第18話 答え合わせ6

 その店は、カジュアルフレンチレストラン。店内は、ワイン貯蔵庫をイメージしているのか、レンガ調の店内となっていて、客層もやや上という印象だ。入り口側にはバーカウンターがあり、写真以上の落ち着いた大人の空間が広がっていた。

 ウェイターに案内され、店の中央席に座り、彩芽と向い合って座る。メニュー表を渡されると、彩芽が笑顔で身を乗り出してきた。

 

「前座った場所。あの辺だったよね」

 彩芽が顔を向けた方向は、一番奥の端の席。革カバーのメニュー表の手触り。それだけで、記憶が蘇って、陽斗は苦々しく笑うしかなかった。

「よく覚えてるな」

 

 八年前が鮮明に蘇る。考えてみれば、フラれたどうこう以前に、酷い様だったなと思う。

 外食はいつもファーストフード店だったくせに、どうしても格好つけたくてこの店を選んだ。どうして、この店だったのか。その理由は簡単で、検索して一番上に出てきた店だったからだ。写真だけさらっと見て、細かいメニューなど確認もせずにやってきた。

 だが、いざ席に通されてメニューを見せられれば、見慣れぬカタカナばかり並んでいてよくわからない。だからといって、コース料理なんて怖くて頼めず、適当にパンと単品のみ。頭の中は、焦りで一杯一杯だった。その上、周囲の大人たちは「あの子達初々しいわね」と言わんばかりの、好奇の視線。肌にグサグサ突き刺ささってきて、本当に居心地が悪かった。

 だが、今はこの雰囲気にしっかりと馴染めていると、思う。

 陽斗が「コース料理でいいか」と、提案すれば、彩芽は「食前酒は、スパークリングワインでいいよね」といった具合に、すんなりと決まっていく。


 そして、食前酒が運ばれてきた。グラスに注がれたふわふわ浮かんでいく金色の気泡。グラスを手に持ったその奥で、彩芽がニッコリとほほ笑んだ。

「乾杯」

 お互いグラスを掲げて、一口飲む。発泡酒の刺激が、心地よく響いてくる。気分も、ふわりと浮かんでいく。

 そこに、前菜のカルパッチョが運ばれてきて、口へ運ぶ。こんなにおいしかったんだと、二人して目を丸くして、笑い合う。

 食前酒は、あっという間に空になった。

 

「やっぱり大人になってきてみると、全然違うね。高校の時は、この雰囲気に圧されっぱなしで、落ち着かなかったし。そもそも、未成年だったからお酒飲めなかったもん。というわけで、せっかくだからワインも飲もうよ。あの頃は飲めなかったけど、今は飲めることだし。それに美味しそうなワイン、たくさんありそうだよ」

 彩芽は、目をキラキラさせて「ワインリストください」勢いよく手を挙げていた。

 メニューが彩芽へ手渡されると、丸い瞳に更に星が輝き始める。


「オーパスワンがある! しかも当たり年だ」

 陽斗は、彩芽からさんざん叩き込まれたワインの基本教材を頭の中で開いてみる。オーパスワンといえば、アメリカのカリフォルニアワイン最高級といわれている代物だ。当たり年とは、ワインの原料であるぶどうが、造り手にとって最高の状況で収穫できた年のこと。その二点が掛け合わされれば、嫌な予感しかしない。

 満面の笑みで彩芽は、陽斗へリストを向け、指差す。やけに桁が多いのは、気のせいか? 視力が落ちたのかと思い、身体を乗り出してみる。どうやら、目のせいではないようだ。時折、ふわっと思い出される映像は、一気に吹き飛ばされて、現実に引き戻される。

 

「……値段」

「わかってるよ。さすがに、頼むわけないじゃん。お互いの懐具合は、ちゃんとわかってますよ」

 彩芽は、ふんっと、鼻を鳴らしながらも再びニコニコと自分の方へメニューを戻す。

「メインは肉料理だから、しっかりめがいいよね。あ、これにしよう。スペインのテンプラニーリョ。華やかで美味しいし、価格もいい感じ。これで、決まりね」

 彩芽がオーダーすると、すぐにボトルワインが用意される。彩芽がテイスティングし終え、二人のグラスに注がれる。ウェイター髪を引く姿も、彩芽もすべての動作が洗礼されていて、陽斗はワインを手にしながら、思わず唸る。

 

「ワインを前にして『不味い、こんなの飲めない』って、叫びまくってた人間とは、思えないな」

「それって、初めてワイン飲んだ時でしょう? あれは、急遽コンビニで買ったワインで、初めてのお酒だったし。当時は何を選べばいいかなんて、全然わからなかったから、しょうがないじゃん」

「それ以前に、まさか、病院に持ちこんでくるなんて、思いもしなかったぜ……」

「一生で一度の成人式を病院で過ごすことになって、落ち込んでるかなと思って、持っていってあげたんじゃない。感謝しなさいよ」

 

 彩芽の言うとおり、確かに入院しているときは、絶望的な気分だった。

 成人式当日。友人たちから回ってくる連絡は、成人式の話題や飲み屋はどこへ行こうかとか、そんな浮かれた話ばかり。一方の俺は、膝の半月板と靱帯断裂。怪我の程度は酷く、本格的にサッカーをし続けるのは、もう無理だといわれた。その頃、プロリーグからスカウトも来ていて、天国から地獄へ突き落されたような気分だった。

 そんな時だ。いかにも悪だくみしているというような顔をして、彩芽が病室にやってきたのは。

「成人式は?」と問えば「つまんなさそうだから、やめちゃった」と軽く言っていたが、成人式は一生の大イベントといってもいいものだ。それを軽々しく、すっぽかさせてしまったことに罪悪感があったのだが……彩芽が手に持っていた見舞い品で、そんな思いはすっ飛んでしまった。

 

「だからって、病院の見舞いに、ワイン持ってくる奴なんて、聞いたことないぜ」

 陽斗がワインを喉にするっと通すと、彩芽は一本指を立て、ニヤッと笑い、甘いなという。

「私もそう思ってたんだけどさ。つい最近知った事実なんだけど、身近に同じことしてる人がいたんだよねぇ。佐和さんが入院したとき、あったでしょ? ほら、佐和さんが職場行く途中で、突然倒れたって」

 

 忘れたくても忘れられない。それは、中学生の二年の時、陽斗と彩芽は授業真っ只中だったのだが、佐和が倒れたと職場から学校に連絡が入った。

 早退して、焦って二人で駆け付けてみれば、思いの外元気で拍子抜けした。そして、倒れた理由が、とんでもなく情けなくて言葉もなかった。

 

 その日の前夜。佐和は、ドラマの一話目を見たらその先が気になりすぎて、一気見してしまい、寝る時間がなくなってしまった。不眠のまま朝を迎え、満員電車に飛び乗ったら、眠気に耐えられず、人と人に挟まれながら立ち寝。完全に熟睡していたところに、新宿駅に到着。新宿は、全国一乗り換え人口の多い駅。当然、車内の人は一気に引いた。同時に、佐和を支えてくれていた人々はいなくなり、見事に崩れ落ちた。佐和は勢いよく、床に吸い込まれ、頭をぶつけ流血。病院へ救急搬送された。

 それを聞いたときは、情けなくて、阿保らしくて、怒りさえもわいてこなかった。そんな相手に、まさか。

 

「……歩美おばさん、病院にワイン持ってったのか?」

「そうみたい。佐和さん、めちゃくちゃ喜んでたってさ。しかも、コソコソ病室で飲んでも、バレずに楽しかったらしいよ」

「考えることが一緒だったって……親も親なら、子も子だな」

 べえっと舌を出して、彩芽は笑う。

「私は、フルボトルじゃなくて、ハーフサイズだもん」

「サイズの問題じゃないだろ……」

「まぁ、いいじゃない。お陰で、いい思い出になったしょ?」

「どこがいい思い出だ。看護師にバレて、怒られただろ。お前は少し説教食らって、さっさと帰ったから知らないだろうが、あの後、俺は更にこっぴどく怒られたんだぞ?」

 

 車椅子で、抵抗できないことをいいことに、彩芽によく晴れた寒空の病院の屋上に連れていかれた。

 そこで、彩芽は「ワインデビューだ」と言って、プラスチックコップで人生初めてワインを口にした。あの時の味は、衝撃的で、今も忘れられない。酸っぱくて、苦くて、不味い。「とんでもなく不味い」と二人で、絶叫した。とても飲めたものじゃないと思ったけれど、彩芽は「せっかく買ってきたんだから、全部飲むぞ」と脅され、不味いと連呼しながら、時間をかけて飲み切った。そこに熟練看護師が登場。とんでもない形相で、怒り狂われた。

「あー、確かに病院出てきた時、そんなようなこと、ガミガミ言ってたねぇ」

「当然だ。彩芽が持ち込んだのに、俺が持ち込んできたことになっていて、それから入院していた数日間。毎日のように荷物チェックが入るようになったんだからな」

 彩芽は「うわぁ。やっぱり、あの頃と同じ。面倒くさい」としかめっ面をして、ワインと一緒に喉の奥へと流し込む。彩芽の脳は、すぐに陽斗の小言をぽいと脇へ追いやっていた。酔いが回って、少し赤い頬は、すぐにまた満面の笑みに戻っていく。

 そこに、彩芽の助け船とばかりに、メイン料理が運ばれていた。

 

 メインディッシュは、厚みのある牛肉のローストの赤ワインソース。彩芽が肉を頬張ると、瞳だけでなく、顔全体がぱーっと輝きだす。

「口の中でとろけるし、ワインにすごく合う。さすが、私。ワインの選定は、間違いなかった」

 彩芽は、自画自賛しながら、早く食べてと促してくる。陽斗も口に運ぶと、肉の濃厚な味わいがじゅわっと広がった。そこにワインを合わせれば、旨さの深みが増していく。

 そして、興奮しながらも、ずっと笑顔の彩芽を見ているだけで、視覚的にも本当に飽きないなと思う。


 昔は、その日のことだけで、精一杯。友達とつるんで、わいわい騒いでいれば、それなりに楽しく過ごせて、悩みも忘れられた。

 それが、時間を重ねていくうちに色々なことを知り、視界が広がり、多少の想像力で先回りできるようになった。それと比例するように、どんどん保身に走って身動きが取れなくなっていったような時間もあった。その分、時間が過ぎていってしまったがきっとそれは、無駄じゃなかったと思う。

 ワインは、時間をかけてゆっくりと熟成されていく。そんな風に、自分たちも年月を重ねてきたのこられたのだろうと思いたい。

 だから、今がある。今日は、彩芽が言っていた通り、最高の思い出に相応しい。心からそう思えた。



 

 ほろ酔い気分で、店を出る。

 来た時は、店を探す方に注力していて、周りが見えていなかった。

 クリスマス前で、イルミネーションに彩られた夜景が広がった。世界が一転。煌めいて見える。

「やっぱり、来てよかったね。すっごく美味しかった」

「本当だな。予想の遥か上を行ったな」

 陽斗の少し前で、子供のように飛び跳ねる。勝手に、どこかへ飛んで行ってしまいそうな気分になってくる。これは、重症だなと自覚しながら、持っていた鞄の柄をぐっと握った。

「彩芽」

「うん?」

 くるりと振り返ったその顔が、一層眩しい。それに引き換え、鞄の中で今か今かと待ち構えているものは、色褪せてしまっている。怯んで、動作が止まりそうになるが、あの日の若さよ思い出せと、思い切って鞄の中から取り出した。彩芽は、手の中のものに丸い瞳を何度も瞬かせる。


「八年前。渡したくても渡せなかったプレゼント。高校当時の俺が選んだやつで、たいしたことないけどさ。何ていうか……とりあえず、これまでもなんとなく一緒にいたわけだけど、この先は『なんとなく』じゃなくて、ちゃんと隣にいたいと思う。ずっと止まっていた時間を、ここからまた動かしたい。だから、今更だけど、貰ってくれないかな?」

 陽斗のこんな色褪せてしまった包装紙を見て、百年の夢も覚めると思われるところかもしれないという危惧を、彩芽は今日一番の笑顔であっさりと取り払ってしまう。

「もちろん」

 彩芽は笑顔で、受け取る。繊細なガラス細工を壊してしまわないような手つきで、陽斗の手から自分の手のひらへ移す。


 細い指先で、かけられたリボンを解いて、変色してしまったセロハンテープと包装紙を外していく。少し歪んでいる外箱の蓋を開けると、八年前からタイムスリップしてきたかのように、当時のままの真っ白な小箱が姿を現した。

 中身は無事だったと、陽斗が安堵していると、彩芽は外箱から小箱をゆっくりと取り出して開けていく。そして、飛び出したのは、彩芽の声ではなく、陽斗の絶望の声だった。

「何で」

 想像していた数分後のほわっと輝く未来は、粉々に崩れ去る。出てきた中身は、ペンダントは真っ黒だった。しかもペンダントトップの星の真ん中にあしらわれた水色の石は、何とか頑張って輝こうとしているようだが、そんな努力など水の泡だ。ともかく、黒い。

 陽斗は、そのあと続く言葉が出ず、ただ、魚のように口をパクパクさせる。よくよく考えれば、当然だ。シルバーは酸化するに決まっている。それに比べて、彩芽は何の驚きも浮かんでおらず、陽斗の反応に呆れたようにいう。

 

「そりゃあ、八年も放置してればそうなるでしょうね。陽斗って、ここぞって時にツメが甘いよね。大体、予想つくでしょ」

 彩芽は、平然といてのけて、陽斗の反応はどうでもいいというように、再び手の中にあるネックレスへ視線を移して目を細めていった。

「八年間の思いが詰まってる。ちゃんと、大事にするよ。ありがとう」

 彩芽は、胸に刻むようにそっと蓋を閉じて、大事そうに両手で包み込む。そして、蓋を閉じた方の手をおずおずと伸ばし、きゅっと陽斗の服を掴んでいた。俯いた表情はわからない。陽斗は、そのまま彩芽を腕の中に閉じ込める。一瞬、硬直する華奢な身体は、少しずつ力が抜けて、陽斗の背に彩芽の手が回っていく。優しいぬくもりが心のずっと奥に、穏やかに染みわたっていった。



 

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