持て囃(はや)された小学生時代。その時の私は、五輪というスポーツの祭典の出場を夢見ていた。
……本当は違う。ずっと隣にいたい人がいた。その人の横で、流れるように滑るスケーティングに身を任せて、いつまでも氷上にいたかったものだ。
『僕がいるよ。辛かったら、僕の演技を見てください』
――過去の言葉を遮るように。不意に、クラクションの音が響いた。音に反応して道路側を見てみると、知った車が横付けされている。グレーのカローラ。助手席側の窓が音を立てて開いた。穏やかな面立ちの男性が顔を出す。想像するまでもなかった。先輩だ。
「留佳(るか)。今、帰りだろ。送って行こうか」
私の返事を待つまでもなく、先輩は助手席を開けた。少し躊躇ったあと、私はシートベルトを締めた。冷えは古傷に毒だ。指先は悴んで、ブーツの中のつま先が冷たい。足先に雪が侵食している。車内は暖房が効いていて、冷え切った私の体をゆっくりと溶かしていった。
「こんなところで私に会ったら、奥さんに怒られるんじゃないですか?」
「不倫現場みたいだってか? 馬鹿言うな。俺は、今は嫁さん一筋だ」
臨月の嫁さんを放っておいて不倫なんかできるか、と笑う。そう言うなら、今は、をつけないでほしい。私は苦く口を歪ませた。
サイドミラーに見慣れた自分の顔が写っている。ショートボブ。卵型の輪郭。切れ長の瞳。昔、留佳は耳の形がいいと、長澤先輩はこの車の中で言ってくれた。そんな先輩の左の薬指には指輪が嵌まっていて、私は両耳にスワロフスキーのピアスをつけている。アメシストカラーのそれは、あの子が盛岡を離れるときに私にくれたものだ。
先輩が結婚すると知った時、私は確かに驚いたけれど、それ以上に安心した。
この人が私に心を向けていたのに、私はずっと前から気がついていた。私が氷上にいた頃から、先輩とは兄妹のように近かった。何かと気にかけてくれたし、心配もたくさんかけた。
この人でもいいかな、と思った時もあった。優しいし、年上だし、素直に甘えられる。何よりも先輩が私を好きだったのだ。昔から、それこそ、私の一番辛い時だって知っている。
だけど私は先輩が私に向けるような強い感情を、先輩に向けられなかった。
人として好き、と、異性として好き、の、間には、深くて大きい川が流れている。
「先輩は今幸せですか?」
スマートフォンが光った。ちらっと確認すると、LINEが通知を知らせている。関東に住んでいる友達が、「こんな大雪初めて!」と嘆いている。
「……まぁ、そうだな。正直、今の俺は出来過ぎだ。言うことはないよ」
「よかった」
出来過ぎなんてことはない。先輩は才能あるスケーターだった。五輪に出場したのが何よりの証拠だ。引退した今では、盛岡を拠点に後進を育てている。スケーターだった頃よりも生き生きしているかもしれない。カナダに渡る前のあの子を指導していたのも、先輩だった。
いつか私以外の人と幸せになってほしい。
それが叶って、本当によかったと思う。
「お前はどうなんだ?」
「私?」
信号が赤になる。先輩はフットブレーキを丁寧に使って、ゆっくりと停車する。この大雪にもかかわらず、先輩は慣れたハンドルさばきで運転している。
「少なくとも不幸ではありません。……昔よりは」
中学二年生の時、得意だった三回転ルッツが全く飛べなくなった。練習を重ねても、取り戻すどころかさらにジャンプを失った。ちょうど、二次性徴で体が子どもから大人に変わる時だった。いくら練習しても、身体は女性らしく丸みを帯びてきて、何をやっても重く感じられた。鏡を見て、自分は太っているのだと落胆した。
痩せないとジャンプが飛べないと思った私は、食べることをやめた。食べても吐けばいいと思うまで時間は掛からなかった。食べて、吐いて、その上で練習をして、体はやせ細って、取り返しのつかない怪我を負った。自分の体を、そしてスケートそのものを呪いたくなったあの頃。
あの時の苦しさと比べたら。今の私は不幸ではない。そう言い切れる。スケートだって嫌いにはなりきれない。
あの子がいるから。
「それにしてもすごい雪ですね。関東の友達がめちゃくちゃ慌ててますよ」
私は話題を逸らした。私にとって、触れていて楽しいものではないからだ。
「元教え子かもしれないな。日本中に吹雪を吹き起こしているのかもしれない。今のあいつは、吹雪の中心だよな」
口の端が笑っている。先輩はちょっと楽しそうだ。それもそうだと納得する。先輩の元教え子は、今は嵐の最中にいるのだから。あの子が起こしている嵐が気候変動となって日本列島を覆っているのだったら、それはそれで面白い嵐だ。吹雪の後は、日本列島そのものが白い氷の形になるのだろう。
「……先輩は、出雲がメダルを獲れると思っていますか?」
雪は粉雪だ。溶けにくく積もりやすい。見た目は儚げに見えても強靭だ。あの子みたいに。
決まってるだろ、と先輩は前置きをして答えた。
「あいつが獲るなら、メダルの色はたった一つだ」
そう呟く先輩の顔は優しいものだった。スケートコーチと教え子。その関係を超えた深いつながりを感じさせる。昔、先輩が指導を躊躇っていたのが不思議なほどだ。
「先輩って、出雲のこと信頼しているんですね」
「当たり前だろ。神月先生もそう言っている。あいつが獲るなら色は一つだって。……それ、昔マサと似たような会話したな」
マサ。私と先輩の、共通の友人。私たち三人の中で、スケーターとして一番大成した人間。そんな彼は、ソチ五輪の実況として現地に行っている。……私の傷の中心にいる人物。初めて好きになった人。隣にいたかった人。彼に対する想いが、全て過去になって良かったと心の底から思う。
「……あいつ、今頃現地でどう見てるかな。出雲の演技」
「昌(まさ)親(ちか)のことだから。きっと私たちと同じように、確信を持って見ていますよ」
ニュースサイトでは、結果だけではなく選手の様子を詳細に伝えている。競技後にどんなアフターケアをしたのか。公式練習ではどんな調子だったのか。
紀ノ川彗は、昔怪我した右膝が少し痛むらしい。公式練習は短めにして切り上げたようだ。優勝候補筆頭のスコット・ヴァミールは、今大会で得意のはずの四回転トウループを一度もまともに決めていない。フランスのフィリップ・ミルナーは三度目の五輪を満喫しているようで、「若い子たちと戦えて嬉しい」と呑気に語っている。
あの子は無事だろうか。今の状態に、変なプレッシャーを感じたりはしていないだろうか。随分と遠くなってしまったあの子のことを考えながら、記憶している男子シングルのショートプログラムの結果を思い浮かべる。
一位 神原(かんばら)出雲(いずも)(JPA)
二位 スコット・ヴァミール(CAN)
三位 アントン・コバレフスキー(UKR)
四位 紀(き)ノ(の)川(かわ)彗(すい)(JPA)
五位 フィリップ・ミルナー(FRA)
六位 ネイト・コリンズ(USA)
私はまだ、あの子のショートプログラムを見ていない。結果だけ見て見た気になっては駄目だ。フリーが始まる前に確認しておかないと。どうせなら昌親の解説で聞こう。わかりやすいから。
『あなたに伝えたいことがあります。もし、俺がソチ五輪で金メダルを獲れたら、一度会ってくれませんか?』
今日、全ての結果が出る。
私は長く息を吐いて、スマートフォンを鞄に入れた。
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