【八】憎悪の手助け
一歩、また一歩と下がる。河童は同じ歩数で詰め寄ってくる。——次の瞬間。立ち上がった小町が、右手に持った懐刀の柄で、河童の後頭部を殴打した。ごん、となかなかの衝撃だった。不意打ちだったこともあり、河童は足で体重を支えられなくなる。
「まったく、無茶するねえ小町」
「ま、あんたなら分かってくれるって、信じてたから」
「えっ、なに、やだもう……」
「やめろ、首ったけやめろ」
……なんて一安心の会話をして、洞窟の探索を始める。松明の存在が、かなり奥の方まで拠点として使われていることを物語っていた。
「桜華、なんか臭わない?」
「え? まだ行水してないからって、そんな事言わなくても」
「いやあんたじゃないわ。洞窟内の空気の話」
小町がそう言うのでよく嗅いでみる。すんすん。うん、確かに臭う。肥溜めとかの臭いとは、また種類が違う。鼻の奥に突き刺さるような……そう、腐臭ってやつだ。奥に進むにつれて、臭いの強さはどんどん豪儀になっていく。そのうち耐えがたくなって、手拭いで鼻と口を覆った。
「小町、こっちにも空間があるよ」
「ほんとだ……って臭っ!」
私が見つけた空間は十畳くらいの、とてつもなく臭い部屋だ。さっきから漂っていた強烈な腐臭は、ここから発生しているように感じられる。
「ちょっと提灯で照らしてみてよ」
小町が左手に持っていた提灯を臭い部屋に向ける。その瞬間、二人して息をのんだ。心臓が止まるような感覚さえ抱く。どちらかと言えば蒸し暑いこの空間において、身体が凍てついた。
「桜華、これって」
「ひ、酷い……」
一言で表すなら、
「こんな事って」
呆れなのか絶望なのか、私にも分からない。とにかく嫌な気持ちで、一歩部屋へ入る。むわっと、瘴気に包まれた。
「うん?」
更に足を踏み入れようとした折柄、からんと何か平たい金属らしい物を踏んだ。見ると、それは包丁であった。小町も部屋に入ってきて、提灯が闇を照らす。奥の方に提灯の残骸が見えた。そしてその手前には、
「あ、あれは……!」
「桜華?」
鼻を抉るような臭さを気にも留めず、私はそれのもとへ駆けた。比較的まだ新しい亡骸。濃いめの緑を基調とし、部分的にあずき色で模様が描かれた、彼女の好みが全面に出た着物。肩ほどの長さの茶髪。白い珠の髪飾り。その全部に、見覚えがあった。
——抹茶ぜんざい好きなの?
——うん、大好きだよ!
彼女との会話を思い出しながら、亡骸の横に立つ。気づいたら歯を食いしばっていたけど、爪が食い込むほど強く拳を握っていたけど、不思議と何も感じない。
「み……みや、こ…………」
——一緒に抹茶ぜんざい食べに行こうよ
——うん、約束だよ!
ぷつんと、何かが切れる音がした。いつの間にか、私は小町を残して、来た道を戻るように走っていた。
目の焦点が定まらない。
全身が煮え滾るように熱い。
血の駆け巡る感覚が、音となって頭蓋の内に響く。
この思考と身体を動かしている思考とが、遠く切り離されているように感じる。体がそれこそ身勝手に動いていて、頭が後からそれに理由や説明を付け足しているような感覚だ。熱熱の鍋を触った時に、頭で考えずとも無意識に手を引っ込める現象。あれに近い気がする。ああそうだ、思い出した。二年前に家族の亡骸を前にした時も、確かこんな感じだった。じゃあこの熱いのは、憎悪か。
やがて、倒れた河童のところまでたどり着いた。思い切りわき腹を蹴って目覚めさせる。河童はおもむろに立ち上がった。
「うぐ、ぐへへへ。うんまそうだぁ」
無い袖で唾を拭いながらごみが言う。
私は
憎んでいる。
殺せる。
鯉口を切った。
殺せる。
二つの懸念の内、「躊躇い」が解決した。憎悪は私の味方。私に、殺しという行為の敷居を飛び越えさせてくれる。頭で考える暇もなく。体を動かす心が、勝手に憎悪の対象を殺させようとする。慈悲も情けも無い。夾雑物の一切ない、純粋な憎しみ——完全なる黒に支配された。私はもはや、
刀を抜いた。すると、河童の左肩から右腰にかけて
しかし——
「そこまでだよ、桜華」
その腕は止められた。右手首に体温を感じる。小町が止めたのだと、すぐに解った。
「離してよ、小町」
「離さない」
「なんでよ。こいつは、こいつは、京都をあんな目に遭わせたんだよ。小町だって、
赦せるわけがない。許容できるわけがない。それなのに、なぜ小町は私の攻撃を止めるのか。なぜごみくずを殺させまいとするのか。私には、全然分からない。
「ああ、赦せないね」
「だったら——」
「あたしたちの敵は、そんな小物じゃない!」
私の言葉を遮って、小町は強く叫んだ。怒りとも諭しとも捉えられる。
「ここで殺しをやったら、あんたは防人に捕まって死罪になるかもしれない。そうなったら、どうすんのさ。あたし一人で……あんた抜きで、家族の仇討ちなんかできるわけない。あたしを一人にすんなって、言ったじゃん」
「小町……」
闇が晴れた。私は私の体を、私の思考で動かせるようになった。駄目だな、私。感情的になると、すぐ何も見えなくなっちゃう。それで、いつも小町に宥められて。
刀を降ろした。振り下ろしたんじゃなくて、鞘に納めたのだ。河童は、ついに腰を抜かしたらしい。
「約束しよう、桜華。家族の仇以外、殺しはしない。殺してほしくない。だからほら、約束」
そう言い、小町は指切りげんまんを差し出した。京都のそれと姿が重なる。目が、熱い。気づいてすぐに、それは頬を伝った。心の中で沸沸としていた熱いのが、目から出て行ったみたいだ。
「ごめん、小町。うん、約束」
指切りに応じ、切ってから一瞬だけ小町に抱き着いた。かくて私たちは、家族の仇以外は殺さないという約束、すなわち、不殺の契りを交わしたのである。
「……さて、この
どんな刑に処されるかは、防人やお偉い様方しだいだ。まあ、これだけの事をやらかした奴なら、そうそう軽い刑では済まされないと思うけどね。再び後頭部を殴打して気絶させ、洞窟の入り口を隠していたつるを縄代わりにして縛った。腕は後ろで組ませ、足は歩けないようにし、胴体を腕ごとぐるぐる巻きにしてやった。これなら動けないだろう。それを防人の西部駐屯所に投げ込んで、近くの地面にこう書いて差し上げた。
『小生は一連の少女失踪事件、神隠しの元凶であります。数々の
ってね。ついでに洞窟の情報も書いておいた。これなら、さすがの無能でも調べがつくだろう。
「あ~あ、いやな汗かいた。もう遅いけど、帰ったら水浴びでもしよ。汗臭いなんて、美少女の沽券に関わるからね」
「……あっそ。じゃ、お背中お流しいたしましょうか」
「え、いいの? じゃお願——」
「うっそ~。自分でやれしぃ」
「ええ、なんでよ!」
夜の町に、茶番劇の声が
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