第四話 アーシェとその家族。

 アーシェ少年の机の前には窓があり、下を向くと中庭が見える。少し先には敷地を取り囲む壁があり、その向こうには港町が見え、そのまた先には広大な海が広がっている。


 窓を開けてあるから、海から届く潮の香りがわかる。その香りを楽しみながら、本に没頭すると更に臨場感が増す。それはここグランダーグ王国が、海に近いということもあるのだろう。


 中庭からは、アーシェの姿をみつけた使用人がお辞儀のあとに手を振ってくれる。手を振り返すと彼ら更に笑顔になって、お辞儀をしてまた仕事へ戻っていく。


「アー、シェっ」

「うわっ」


 後ろから抱きつかれて初めてわかった。声の主はもちろん彼の姉。なぜなら、抱きつかれた感触が母とは違うからである。


「お姉ちゃん、苦しいってば」

「こんなに朝早くからお勉強? それにしても、ずいぶん増えたわね……」


 姉はアーシェのかたわらにある書棚を見上げる。彼女の背の倍はある書棚に、ぎっしりと並べられた本、本、本の森。彼女も呆れてしまうほどの蔵書だった。


 これらをすべて読破し、内容を理解していることは姉も知っている。自慢でもあるが、ちょっとだけアーシェのことが心配になってしまう。


「大丈夫。ちゃんと普通の勉強もしてるからね」


 正直言えば、知識の量と回転の速さは姉は自分よりもアーシェのが遙かに上だと思っている。彼女は十二歳から中等学舎に上がっている。そこで受けた授業の際、難解に思ってしまった問題をアーシェにみせたところ、あっさりと解いてしまったことがあった。


 それ以来、課題に詰まるとアーシェに教えてもらいに来る。彼は『しょうがないな、お姉ちゃん』と言いながらも、楽しそうに問題を解いて説明をしてくれる。だから心配はしても、怒ったりはしない。


「ほら、もうすご朝ごはんだから、顔を洗ってきなさい」

「はぁい」


 ▼


 グランダーグ王国、王家に仕える伯爵家のひとり。フィリップ・エル・ウィンヘイムは王国騎士団で団長職に就いている。年齢は三十三歳。筋骨隆々という見た目ではないが、引き締まった身体と高い身長。騎士とは思えないほど優しい顔立ちを持つ父親でもある。


 その妻、エリシア・フラン・ウィンヘイムはフィリップよりもふたつ年下の三十一歳。少々お転婆ともいえる活動的な性格だが、それに負けないほどに優しい。すこし控えめな胸元に引け目を感じる美しい母親である。


 二人は一緒になって今年で十三年になる。この国での成人年齢は十八歳。その年にエリシアはフィリップに嫁いだことになる、……というのが普通だろうが、それは逆だった。


 エリシアは洗礼後の『お披露目』を実はしてない。それでも彼女は目を引くほどの可愛らしさだったと噂が立った。彼女は十二歳のころより、ユカリコ教の『れすとらん』で花形の『うぇいとれす』となって奉仕活動をしながら自らを磨いていた。

 そうして年を追う毎に美しく成長していき、誰からも愛される女性に成長していった。


 下級貴族の出であったフィリップは、家族で『れすとらん』をよく利用する、いわゆる常連客であった。まだ少年だった彼は、そのころから彼女に恋心を抱いた。だが自分は貴族とはいえ最下層の騎士爵家。中等学舎に通う将来も決まっていない自分にとって、憧れ以上の思いを抱いてはならないと思っていた。


 騎士爵家の出だから必ず騎士になれるというわけではないため、自らの努力で難関をくぐり抜けて騎士団に入ることができた。その後功績を挙げてのし上がり、将来有望と認められるまでになった。その間も『れすとらん』に通い詰め、なんとかエリシアを射止めたのだ。


 エリシアは侯爵家のご令嬢、ということになっているが、元々はこの国の表舞台に立つことがない第六王女だった。エリシアは『れすとらん』で働く花形の職業、『うぇいとれす』に憧れていた。

 だが、王女が『れすとらん』で『うぇいとれす』になるのは体が悪い。父親である国王と、王妃である母に強引なお願いをし、母の生家である侯爵家に預けられた経緯がある。


 『れすとらん』で偶然フィリップを見かけてエリシアもまた一目惚れ。これまた強引なお願いをして、半ば無理矢理ご成婚となった。

 ウィンヘイムは侯爵家でフィリップの旧姓はアルダートだった。フィリップは婿入りをしてウィンヘイム侯爵家の分家ということになり、この姓を名乗るようになった。


 もちろん、フィリップは彼女が王女だということは口外するなと約束させられる。そんな裏話もあったりするのだ。


 二人の婚姻は一時一般市民の間でもサクセスストーリーとして有名になる。フィリップはその後も努力を続け、騎士団の団長職にまで上り詰めた。文字通り努力の人だった。


 二人の間には、長女に十三歳のテレジア。長男のアーシェリヲン。次男に八歳のフィールズ。三人の子供に恵まれていたのである。


 この物語の主人公であるアーシェリヲンは、そんな両親の間に生まれた今年十歳になる男の子であった。

 父親と母親ゆずりの綺麗なブルネットの髪。この国では珍しい、これも母親ゆずりのとび色の瞳。

 母親似で可愛らしい顔立ち。やや華奢きゃしゃで年齢よりも低い身長。それはふたつ年下の弟と変わらないほどだった。


 姉のテレジアは三つ年上。既に洗礼を終えており、『お披露目』も済んでいた。エリシアと同じ治癒の加護を持っており、一緒に領民の健康を支えている。十五歳になったらエリシアにならって『れすとらん』で修行する予定。


 弟のフィールズは体つきが父親似で恵まれて育つ。兄アーシェリヲンよりもややがっちろ。わんぱくで、八歳の年少だが父フィリップから剣術を学んで日々頑張っている。


 一方、アーシェリヲンは母の資質を受け継いで生まれ育ったようで、魔力の総量が同世代の子供よりも遙かに多く、魔力も同じようにきわめて高い。洗礼を行ったあと『お披露目』を終えたと同時に、初頭学舎へ入学することが決まっていた。


 本の虫とも言える性格のせいか学ぶことが大好きで、家庭教師についてもらいながら初等学舎で学ぶはずの学問範囲を既に予習し、理解し終えてしまっている。家庭教師はウィンヘイム伯爵家の従者で、優秀な女性の文官。彼女曰く、『アーシェ様は中等学舎への飛び級が可能なほどの逸材でございます』とのことだ。


 アーシェリヲンは身体を動かすことが嫌いなわけではない。だが、剣や槍、その他武術の才能を見いだすことが現在できなかった。そのため、父フィリップからは、護身のための体術を五歳のころから教えてもらっている。


 最初は中庭で追いかけ遊び程度のものだったのだが、近年ではフィリップが襲いかかっても紙一重でかわしてしまう。アーシェリヲンは基本的に、目が良いのであろう。フィリップは、アーシェリヲンが回避の素養はかなりのものだと思っている。


 だが、剣の手合わせをさせても、フィールズにあっさり負けてしまう。もしかしたら、アーシェリヲンの優しさが邪魔をしているのかもしれない。エリシアがそう言っていたのを納得せざるを得ないほど、どうしても要領を得ないのであった。

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