4章#28 命

「――ぱい! 先輩ってば!」

「ん……んん?」

「起きてくださいよ、先輩! 朝ですよー」


 ゆさゆさと体を揺さぶられ、俺はようやくぼやけた頭のまま覚醒した。

 まだ朧げな視界を、ごしごし目をこすることで鮮明にしようとする。口元が気持ち悪くて手で拭うと、案の定、かぴかぴな涎の跡が少しついていた。


「ん……えと、雫か。おはよう」

「おはようございます先輩。ふふっ、酷い顔ですね~!」

「うっせ。寝起きなんだからしょうがないだろ」


 昨日は何時まで起きてたっけ?

 少なくとも2時までの記憶はある。何度も何度もサンクスレターを読んで、その度に泣いて、ちっとも寝付けなかったはずなのに。

 それでも気付けば熟睡なのだから、人の体ってやつは信用ならない。


「寝起きって……まったくもう。先輩は今、何時だと思ってるんですかー?」

「何時……。え、もしかして昼間とか? すまん、そういうことなら――」

「7時です」

「あー、朝ご飯か。なんだよマジびびったじゃねぇか」

「てへっ。というか、よく朝ご飯だって分かりましたね」


 まぁそれは経験則から分かる。

 こっちでは大抵、8時になるかならないかくらいになって朝食を摂る。食べ終わって少しゆっくりした後、祖父ちゃんは海まで行く。それまでに身支度を済ませ、祖父ちゃんについていくのがお決まりのパターンだ。

 そうじゃなくとも、この時間に起こして来たら朝食かなって思うだろうし。


 と、少なくとも一般論に照らし合わせて考えることができるほどには目も覚めているらしい。くふぁぁと欠伸をしながら体を伸ばすと、枕元のサンクスレターをしまっていた箱が動いた。


「あの、先輩。昨日読むって言ってたのって……」

「うん? ああ、あれは……サンクスレターってやつだよ。美緒の心臓を受け取ったドナー患者からの、な」

「心臓移植、ですか?」

「らしい。俺は知らなかったんだけどな」


 でも今は知っている。

 だからだろうか。俺は雫に心臓移植のことを告げるのを躊躇わなかった。

 雫は微かに笑うと、そうですか、と呟く。


「そのお手紙を読んで、どうでしたか?」

「……やっぱりいい子だな、って思ったよ。美緒は凄いことをしたんだ」


 美緒の心臓を受け取ったのは、俺と同い年の少女だった。

 体が弱くて成長が遅れていたこともあり、二つ年下の美緒の心臓が適合したらしい。


 長い入院生活で心を閉ざした少女は美緒の心臓を継ぎ、人生を変えた。

 友達ができました。

 実はずっと好きな人がいます

 頑張って高校デビューしてみました。

 綴られた手紙は、鮮やかだった。誰かさんよりもよっぽど一生懸命に今を生きていて、眩しいくらいだ。


「一度も調子が悪くなったこともないんだってさ。美緒の心臓は、この手紙の子の中で真面目に生き続けてるらしい」


 心臓移植後の生存率は決して高くない。医療技術が向上した現代であっても、20年後生存率は50%に満たないとされている。

 けれど、きっと美緒の心臓ならこの子を生かしてくれる。

 この子と共に、生きていける。


 そう思った。


「もう一つ、聞いてもいいですか?」

「ん。どうした」

「妹さんのこと、乗り越えられましたか?」


 とっぷんと深い夜みたいな声だった。

 昨日の俺を見て、そう言ってくれてるんだろう。

 うん、とはっきり言えたらよかった。昨日あんな風に寄り添ってもらったんだから、胸を張って『乗り越えたよ』って克服出来たら。

 けど――そもそも、昨日のアレは乗り越えるためにやったことじゃない。

 乗り越えるんじゃなくて、向き合うためなんだ。


「そう簡単に乗り越えられるようなかっこいい奴だと思うか?」

「ふっ……ですねー。先輩はかっこ悪くて情けなくてどーしようもない人ですし」

「ちょっと? その言い方は泣くよ?」

「でも、ほんとのことですから。……そーゆー先輩だから好きなんです」


 雫が、くすっ、と笑う。

 それからこちらを振り向かず、とことこと部屋を出て行ってしまった。


「……ごめんな、雫」


 届かないのは分かってるけど、俺は謝った。

 まだ雫の気持ちとは向き合えそうにないんだ。その前に乗り越えなくちゃいけないものがあるから。


 美緒とはちゃんと向き合った。

 だから、次は乗り越える。それができたとき、ちゃんと終わらせられるのだと思う。



 ◇



「四人は今日海に行くんだよなァ?」


 朝食中。

 祖父ちゃんがぐいっと生卵を飲み干してから聞いてきた。


「うんそうだよ、祖父ちゃん。あと時雨さんから聞いてると思うけど――」

「おう、聞いてるぞォ。友達がくるんだろ?」


 時雨さんは抜かりなく伝えてくれたみたいだ。

 こくりと頷くと祖父ちゃんは、それじゃあァ、と続けた。


「いいもんがあるから楽しんできィ。俺ァ海の家にいっからな」

「うん、ありがと」


 いいもん、ね。

 バナナボートかスイカか、それともまた別のものか。海の家っつうとなんだろう? はてと首を傾げて考えつつ、祖母ちゃんが用意してくれた朝食を味わう。綾辻はここでも祖母ちゃんから料理を教わっていた。和食に対してはマジで抜かりねぇよなぁ。


 なんて考えていると、父さんが真剣な顔でこちらを見つめていることに気付く。

 何を考えているのかは分からない――と惚けても意味はないだろう。ちゃんと分かっているし、雫や綾辻、時雨さんも察している様子がある。


「父さんたちは今日、行くの?」


 どこに、とは言わないけれど。

 それだけで父さんは汲み取った。


「あぁ行く。今日洗って、迎える準備をしなくちゃいけないから」

「そっか」


 その声は微かに震えている。義母さんが父さんに心配そうな視線を向けるのを見て、父さんもまだ辛いんだろうな、と気付いた。

 いくら理屈をこねて、死を受け止めて乗り越えられたとしても、ズキズキと痛む気持ちを隠せはしない。その痛みは消えることはなく、どんなに現実を受け止めても付き合い続けなくてはいけないのだろう。


「俺は……ごめん。今日はいけないけど」

「うん」

「でも、ちゃんと行けるようにするから。もう少しだけ待っててほしい」

「っ、友斗……」


 嬉しそうに、泣きそうに、父さんは呟いた。

 義母さんが慈悲に満ちた女神のように微笑む。目を逸らそうにも、雫の優しい表情が視界に入ってしまい、逃げ場はなかった。


「分かった。待ってるからな」

「……うん」


 8月12日――お盆一日前。

 頭の奥を、チリチリと夏が弾けた。

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