7章#38 決壊的表面張力
『ゆ~う~と~! 聞こえてるか~?』
「あー、うるさいな。聞こえてるよ。さっき『もしもし』のやり取りは終わっただろ」
『へぇぇぇ? それが修学旅行をすっぽかした奴のセリフかなぁ? そんなこと言ってるとみんなで撮った写真、送ってやんねーぞ』
「ぐっ……卑怯な」
とっぷりと日が落ちた夜。
夕食を食べ終えてもう一度雫が眠ったところで、俺は八雲と電話をしていた。電話の向こうは騒がしいらしい。ガヤガヤとした声が聞こえる。
俺たちが義兄妹であること。一緒に暮らしていること。今日は雫が風邪を引き、その看病に向かったこと。その辺りの事情は、澪が班行動で回っている際に八雲と伊藤へ伝えた。その上でむやみに喧伝しないてほしい、とも頼んでくれたらしい。
「なぁ八雲」
『んー?』
「なんていうか。俺の口から伝えられなくてすまん。こういう、なし崩しの伝え方は絶対したくなかったんだけど」
言うと、八雲はくつくつと笑った。
『そんなに申し訳ないって思うなら、あれだな。今度家に招待してくれよ。白雪と一緒にさ。で、三人で料理でも振舞ってもらおうじゃねぇか。そしたら許す!』
あっさりとした言葉を聞いて、ふっ、と笑みが零れた。
同時に思う。
こいつと修学旅行行ったら楽しかっただろうな、って。
けどいいんだ、これで。
俺は選んだ。『月』が示す迷うという未来を振り払って、きちんと選び取ったんだ。
でだから後悔はしない。『後』になんてさせない。
「分かったよ。俺はまだまだだけど、雫と澪は凄いから楽しみにしとけ。但し、如月にセクハラはさせないように」
『おうー!』
「あと……もう一つ」
『ん?』
少し言いにくくて、こほん、と咳払いをした。
ぽりぽりと頬を掻いてから、あのさ、と告げる。
「これからも、色々行こうな。冬休みとか、三学期の合宿とか、来年も……卒業旅行とかさ」
『ぷっ、なんだそれ! 友斗くんはおセンチなモードなのかなぁ?』
「なっ、人が折角真面目に誘ってんのに……! あー、これだから陽キャ様は嫌だね。陰キャが友達を遊びに誘うハードルってものを全然分かってない」
陽キャも陰キャも、くっだらない言葉だと思っているけどな。
俺が言うと、ちげーよ、と八雲は嬉しそうに言った。
「……何がだよ」
『友達じゃなくて、親友。秘密を聞いたんだから、もういいっしょ?』
「――……っ」
ほんと、そういうとこだよ、八雲。
本当は俺から言い出そうって思ってたのにな。でも、この世界の主人公は俺だけじゃない。俺の
だから俺は、
「分かったよ、
『もちろんっ!』
入れておいたコーヒーに口をつけて、その甘さに俺は顔をしかめた。
砂糖、入れすぎたかな。
自然と頬が緩む。なぁ、と真剣な声が向こうから届いた。
「ん?」
『親友として、俺からも一つ言っていいか?』
「雫のこと、だよな?」
『分かってるじゃん。そうだよ、雫ちゃんのことだ』
すぅ、と深呼吸をする。
何を言われるかは分かっているから。きちんと受け止めると決めていた。
『ちゃんと、話せよ。二人っきりなんだから。どっちにも逃げ場、ねぇんだから』
「……あぁ、分かってる」
『ならよし。親友になれたこと、後悔させないでくれよ』
「させねぇよ、絶対に」
話していると、きぃ、きぃ、と床をゆっくり踏む音が聞こえた。
どうやら雫が階段を下りてきているらしい。足音のペースが速いってことは、多少は回復したってことなのかな。
そうだといいな、と思いつつ、晴彦に言う。
「じゃあ雫が来たから」
『おう、りょーかい』
「あ、それと晴彦」
『ん、どーした?』
「如月と夜に密会するなら、良い感じのスポットは考えておいたぞ。送ろうか?」
『そういう無駄なことやってるから忙しくなるんじゃねぇのってツッコミはしないでおくとして……それはめっちゃ欲しいからプリーズ!』
「了解。今、URLで送るから」
じゃあな、と告げて、通話を切断した。
すぐに保存していたURLを晴彦に送信すると、泣いて感謝してるライオンのスタンプが送られてきた。大袈裟な奴め。でも、俺の分も楽しんでくれたら嬉しい。俺はまた今度、みんなと行きたいからさ。
そんなことを思いながらテーブルにスマホを置き、階段の方を見遣る。
そこには、髪を下ろした雫が立っていた。
「よう、雫。顔色は……よさそうだな」
「ですです。体も、軽いです。これも先輩の看病のおかげですね」
「だといいけどな。頑張ったのは雫の免疫だ。褒めてやるといい」
「どんな謙遜ですかそれ」
雫はくすくすと微笑を浮かべながらこちらに歩いてくる。
その足取りを見て、肩を貸す必要はなさそうだな、と結論付けた。それほど酷くないのにやたらと手を貸すのもよくない。
雫はそのまま、俺の隣に腰を下ろす。こつん、と肩が触れ合った。
「流石にもう、寝すぎて寝れないか?」
「そうですねー。先輩がうるさいので、もう今日はほぼ丸一日寝てますし。目がぱっちり覚めちゃってます」
「そっか……じゃあ、ホットミルクでも入れるよ。それ飲んだら少しは寝つきがよくなる」
「どんだけ私を寝かせたいんですか」
「睡眠は何より大切だぞ。俺もちょうど1か月ほど前、誰かさんに教えられたばっかりだ」
「むぅ。それはそーですけど」
睡眠不足だった俺と、睡眠過剰の雫。
あの晩と今ではだいぶ状況は違うが、寝るべきって意味では同じだ。風邪のときには寝れば寝るほどいい気がするし。まぁそんな単純な話だったら医者はいらないんだけどさ。
マグカップにミルクを入れて、レンジで温める。
見れば、俺の分のコーヒーも残り少ない。結構がぶがぶ飲んでたみたいだ。夜中に雫の体調が悪くなっても対応できるよう、次は濃いめに入れるかな。
そうしてホットミルクが出来上がる頃。
「ねぇ先輩」
と、雫がこちらを見つめて言った。
ソファーに寄り掛かり、ぐでーっと溶けるように伸びたまま。
どこか色っぽい眼が、俺を覗いている。
「汗掻いちゃったので、タオルで拭いてくれませんか? 流石にお風呂に入るのは微妙なので」
「自分で拭けないくらい怠いか? ならソファーに横になって――」
「そーいうわけじゃないですよ。ただ、先輩に拭いてほしい。それだけです」
雫はそう言うと、上に着ているトレーナーを脱いだ。
薄手のタンクトップが姿を現す。黒いブラのヒモは、ちっとも隠れていなかった。
「あほ。薄着じゃ、風邪引くぞ」
「既に風邪引いてます。それに、汗もたくさん。背中とかだと自分で拭きにくいですし……先輩、お願いしますよ」
からかい半分な気がしなくもないが、あながち完全に冗談というわけでもないのだろう。雫の声は、緊張感を帯びていた。
確かに、まぁ……分からない話ではない。たとえ冷えようとも、風邪を引いてるときは汗をどばどば掻くものだ。そのまま放置して寝冷えしてしまえば、そのせいで風邪を悪化させてしまうかもしれない。
週明けの月曜日は、雫の誕生日パーティーを予定しているわけで。
そのときに雫が体調を崩しているのは困る。もちろん延期すればいいんだけども。
「分かったよ、ちょっと待っとけ」
「はーい! 早くお願いしますね~」
「ったく、調子乗りやがって……分かった分かった」
ま、これだけいつもの調子が戻ってくれたなら看病する側としても安心だ。
もちろん、風邪が治ったから全て解決というわけではない。
俺はきちんと雫と話さなくちゃいけないのだ。何を、と言われるとはっきりとは言えないけれども。
熱めのお湯を桶に貯め、何枚か清潔なタオルを濡らしてよく絞る。
冷やすとよくないし、かといってすぐに拭き終わるとも思わないからな。あとは……一応、バスタオルも用意しとくか。濡れた体をすぐ拭けるようにってことで。
準備を終えてリビングに戻ると、雫はタンクトップ姿のまま、ソファーに座っていた。
俺の姿を見るなり、雫はこちらに背中を向けてくる。
「遅いですよ先輩! さぁさぁ、早くお願いしますっ」
「どんだけ拭かれたいんだよお前。なに、汗掻き大魔神なの?」
「は?」
「怖っ、冷たっ。今のがつまんないのは俺も分かってたけどだからってそんな声出す?!」
「出しますよ。女の子に汗掻くとか言うの、セクハラですから」
「それ言ったらタオルで体拭くのもセクハラなんだよなぁ」
苦笑しつつ、桶をテーブルに置き、雫の後ろに腰を下ろす。
雫の背中は小さかった。
汗ばんでいるせいか白いタンクトップが僅かに肌に貼りついている。どうやって拭こうかと迷い、はぁ、と溜息をついた。
「なぁ雫。これって、よく考えなくてもタンクトップの中に手を入れなきゃダメだよな?」
「ですねー。特に背中が汗掻いちゃってる気がするので。それとも、タンクトップちょっとたくし上げておきましょっか?」
「……そう、だな。その方が楽かもしれない」
タンクトップに手を入れるのと、下着以外裸の状態の背中を相手にするの。
どちらもハードルは高いが、後者の方が目的を果たすには楽だろう。
雫は僅かな逡巡も見せず、くーっとタンクトップをたくし上げる。というか、ほぼ脱いでいた。肩の辺りでくるくると巻いている状態だ。
「行くぞ」
生唾を飲み下し、同時に色んなものを鎮める。
雫は一応病人だぞ。そんな子に何を思ってるんだ、俺は。
タオルを持ち、まずお腹の裏の辺りから拭いていく。
「…………」
「……力、強いか?」
「ちょうどいいですよ」
「了解」
雫が、一気に静かになった。てっきりやっている最中もからかってくるものだと思っていたが……まぁなんだかんだ初心だしな。
苦笑しつつ、拭き進めていく。
一度集中してしまえば、看病という意識が強くなる。背中、脇腹、お腹、脇。二枚程タオルを使い、丁寧に拭き終える。
あとはブラの周辺か。流石に前はやらないとして、肩甲骨の辺りは届きにくいよな……チラと見遣り、ブラのホックが後ろにないのを確認する。フロントか。澪とシたとき、ホックを外すことは何度かあったからこの辺りのことはある程度知っている。フロントなら、ちょっと手を入れて背中を拭くくらいはいいだろう。
「悪い、ちょっと手入れるぞ」
断わりを入れてから、肩甲骨の辺りの汗も拭う。
ふふっ、と雫が満足げに笑った。
「そんなところまで拭いちゃうなんて、先輩はえっちですね」
「っ……そういうんじゃねぇよ。これは立派な看病だ」
「その割には、手つきがえっちぃ気がします」
「気のせいだな。紛うことなく、気のせいだ」
と、言い終えた――その刹那。
「じゃあ。気のせいじゃなく、しちゃいましょうか」
音を立てて、綾辻雫が壊れようとしていた。
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