2
頼まれた雑誌を本屋で買い終えてしまうと、ついでにお腹を満たすべく気になっているカフェに行くことにした。経理部の後輩から教えてもらってからずっと行ってみたいと思っていたのだが、会社から歩くにしては少し遠いので完全に機会を見失っていた。
オフィスがある京王井の頭線神泉駅から電車に揺られ、二つ先の池ノ上駅で降りる。駅は不思議だ。全く同じでもいいはずなのにホームや駅舎の形がそれぞれ違うなど、たったひとつ隣というだけでもはや異国の地ですと言いたげな匂いを放っている。うっかり電車で寝てしまい、目が覚めたと同時に停車中の駅が最寄りを通り過ぎてしまっていないかどうか確認する際、駅名標を見なくても大体駅名を思い浮かべられるのも、そういった理由からだろう。
目的地のカフェに辿り着くとまず目に入ってきたのは、天井近くまで積み上がる麻袋と、大きなパキラだった。その他にもシェフレラなど存在感のある観葉植物が所々に置いてあり、暖かみのあるグリーンが店内の明るい雰囲気をさらに底上げしていて、私は一目でこの店を気に入った。
中途半端な時間のせいか、店内にお客さんはちらほら程度だ。それゆえ今、入り口にただ突っ立っているだけの私の姿は、だいぶ違和感があるはずなのに、お客さんはおろか店員でさえ声をかけてこない。今時珍しい放任主義に逆にほっとする。
カウンターに進むと、栗色の髪にやわらかいパーマをかけた男性店員が待っていた。胸名札に「朝六」という文字が見える。あさろく? 何と読むのだろうか。珍しい名字だ。
「迷ってますね」
笑いかけられるということは、私は相当険しい表情をしていたのだろう。
「ちょうむ?」
店員は、頭上に大きなクエスチョンマークを浮かべている。私が名札を指差すと、
「ああ、これ。あさむって読みます。両親が紅茶好きで。アッサム、あさむって感じです」
あさろくでも、ちょうむでも、名字でもなかった。総スカンをくらい、地味なショックで平常心を失いかけていると、私が名前に関して何か思っていると勘違いしたのか、はたまたお客さんから浴びせられた経験があるのか、
「コーヒー屋なのに変ですよね」
と、自ら吐き捨てるように言う姿に胸が痛んだ。
「素敵。朝六さんは好きなものは好きと言える人なんでしょう」
きっと彼は両親からの希望をしっかり尊重しつつも、自分を主張することを諦めない筋の通った強さを持っているのだろう。
「初めて言われました。ありがとうございます」
私はさすがにそろそろ決めなければ、と改めてメニューに視線を落とす。
「クラブハウスサンドは決まってるんだけど……コーヒーってこんなに種類あるんですね」
「うちは特にこだわってるんです」
朝六が「まだあります」とレジ横から取り出したスペシャルメニューを眺めていると目が回りそうになってくる。
すると突然カウンター奥のドアが開き、黒髪の男性が朝六に耳打ちをするが、声はもちろんセンターパートの前髪で顔の半分が隠れていて表情すら読み取れない。その上、一方的に話し終えると電光石火のごとく元いた部屋に消えていった。黒子の申し子みたいな人だ。
結局、謎の黒髪男性におすすめされるがままロブスタという種類のコーヒーを注文し、席を探すために店内を一周していると、妙な引っ掛かりを感じた。
本来ならばカフェテーブルは碁盤の目のようにある程度縦横揃っているものなのだろうが、この店は様子がおかしい。
ところどころ中途半端な位置に大きな空間があり、どうやらそのスペースを埋めるように観葉植物が配置されているようだ。おかげで席と席の間に余裕があり、くつろぎやすいことは確かなのだが、その大きな穴とも言える余白に規則性はなく、どうしても気になってしまう。
窓側の奥から二番目の席に着き、「いただきます」と手を合わせると、香ばしい香りをより一層感じられて気持ちが和む。選んでもらったコーヒーを嗜みながら食べるクラブサンドは至福の味がした。あーあ、今日はもうオフィスに戻りたくない。
さっきから絶え間なく鳴り続ける携帯を開くと社内コミュニケーションツールのSLOCKに三十五件の通知が溜まっていて、大半が部下からのチェック依頼だった。私のせいで後輩の仕事が止まってしまうのは申し訳ないので、仕方なくPCを開き返信をしていく。一つひとつの作業ウエイトはないのだが、主任ともなるととにかく責任が重い。冠がついただけでどうしてこうも変わってしまうのか。女性の社会進出が叫ばれる時代になり会社としても管理職候補育成を促進しなければならず、たまたまレールに乗ったのが二十七歳未婚の私だったのだろう。
だめだ、せっかく見つけたオアシスなのに、これではムードが台無しだ。すぐさま、まあ電話がかかってこないだけまだましかもしれないと考える我が社畜精神に悲しくなった。
枯れ葉ひとつなく丁寧にお手入れされているベンガレンシスの丸い葉を眺めていると奥で何かがガサゴソ動いているではないか。思わず二度見すると、その正体はさっきの男だった。
背中を丸め、テーブルをひとつずつ揺らしては頷いたり、脚の下に何やらフェルトのようなものを敷いてまわっている。足元まで気が回るとはできたアルバイト店員だなと心底感心していると、その男が突然すくっと立ち上がった。かと思うと一直線に何か探している様子のお客さんの元へ向かい、ポケットから取り出したストローを渡している。
うーん、なんだか八頭身の彼が二頭身のアニメキャラクターに見えてくる。とにかく見た目とは裏腹に挙動不審なのだ。
「店長ー、ブルボン発注してもいいすか?」
カウンターで朝六が手元のパッケージから一瞬たりとも目を離さずに問う様子が見て取れた。
私はてっきり奥の部屋から誰か出てくるのかと思ったら、フロアでさっきの男が汗だくになり両手を上げて大きな丸を作っている。
あの男、また変な……え、店長!?
一旦落ち着こうとコーヒーカップの取っ手を掴もうとするが、何度も空振りしてしまうくらいには動揺が隠せなかった。
その店長と呼ばれる男は、カウンターに移動する間も、常連客から「今日もハンサムね」と声をかけられていて、そうだよな、いるだけで周りまで明るくなる人って存在するんだよな、と考えていた。黒子のくせに。
彼は、本当に照れているのか、まんざらでもないのか、会釈だけで返している。
私はもうちょっとこの不思議な男性を見ていたい気もしたが、対面の椅子に置いていた書店袋が目に入り、そろそろ会社に戻らなければならないことを思い出すと、急にお腹のあたりが重くなってきた。
もたもた用意をするつもりが、ガラスドアの向こうからベビーカーを押す女性が見え、私は急いで空の食器を乗せたトレイを下げて入り口に走る。
途中、後ろからキュという音が鳴った気がする。しかし、赤ちゃんの真っ白い肌ととろける笑顔から目が離せず、それどころではなくなっていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます