10章#11 対峙/退治
「こんばんは、姉さん」
『――は?』
澪さんは、兄さんと半分だけ血が繋がっているらしい。厳密にはその可能性が高い、と兄さんが言っていた。澪さんが死ぬ前の私とよく似ているのは自分でも見て分かる。だから私も兄さんと同じく、その可能性が高いんだろうな、って思う。
『姉さん』と呼ぶと、氷柱みたいに冷たい声が返ってきた。来香と話してたときはもっと柔らかかったのにな、と思う。まぁ相手が誰かではなく、兄さんからの電話に私が出たことが理由だろうけどね。
「百瀬美緒です、と言えば分かってもらえますか?」
『……その声、来香でしょ。いったい何のつもり? その名前はおふざけに使っていいものじゃない。大切な名前なの』
「ふふ、そんな風に言われると照れちゃいますね」
『ふざけないで、って言ってるんだけど』
じんわりと温かくなって、うっかりほだされそうになる。
私がいなくても、兄さんは私のことを大切に扱ってくれた。兄さんの話を通して分かっていたことではあるけれど、澪さん越しに改めて実感させられる。
嬉しくて、切なくて、痛い。
なんて、大人しく引き下がるつもりはない。
来香の願いを背負ってるんだから。
「ふざけてるのは澪さんじゃないですか? 一度は私になり代わろうとしたくせに、よく『大切な名前』とか言えますよね」
『―っ、なんで……?』
「兄さんか全て聞かせてもらいました。だから呼びましたよね? 姉さん、って」
『なっ……は? 意味が、わかんないん、だけど』
「本当に分かりませんか? 分からないフリをするのはよくないと思いますけどね」
『…………』
兄さんが窘めるような視線を向けてくる。
口の形だけで『言いすぎだ』と言われた。今にも口を挟みたさそうな顔をしている。私は強く睨みつけて、『やめて』と口パクで伝えた。
『……あなたが美緒だって言いたいの?』
「はい。来香の身体を貰ったんです」
『貰ったって、そんなの――』
「ありえないですよね。けど、そんなこと今はどうでもいいんです。澪さんが気にすべきは、今話しているのが百瀬美緒だということと――私のすぐ傍に兄さんがいることです」
とくん、とくん、と心音が鳴る。
来香が何かを言っているのかもしれない。でも彼女の声は聴こえない。分かってる。もうあの子は、出てきてくれないんだ。
電話の向こうから動揺が伝わってくる。
暫く待っていると、何やらあちらが騒がしくなった。
『お姉ちゃん、誰と話してるの?』
『ユウ先輩だと思うよ、雫ちゃん。グループトークが始まってる』
『あ~、ほんとだ!』
『……出る必要、ないから。先に雫の部屋に行ってて』
『そういうわけにはいきません。私だって……ユウ先輩の声、聴きたいです』
『っ、トラ子は絶対に出ちゃダメ。雫も、トラ子と一緒に部屋に――』
「そうやって私を遠ざけようとしても意味ないですよ?」
雫さんと大河さんがやってきたのだろう。澪さんは二人を庇おうとしていた。私が敵だ、ってすぐ判断できる鋭さはなかなか侮れない。
だけど、私は二人とも話さなくちゃいけない。
澪さんが二の句を継ぐ前に、私は兄さんのスマホを使って〈水の家〉にメッセージを投下する。
【ゆーと:兄さんは私の家にいますby美緒】
『なっ……』
「脇が甘いですよ、姉さん。さあ、お二人とも話させてください。スピーカーモードでもなんでもいいですから」
私が言うと、僅かに間が空いた。あちらで三人が話しているのが分かる。やがてあちらから聞こえる音声の質が変わった。おそらくスピーカーモードにしたのだろう。
『……美緒さん、なんですか?』
「大河さんですよね。うん、そうですよ。――久しぶりですね」
『っ、どうして? 本当に?』
「信じられないなら、私と大河さんしか知らない昔の話でもしてあげましょうか?」
『いい…です。ユウ先輩がそうだって認めたんですよね? だから一緒にいるんですよね? なら私も信じます。……会えて、嬉しいです』
涙ぐむような大河さんの声。
再会を本気で喜んでくれているその声に、じゅん、と心が湿る。兄さんと私が一緒にいることをそんな風に解釈するなんて……なんていい子なんだろう。
『それで――そんな美緒ちゃんは、どうして友斗先輩と一緒にいるんです? もう遅い時間ですよね?』
泣いて話せない大河さんに代わって、雫さんが聞いてくる。
おかげで躊躇しかけた自分に喝を入れることができた。考えてみると、雫さんが一番フラットに話せるかもしれない。澪さんとは因縁がありすぎるし、大河さんは私にとって大切な友達だから。
「そうですね、遅い時間です。なので兄さんには今日、うちに泊まってもらおうと思ってます。雪のせいで電車も止まっちゃってますしね」
『……友斗先輩が泊めてほしいって頼んだんですか?』
「まさか。兄さんがそんな軽薄な人じゃないことは雫さんもご存じでしょう?」
『当たり前じゃないですか。だから聞いてるんです。どういうつもりなんですか?』
強いな、と話しながら思う。てっきりこんな風に私に向かってくるのは雫ちゃんだと思ってた。きっと『ハーレムエンド』なんて荒唐無稽なハッピーエンドを最初に望んだのは彼女だ。太陽みたいな強さを感じる。
だからこそ、
「今の三人には絶対に兄さんを譲りません。……ううん、譲れない、です」
私は日食みたいに言い放つ。
開きかけた兄さんの口に指で触れた。今は私と三人の時間だ。それをあなたは聞いていないといけない。
――あなたがヒーローに戻るために。
『っ、なんで……そんなこと――』
「『ハーレムエンド』のこと、聞きました。それ以外のいろんなことも。四人の関係はすごく素敵で、綺麗だなって思います。だけど」
本当はこんなこと言いたくない、って思う自分がいる。
兄さんの大切な人を傷つけたくない、って。
だけど、
「あなたたちは誰一人兄さんの傷に気付いてあげられなかった。ずっと傍にいたくせに……私の代わりみたいに傍にいたはずなのに…兄さんの傷を癒してあげられなかった!」
『――っ』
「妹代わりにすらなれないあなたたちには、絶対に兄さんを譲れないんです」
口をついて出た言葉が心を満たしてしまう。
きゅっ、と胸が痛くなった。あんなに綺麗な子から命をもらったのに、私はどうしてこんなにも汚いんだろう。
自己嫌悪がどくどくと全身に回りそうになる。
でも今は自分を苛んでいる時間じゃない。私は一度深呼吸をして、畳みかけるように続けた。
「『ハーレムエンド』も決して都合がいいばかりじゃないはずです。現実的に可能か不可能か以前に――その選択がこれからの兄さんを傷つけるものだってこと、ちゃんと分かってますか?」
『友斗先輩を、傷つける……?』
「三股をかけてる最低な男――そんな風に周りから思われるかもしれませんよね。その十字架を兄さんに一生背負わせる覚悟ができてるんですか?」
『それ…は……っ、友斗先輩なら――』
「兄さんなら気にしない? そんなわけないじゃないですか。兄さんはどこにでもいるただの男の子なんです。ときどきヒーローぶってても、たくさんたくさん傷ついてるんですよ」
兄さんが唇を噛んでいた。
或いは、私の言葉を咀嚼しようとしているのかもしれない。もしそうだったら嬉しい。この言葉は兄さんに向けた言葉でもあるから。
『それを美緒が言うの? 普通じゃない恋をしたのはそっちだって同じでしょ』
「だからこそ、です。私はもう間違えない。間違えさせない。兄さんの恋人ではなく妹として――渡さないって言ってます」
『……恋人になるつもりはない、ってこと?』
「もちろんです」
ちくりと自分の言葉が刺さるけど、痛くないふりをする。
澪さんの吐息がわずかに聞こえた。それが何を意味しているのかは分からない。
「私は妹でいいんです。恋人なんかにならなくたっていい。そうやって身勝手な想いで兄さんを傷つけてしまうくらいなら――ただ傍にいることを選びます」
電話の向こうにいる三人に一太刀入れるように、私は言った。
「兄さんは、私がハッピーエンドに連れて行ってみせますから」
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