第二十話 となりの大陸。

「アーシェくん、アーシェくん」

「……お姉ちゃん。僕またやっちゃったの?」


 アーシェリヲンは額あててくれていた手を握って、薄く目を開けた。


「お姉ちゃん、……そう呼ばれるのも悪くないわね」

「……あれ? お姉、ちゃん、……じゃないの?」


 グランダーグ王国の港を出てあれから一日と少し。昨夜は少しだけ海が荒れてしまったせいか、アーシェリヲンは船酔いしてしまった。

 具合を悪くして寝込んでしまったせいか、魔力を枯渇させて寝込んでしまったときの夢を見たのかもしれない。


「そうね。でも、レイラお姉ちゃん、と、呼んでくれたら嬉しいわ」

「あ、あれれ?」

「駄目よ、無理に身体を起こしたりしたら――」


 アーシェリヲンが身体を起したときはまだ、船の揺れが酷かった。そのせいもあって、彼の頭の中がどろっと溶けるような感覚蘇ってくる。


 部屋に備え付けのトイレに駆け込んで、アーシェリヲンは胃袋の中身を空っぽになるまで便器にしがみつく。トイレから出てくると、げっそりした表情。船の揺れが収まらない限りは、本調子になるには時間がかかりそうだ。


 天気は回復したのだが、まだ海は荒れている模様。海が荒れていなければ一日の航海だが、こうなってしまうとなかなか進まないのが船である。


 このままだと、海を越えるまであと二晩くらいかかるそうだ。予定からいえば、明後日の朝くらいだろうという話らしい。


「僕、運がないね」

「そんなことはないわ。これでもまだね、大したことはないそうよ」

「うーわ……」

「だから今は寝ていたほうがいいわね」

「はぁい……」


 大人しく寝ることにしたアーシェリヲンの額に、レイラリースは手のひらを置く。するとなぜか、気持ち悪さが和らいでくる感じがしたのだった。


 ▼


 その日の夜、思ったよりも早く海は静かななぎの状態へ戻った。この調子なら明日の朝には陸が見えてくるとのことだった。


 予定ではいまごろ陸の上を移動中だったのだが、あいにく外は時化しけ。海の状況は変わりやすく、ちょっとした風でもうねりが出てしまうことも多い。


  ただその点この商船は大きく丈夫で、乗っている分では安全だという。だが、アーシェリヲンが船酔いするというのは予想できない事故のようなものだった。


「アーシェくん。食べられそう?」

「うん。レイラさん。少しなら」

「レ・イ・ラお姉ちゃん、でしょう? 船を下りるまではそう呼んでくれるって約束してくれたじゃないの?」


 確かに約束した。なによりレイラは、アーシェリヲンが具合を悪くしていた間、かいがいしく面倒をみてくれたから。感謝の意味もあって、そう呼ぶことを了承したわけだ。


「レイラ、お姉ちゃん?」

「えぇそうよ。ちょっと待っててね。食堂で消化の良いものをもらってきてあげるから」

「うん。ありがとう、レイラお姉ちゃん」

「くーっ、いいわね。その響き」


 そう言って部屋を出て行くレイラ。ここは一等船室らしく、部屋の中に風呂とトイレがついている。別々に三室確保できているとのことで、ここはアーシェリヲンの部屋。


 それでも昨日は一晩中レイラがつきっきりで看病をしてくれた。昼頃に様子を見に来たエルフォードが『まるで姉弟きょうだいみたいだな』と笑っていた。


 貴族のアーシェリヲンとそうでないレイラを見比べても、髪の色も瞳の色もそう変わりはない。だから、そのように見えたとしても不思議ではないのかもしれない。


 ▼


 昨夜はあまり揺れなかったおかげで、アーシェリヲンも眠ることができた。


「おはよう、アーシェくん。準備はいいかしら?」

「はい。おはようございます、レイラさ――」

「お・ね・え・ちゃん」

「レイラお姉ちゃん」


 アーシェリヲンはつい笑いそうになってしまう。親元を離れて今日で二日目。二人が入れ替わり立ち替わり訪れてくれたおかげで、寂しいと思ってしまう暇を与えてくれなかった。


 気持ち悪くなって駆け込んだこのトイレにもお世話になった。そのようなことがあったからか、二日お世話になった部屋を出る前にちょっとだけぺこりと頭をさげる。


 船室を出て、甲板に上がるとまもなく接岸のようだった。グランダーグよりもちょっと古め。それでも賑わいをみせる港。これだけ大きな商船が着岸するのだから、それなり以上に大きな港でないと駄目だからだ。


 レイラに連れられて馬車へ向かう。エルフォードは既に御者席に座っていた。


 この客車の側面と後ろに刻まれたユカリコ教のシンボルマーク。お皿の上にフォークとナイフが交差している絵。


 エルフォードが教えてくれた。『余程のもの知らずでない限り、ユカリコ教の馬車にちょっかいをかける愚か者はいない』とのこと。


 護衛の任についているエルフォードは、神官でありながら騎士団で剣の実戦訓練を行っているとのこと。レイラリースも優秀な魔法使いだと教えてもらった。


 会ったばかりのときは何の魔法を使うか聞いたのだが、『そのときになったらわかるわよ』とはぐらかされた。だが、この二日間であっさりわかってしまう。なぜならアーシェリヲンが具合を悪くしているときに、治癒魔法を使ってくれたからだった。


「それじゃ、ここから二日だ。頑張っていこうか」

「何を頑張るのよ」

「あ、そうだったな」

「あははは」


 商船から下りて港の外れ、街道に出る前に入国を管理する場所がある。だがユカリコ教の馬車は挨拶を交わす程度で素通りできている。ユカリコ教といえば『れすとらん』、だからどの国からも歓迎されていると聞いているからだろう。


 半日少し、日が暮れる前あたりで宿場町へ到着。そこで今日は一泊する。普通なら野営をするところらしいが、アーシェリヲンとレイラリースがいるからそれはしないとのことだ。


 商船の中での食事もそこそこ美味しかった。この宿の食事もやはり美味しい。利用客が途切れないというのは、それなりの理由があるのだろう。アーシェリヲンはそう思っていた。だが、レイラリースがぼやき始めたのだ。


「『れすとらん』で『はんばーぐ』を食べちゃうと、物足りなくなるのよね」

「レイラお姉ちゃん。は、『はんばーぐ』って何ですか?」

「肉料理なのよ。とても柔らかくて美味しいの……」


 どこか遠くを見るようなレイラリースの表情。


「そうだな。神殿の食堂でも、たまにでるんだよな……」


 エルフォードもやや上を見ながら思いを馳せるように言う。


「『はんばーぐ』以外も、美味しいのよねー」

「あぁそうだね」


 ユカリコ教は『れすとらん』の経営をしている。もちろん、神殿で働く人の食事も同じ料理人が作ってくれるそうだ。


「ヴェンダドールに着いたら『はんばーぐ』食べましょうね」

「いいの?」

「えぇ。もちろんよ」


 翌朝早くに出発。日が暮れるあたりにはヴェンダドールへ到着するらしい。本来なら三日で到着するところだったが、時化のため一日多くかかってしまった。

 それでも頑張れる、まだ見ぬ『はんばーぐ』ためであったなら。


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