メイド・ルーシェの新帝国勃興記 ~Neu Reich erheben aufzeichnen~

熊吉(モノカキグマ)

プロローグ

:0-1 第0話 「老婆とモールス信号」

 冬。

 極北の地から吹き寄せる冷たい風と、降り積もった雪が容赦なく人々を凍えさせる、そんな季節。

 シュペルリング・ヴィラ……、[すずめ館]と呼ばれている、かつてノルトハーフェン公国という小国を納めていた公爵家が、政務を離れてゆったりと過ごすための別荘として築いた屋敷。

 その一室で、すっかり白くなった髪の毛を結い上げ、表情にいくつものしわを刻んだ老婆がイスに腰かけている。

 正装をしていた。女性らしいドレス姿ではなく、肋骨服という軍服の一種をアレンジしたものを身につけ、首元には彼女の瞳の色と同じ、青いスカーフを巻いている。

 普段は使われていない、空き部屋だった。なにも置かれていないはずの場所だったが、今はイスとテーブルが運び込まれ、そして、ごちゃごちゃとした配線が張り巡らされている。昔ながらのオイルランプで照明を得るタイプの古い部屋には似つかわしくないもので、それは扉から部屋の外へとのび、隣の部屋の中に引き込まれてから、さらに屋敷の外へとつなげられている。

 配線の根元にあるのは、テーブル上に置かれた小さな機械。それを老婆は真剣なまなざしで見つめていた。

 四角い板の上に、銀色に輝く金属製の部品がたくさんついている、一見すると複雑そうな機械。

 しかし実際は、たった一つの機能を果たすためだけに作られた、単純なもの。

 ———モールス信号。

 今から十数年前に発明され、トンという短音と、ツーという長音、そして空白を示す無音の組み合わせを電気信号に乗せて送り、従来では考えられなかったような遥か彼方にいる相手と意思疎通を図ることのできる信号を送るためだけの、電鍵でんけんと呼ばれる装置。

 その発信機を、老婆はじっと見つめている。

 わずかな緊張感を伴った沈黙の中に、壁にかけられた時計がチックタックと音を刻む音だけが響いている。

 やがて時計は午前十時半の辺りを針で差した。


「時間ね」


 ちらりと時計を確認しそう呟いた老婆は、テーブルの上にトンツーで文章が書かれた紙を用意し、左手で受診した信号を音声にして伝えてくれるスピーカーを持ち上げ自身の耳に当て、右手を電鍵でんけんのつまみに置いた。

 準備を整えると、また、じっと待つ。

 テーブルの上に広げた文章を、すでに完璧に暗記してしまっているのだが念のためにもう一度確認しながら、耳を澄ませている。


「……来たわ」


 ほどなくして、老婆の耳に信号が届いた。

 左耳に当てたスピーカーにモールス信号の短い文章が届き、すぐにまた沈黙する。

 メッセージを送れという合図。

 それを受け取ると、老婆は素早く電鍵でんけんを操作し、澱みなくテーブルの上の紙に書かれた文章を送信していった。

 まるで専門の技師のように正確な打音が響き、電気的な信号となって電線を駆け巡る。

 モールス信号は、一瞬で彼方へと届けられる。

 数千キロメートルもの長さをつながれた電線を伝った信号はこれまでのどんな情報伝達手段よりも早く、老婆がこの日のために自身で用意した[祝電]を伝えた。


≪親愛なるサーベト帝国の皇帝陛下へ。わたくし、タウゼント帝国のルーシェが、謹んでお祝いを申し上げます。我が国と貴国とが手を取り合い、十年以上もの歳月を経て完成させたベルレ運河は、遠く隔てられていた二つの海を結び、両国の発展のみならず、世界の発展に大きく寄与するものと信じております。両国の変わらぬ友好と、繁栄を願いつつ。送信終わり≫


 すべてのメッセージを送信し終えると、老婆は電鍵でんけんから手を離し、イスに深々と腰かけて「ふぅ~」っと緊張から解き放たれた溜息を吐いた。

 ほどなくして、送った祝電に対する返電が届く。

 それは、かつて敵対したことのある両国の関係改善に尽力し、多くの支援を与えてくれたことに対する謝意と、今後も変わらぬ友好関係を願うものだった。


「うふふ……。昔は、戦争もした相手なのにね」


 自身が送った祝電のメッセージが描かれた紙の裏に返電を鉛筆でメモした後、さっと見返して内容を確かめると、老婆は感慨深そうに微笑んだ。

 ———その時、部屋の扉を四回、丁寧にノックする音が響く。


「どうぞ。お入りください」


 楽しそうな口調でそう許可をすると、「失礼いたします」と入って来たのは、肋骨服を身に着け、眼鏡をかけた若い技術士官だった。


「お見事でした。国母陛下と同等の送信技術を持っているのは、我々通信科でもまれであると思います」

「ふふっ、たくさん、練習させていただいたもの。……それで、どうかしら? 」


 老婆は心底から感服したまなざしを向けて来る士官に、自身が聞き取った信号をメモした紙を手渡す。

 それを二度目で追って確認すると、眼鏡の奥の双眸があらためて驚きに見開かれた。


「一字一句、間違いなし、です! 驚きました」

「あらあら。私はもうおばあちゃんですが、まだまだ、耳は達者なつもりですよ」

「あっ、その、そういうつもりでは……っ! 」


 すると老婆はツンとした態度でそっぽを向き、技術士官は慌てる。


「冗談です。少し、からかっただけですよ」


 その様子に、いたずらを成功させた子供のような笑い声があがり、からかわれた方は恐縮するのと同時に、まるで祖母の前ではにかんでいる孫のような顔をした。

 そんな二人の耳に、時刻が十一時となったことを伝える、時計の鐘の音が聞こえてくる。


「もうこんな時間なのね。……さて、お茶会の準備をしなければね」

「はい。エドゥアルド陛下はすでに宿泊地を出発され、こちらに向かっていると電信が届いております」


 忘れていた予定を思い出した、という風に老婆が呟くと、姿勢を正し、真面目な表情を作った技術士官が、先に受け取っていた連絡を報告する。


「ありがとう。なら、後片付けはお願いしてしまって、いいかしら? 」

「もちろんです。どうぞ、お任せください」


 それが自分の仕事なのだから。

 そういう自負心のあらわれた凛々しい表情での頼もしいうなずきに、しわくちゃの顔にまた、嬉しそうな表情が浮かぶ。


「あなた、いい顔をしているわね。……エドゥアルドさまもよく、そんな顔をなさっていた。自分のしていることに誇りを持って、真っ直ぐに歩んでいく。そういう人の顔」

「そんな……、陛下と比較していただけるなんて、恐縮です! 」


 その言葉に、凛々しい表情はたちまち崩れてしまった。

 まだ二十に満たない年相応の少年らしい仕草と、ちょっとした[人違い]に、老婆は思わず笑い声を漏らすと、立ち上がりざまにウインクをして見せる。


「それじゃぁ、よろしくね。……後で、お茶を持って行ってあげるから」


 そしてそう言い残すと、うきうきと楽しそうな鼻歌と共に、かつてメイドだった彼女は部屋を去って行った。

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