第9話 ベルリンの壁

 これから、どうしたらいいのか。どうするべきなのか。

 堂々巡りばかりで、ゴールが見えない。

 いや、見えてはいるのか?

 それさえも、わからない。

 

 あれから、彩芽と俺は、有無を言わさず自宅のカギを没収され、代わりに真新しいカギを押し付けられた。実家正面のマンションの六階の六二〇号室のカギらしい。今後、帰る家は、そこしかない。彩芽と一緒のその部屋しか。

 冗談じゃない。付き合ってもいないのに、いきなり同棲なんて、ありえないだろう。いや、でももう結婚しているし、いいのか? いやいや、そんな馬鹿な話あるか。常識的に考えろ。

 

 自問自答を頭で繰り返し続ける陽斗は、心を落ち着かせるために、ひたすら会社デスクの目の前に開かれているパソコンのキーボードを叩き続ける。その隙間に、スマホを取り出し、とりあえず緊急処置を施すことにした。

『とりあえず、俺はカプセルホテルにでも泊まる。彩芽は、新しい部屋を使ってろよ』

 送信して、再びパソコンの画面に集中する努力をするのに、今朝の出来事が再生される。

 

 昨晩は、現実を処理しきれず、よく眠れなかった。

 よく働かない頭の中、今朝は「荷物は、新居にちゃんと送り込んでおいてあげるから、こっちに帰ってこないでね」と、ほとんど追い出されるように家を出されようとした。その間際。寝不足でどろどろ溶けだしそうな頭に向かって、ダメ押しとばかりに、佐和から投げ入れられた。目の前に飛んできた箱を、反射的にキャッチして、手の中に納まったものを見やる。それは、手のひらサイズの水色の包装紙に包まれた小箱。水色の包装紙は、古くなって、色褪せてしまっている。酸素不足でぼーっとしていた頭が、一気に覚醒していた。


「人の荷物、漁ったな!」

「漁ってない。勝手にポンって、出てきたの」

 佐和は、何も悪くないとばかりに平然と言ってのける。ベッドの下に隠してあったのに、ポンと出てくるわけがない。どこまで、人の神経を逆なですれば気が済むのか。怒りの導火線にまた火が付きそうになる。だが、佐和はまたもやあっさりと消火しにかかっていた。

「いつのか知らないけど、それ、アヤちゃんにあげる予定だったやつなんでしょ? 水色、アヤちゃんが好きな色だもんね。化石化する一歩手前だったわね。お母さんに、感謝しなさい」

 水をかけられシュッと消えた火から、煙が立ち上る。その奥から、もやもやと八年前の出来事が、蘇った。

 忘れたくても、忘れられない。高校一年の冬。渡し損なった彩芽の十六歳の誕生日プレゼント。呆然と手の中に納まっている小箱を見つめ続ける俺の背中を、ドンと思い切り押されて「じゃあ、元気でねー」気づけば廊下に追い出されていた。施錠に加えて、施錠チェーンをかける音。二度と開けないぞという、意思がありありと聞こえてくるようだった。

 

 デスクのキーボードを叩きながら、足元に置いてある自分のカバンの中身をちらりと覗き込む。

 八年物の小箱と、まともに目が合った。

 あんたのせいで、生かされも、死にきれもせず、ずっとベッド下に隠されていたんだぞ。あの時、はっきり答えを出してくれたら、こんな目に合わなかったのに。この理不尽な仕打ち、あなたはどう報いてくれるの。この期に及んで、また逃げる気か。色褪せた水色の包装紙の下にあるアクセサリーから、叱りの声が聞こえてきそうだ。

 全身から、重いため息が吐き出される。


「おーい、西澤君ってば!」

 何度も呼んでいるんだけどと、根岸から小言を言われて、すみませんと、かろうじて返事をする。根岸は、眉間に皺を寄せていた。

「資料ちゃんと、まとまってる?」

「あぁ、はい。ちゃんと……」

 まとまっていると言いかけて、止まる。それを不審に思った根岸が長身の体を目の前から、伸ばして画面を覗き込んだ。

 ディスプレイに並んでいる文字は、まったく意味不明の文言が並んでいる。とても、資料とは言えない代物に出来上がっていた。

 根岸は、背筋を伸ばして、長身の根岸が座っている俺を見下ろしてくる。本当に人食い巨人に思えて戦々恐々としていると、思いがけず笑顔を見せてくる。


「ねぇ、今日の夜。個人的に飲みに行かない?」

 入社してから、他の女子社員や、取引先に誘われたことは何度もあったが、根岸からの誘いは初めてだった。いつもの自分ならば異性の二人きりの誘いは、即断るところだ。日々の鬱憤や相談事があれば、いつも彩芽に吐き出して、頼りきりだった。

 だが、今回はそうもいかない。この悩みを作り出しのは、悪魔のしっぽをはやした二名の母親たちではあるが、本筋の問題は彩芽に繋がっている。その張本人に、相談できるはずもない。

 だが、俺の頭はもうパンク寸前だ。どこかで、吐き出さないと、狂乱してしまいそうだ。でも。その相手が、この人でいいのだろうか。根岸という人間も、かなり癖が強い。思わず答えに詰まってしまっていると、根岸はスポーツ選手らしくケラケラと男っぽく笑っていた。

「私は、誘いまくるその辺の女の子たちと違って、別に下心とかないからね。私、恋人ちゃんといるし、煮て食いたいと思ったら、ハッキリそう言うし」

 明け透けに嫌味なく、カラリと本音を言えてしまう根岸。湿っぽく悩んでいる自分が、阿保らしくなってきてしまいそうだ。

「さすが、男勝りですね」

「まぁね。で? 返答は?」

 ふふんと、鼻を鳴らす根岸は、自白している通り恋人もちゃんといるわけで問題ないだろう。一応スマホを確認する。特に彩芽からの返信はなかった。ふうっと息をつく。

「お供させていただきます」

「まぁ、先輩の言うことに服従するのは当然よね」

 スポーツ業界ならではの昔ながらの悪の風習がその口から飛び出してくる。

 俺の周りには、まともな人間はいないのか。陽斗は苦笑するしかなかった。

 

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