6章#02 孤独の温度

 姉さんの背中はいつだって大きくて、それなのに、果てしなく遠かった。

 親戚の冷たい視線を物ともせず、異物を眼差す周囲を跳ねのけ、灼け続ける太陽みたいに生きる人だった。けれど私はそうはなれなくて、ある日、一人で泣いていた。


『いい? 強くなりなさい。胸を張って、誰も追いつけない速度で駆け抜けるの』


 眩しくて目が焼けてしまいそうな言葉だった。

 姉さんは応援のつもりだったのだろう。

 けれど、


『そんなことしたら、一人ぼっちになっちゃうよ』


 一人ぼっちの私は言った。

 誰も追いつけないほど速く走れば、当然、誰もついてきてはくれない。それは、確かに足を引っ張る何者かを振り払うには一番いいのだろう。でも、手を引いてくれる誰かのことも置き去りにしてしまう生き方だ。


『いいのよ、それで。あなたは太陽になりなさい。誰も近づけない、天の更に上にある真っ赤な太陽みたいに。そうなることさえできれば、私があなたを守れなくなっても大丈夫でしょう?』


 けれど、と言い添える姉さんはどこか遠くを見つめていた。祈るような横顔で、姉さんはそっと呟く。


『きっといつか、現れるはずよ。蝋の翼で近づいてくれる誰かが、ね。だから誰かを見つけたときは、空じゃなくて大地をその足で踏みしめなさい』


 ――だって私たちは太陽でも月でもなくて、人間なんだから。

 姉さんの言葉の意味が分からず、分かろうとせず、私は今日まで走り続けてきた。


 太陽ヒーローになりたい。

 それが私の望みだったはずだから。


 ◇



 SIDE:大河


「これで片付けも終わりか」

「ですね……お疲れ様でした」

「おう。そっちもご苦労様――って言うのは上から目線になるな」


 文化祭が終わって、二度目の後夜祭も終わった。

 生徒会の助っ人として片付けを済ませ、百瀬先輩と言い合う。百瀬先輩の言葉に、やっぱり律儀だなぁ、と苦笑しつつ、私は首を横に振った。


「不服ですけど、私は百瀬先輩の部下ですから。上から目線でも問題ないです。そもそも、昔は目下から目上の人に使うことが多かったらしいですし」

「なるほどなぁ……まぁ言葉も物事も移り変わるってことか」

「このくだらない会話からよくそんな壮大な話に繋げられますね」

「帰納法ってやつだよ。知的だろ?」

「知的がどうかは分かりませんが……そもそも帰納法と呼んでいいのか疑問が残りますし」

「まぁな」


 くしゃっ、と百瀬先輩は笑う。

 そんな笑顔にいちいち胸が高鳴りそうになるから、私は顔をしかめそうになった。けれどそんな顔をしていれば心配させてしまうかもしれない。

 作り笑顔は得意ではないから、せめて作り真顔を維持しておく。


「あぁ~、疲れた。今って何時だ?」

「時間は……もう9時ですね」

「マジか。どうりで暗いわけだ」


 百瀬先輩は、空っぽの校庭を見渡しながら呟く。

 さっきまでは騒がしかったのに、ものの30分で空っぽになった校庭。後の祭りという言葉の虚しさを表すように、どこまでも真っ暗だった。


「あいつら、ちゃんと帰れたかなぁ」

「あいつらって、雫ちゃんと綾辻先輩ですか?」

「そう。二人で帰るって言ってたからそこまで心配してないけど……こう暗いと、やっぱりな」


 百瀬先輩は、雫ちゃんと綾辻先輩の二人と一緒に暮らしている。

 それは既に知っていることで、今更何を思うことでもないはずだった。

 なのに……。


「百瀬先輩たちのお宅がどこなのか存じ上げませんけど、この辺りは治安も悪くないですし、大丈夫なんじゃないでしょうか」

「あー、まぁそうか」

「はい。というか、高校生ならこの時間帯に外を出歩くくらいは普通ですよ」

「確かに」


 私だってよく夜に散歩をする。

 夜の公園で綾辻先輩と会ったこともあるし、さほど特別なことだとは思わない。万一のことを考えれば出歩くべきじゃないのは事実だけど、ちゃんと対策をすれば過剰に心配することでもないだろう。


 ……というか、雫ちゃんと綾辻先輩なら何だかんだ上手くやる気がするし。

 その辺りのことは百瀬先輩も分かっているのだろう。

 なら大丈夫か、と胸を撫で下ろしていた。


「さて、と……んじゃ、時雨さんたちも帰っただろうし、俺たちも帰るか」

「はい――って、もしかして送ってくださるつもりですか?」

「このやり取りの後で大河を一人で帰らせると思われてんの? 俺って」

「このやり取りの後だからこそ、大丈夫だ、と考えるかと思いました。というか実際、送っていただかなくて大丈夫ですし」


 これでも、防犯意識は高いつもりだ。

 私は百瀬先輩に大丈夫だと主張するように手を肩のあたりまで掲げ、やれやれと呆れるような態度をとった。


「言ったじゃないですか。これくらいの時間に出歩くのは普通ですし、防犯ブザーも持ってます」

「それは、まぁそうだけど……だからって送れるのに送らないのは違うだろ」


 百瀬先輩は後ろ髪をくしゃくしゃと掻きながら言う。

 それから思いついたようににやーっと笑うと、からかうように続けた。


「お化け屋敷であんなにビビってるところを見せられるとなぁ?」

「~~っ! それを持ち出すのは卑怯じゃないですか!?」

「そんだけ俺の中では衝撃的な事件だったってことだな」

「そうですか。なら頭に衝撃を与えて記憶を――」

「暴力ヒロインはマジで廃れてるし復古しなくていいからやめようなッ!? 悪かった、俺が悪かったから……!」


 ぶんぶんぶんと勢いよくかぶりを振る百瀬先輩。

 その様子に、自然と笑みが零れてくる。ああ、卑怯だな。こういうところも好きだって思ってしまう。好きになる前はなんてことなかった一面が、好きになるだけでキラキラして見えちゃうのだ。


 こほん、と咳払いをすると、百瀬先輩は真面目な顔で言った。


「今のは流石に冗談だけど、マジな話、送るだけ送らせてくれ。つーか、この前まで送ってたんだし、いいだろ?」

「それは、まぁ……」


 確かに、この文化祭準備期間は送ってもらうことも多かった。百瀬先輩にそうしたいと言われてしまえば、断ることなんてできない。乙女的に。

 けれども――さっき、見てしまったから。

 百瀬先輩が綾辻先輩といるところを見てしまったから。


 雫ちゃんならまだ、割り込むことが許されていると思う。

 でも私はそうじゃない。

 たとえどれだけ過去に知り合いだったとしても、私は雫ちゃんや綾辻先輩のように長い時間を百瀬先輩と過ごしているわけじゃない。私のはまだ、季節病みたいな恋なのだ。


 なにより、綾辻先輩の指摘が今も心にこびりついている。


『部外者でしょ。兄さんと入江はただの先輩後輩なんだから』


『それなのに兄さんとあの子の関係に口を出して、あまつさえ別れさせるように仕向けて』


 あれは一面的な見方でしかない。あのときの私は、百瀬先輩たちのことを思っていたつもりだ。あのまま間違い続けたら、必ず限界がくる。だからその前に私が、って。


 でも今になって、私の中の私が言うのだ。

 お前は自分の居場所を作るために、無理やり三人の関係を壊したんじゃないのか、と。


 この想いをこのまま持ち続ければ、その見方が正しくなってしまいかねない。

 最初の意図がどうであろうと結果が全てなのだから。

 なのに、


「ほら行くぞ」

「っ、はい」


 初めての恋だから、この気持ちを持て余して、絆されて、流されてしまう。

 スクールバッグを手に持った私は、百瀬先輩と並んで下校路についた。


「終わっちゃったな、文化祭」


 歩いていると、百瀬先輩は呟いた。

 アルバムを眺めて昔を惜しむようなセンチメンタルな口ぶり。

 気付けば、ですね、と相槌を打っていた。


「綾辻先輩、凄かったです。霧崎会長もそうですが、まさか姉に勝てる人がいるなんて思いませんでした」


 しかも、姉さんが人生を賭けようとしている演技で勝った。

 もちろん演劇とミュージカルの違いも評価に影響していただろうけれど、それはあくまで僅差だろう。

 綾辻先輩は姉さんに勝ったのだ。

 ――あの太陽みたいな人に。


「だなぁ。そんな相手に不倶戴天の敵扱いされた感想は?」

「感想って言われても……私は不倶戴天の敵のつもりはないですから。戦う場も、戦う気も、そもそもありませんし」

「それもそうだな。戦う戦うって、どこの戦闘民族なんだよ、って話だし」

「本当ですよ」


 苦笑すると、この話はそこで終わる。

 その後は明日からの振り替え休日の話とか、今日のご飯の話とか、そういう他愛のない話をして、あっという間に家に着いた。


「無事送り届けられたな。もう10時近いんだし、これから出歩こうとするんじゃないぞ?」

「そんなこと千も承知です。安心してください、今日は大人しく寝ますから」

「そっか」


 じゃあおやすみ。

 百瀬先輩の声は、甘く耳朶を打つ。

 おやすみなさい。

 そう返して、私は家の中に引っ込んだ。


「……一人、か」


 一人暮らしは、私が望んだものだ。

 それなのに最近は、どうしようもなく寂しい。


 あの三人は、一つ屋根の下にいて。

 私だけが、離れている。


 ううん、ほんとは違う。

 私たちは元から三人と一人だった。途中から入った私はお零れで時々居場所をもらっているだけで、本当は部外者なんだ。

 だから、どこかで終わりにしないといけない。


「寒いな」


 孤独に低温火傷してしまいそうになりながら、私はブレザーを脱ぎ捨てた。

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