薫風
「なんか、弟みたいで、放っとけないのよね」
そんなことを言って笑う彼女が、嫌いだった。
でも、そんな彼女の笑顔が好きだった。
高校二年生になっても、おれの背はちっとも伸びなかった。
156センチ。小学生からやってるサッカーのせいだと慰めてくれるのは、一緒にサッカーを始めた幼馴染み。ヤツは身体測定の時に170越したと自慢していた。
「見える? 席替わってあげよっか」
いつも余計なお世話を焼いてくるのは、学級委員のキムラカナエだ。気の強い優等生タイプなのに、天真爛漫。彼女の木洩れ陽みたいにキラキラした明るい笑顔の周りには、男女問わず常に人がいる。みんな、キムラカナエが好きだった。
バレーボール部のエースで、背が高く、すらっとした手足のキムラカナエは、モデルみたいで、スカートが短くてもちっともいやらしく見えない。本当に同じ人種なのか怪しいほど。つまり、一言で言うと完璧ガール。
自分の背丈に劣等感があるおれは、最初、キムラカナエが苦手だった。
というか、キムラだけに限らず、自分より背が高い人間達は少しだけ怖い。
別に、なにをしてくるわけでもないが、なんとなく見下ろされるような嫌な圧を勝手に感じてしまう。だから、キムラに話しかけられても、萎縮してうまく答えられない自分がいた。
「バカにすんなよ」
一回、そんな言葉が口から出た。
キムラカナエは面食らって、ごめんと謝ってきた。
「そんなつもりじゃなかったんだけど・・でも、そうだよね。あたしも、デカ女って言われるのは、遠回しだとしても結構傷付く。無神経だった。ごめん」
泣きそうな顔をするから、おれは慌てて、いいよと返す。
「おれ、座高高いから」
真実だ。おれは悲しいかな短足だった。
「確かに。変わらない!」
白い歯を惜しみなく見せて破顔するキムラは、足が長いからな。その笑顔を見たおれは、この席順、悪くないなって思った。
立ったら凹凸みたいになるおれたちは、でも座って話せば変わらない対等な目線になる。それで、ちょこちょこ言葉を交わすようになったら、キムラカナエって案外良いやつなんだなって、初めて気付いた。人気者のキムラカナエと気軽に話ができるおれは、他の男共よりちょっとだけ優位で、ちょっとした優越感に浸れた。
だけど、そこ止まりだ。
どう頑張っても背丈が足りないおれは、所詮、争奪戦に参加する資格すらあると見なされない、男の中では取るに足らない存在だった。キムラカナエも或は同じようなことを思っていたのかもしれない。確かに、キムラは自分の心情を簡単に話してくれるようにはなったが、それはおれがちっこくて気安いからであって、男とは見なされていないのだと端々に感じさせる話し方だった。
「おまえ、キムラカナエと仲いいんだって? じゃあさ、付き合っているヤツがいるのかどうか聞いてくれよ」頼む、とサッカー部の女子人気が高い先輩から頼まれたことがある。
嫌な役目だった。と、いうか、おれと仲がいいっていうのは恋愛的なものじゃないと思ってるあたり。いや、傍目にも恋愛対象から完璧に外されているところが腹が立った。けれど、先輩の頼みじゃ断れない。おれは渋々了承した。
「付き合ってる人? あたし? いるよ」
そんなにカラッと当たり前みたいに言わなくたっていいよ、と思うくらいキムラカナエは単純明快に答えた。
ほんとにどいつもこいつも、おれを十七歳の男だと見ていないのな。苦笑しながら、同じ学校のヤツ? と更に聞く。
キムラは思案する顔をしている。文句なしに可愛い。
「んー・・んん、ううーん・・うん、秘密」
どっちだよ。なんだよ秘密って。なんでもいいけど。
先輩にはそのまま言えばいいや。おれが小さく溜め息をつくと、ねえ、と猫目をキラキラさせて、キムラカナエが切り出してきた。
「そっちは、どうなの? 好きな人とか、いるの?」
なんでおれ?! おれのそんなのを聞いてどうするんだよ。
焦った。
聞いたって、知ったところで、どうせ、なにも思わないんだろ。どうも思わないくせに、なんで、聞くんだよ。関係ないだろ。
でも、もしも・・
もしかしたら・・
おれは一塁の望みをかけて「いるよ」と言い放った。
「え・・そっか。いるんだ。いるんだね・・」意外かも、と呟くキムラカナエ。
なにが意外なんだよ。どういう意味で意外なんだよ、と次から次に浮かぶ疑問を噛みしだいて言葉を繋ぐ。
「いるだろ。普通」
「そうだよね。なんか、そういうキャラじゃないと思ってたからさ。ごめんごめん」
ぺろっと舌を出すキムラカナエ。くそ・・可愛いし。
でも、おれには到底手が届かない。高い高いところに咲く花だ。今、おれとこうして話しているのは、さしずめ望遠鏡を覗きながらの会話なんだろうさ。そんな気がした。だから、所々噛み合わない。
手が触れる程近い距離のはずなのに、心の距離はめちゃめちゃ遠い。彼女は、違うところで生きているんだ。
おれは、先輩にそのままの言葉を伝えた。
絶望する先輩を眺めながら、どうせなら告白して振られた方がマシなのになぁと思った。他人つてで真実を知るのって、地味に刺さるもんがあるから。そんなことを思いながら日々を過ごしていると、急にキムラカナエが登校してこなくなったのだ。
最初は風邪だと親から連絡が入っていたらしい。
それが、2週間になり、4週間になり、1ヶ月になった。
季節は春へと向かっていた。桜が咲き、最終学年に進級したが、キムラカナエは登校してこない。
学校側も友人達も誰1人事情がわからないらしく、途方に暮れている状態が続いていた。
家族からも連絡がないままに、籍だけ残して更に1ヶ月、2ヶ月と経つうちに新緑が鮮やかな季節になってしまった。
世界は、キムラカナエを忘失したままで動き続けていた。
あんなに活発だったキムラカナエが引き蘢るはずはなく、なにか事件にでも巻き込まれているんじゃないかと囁かれた噂もいつのまにか立ち消えている。
それでもおれは、ずっとキムラカナエを待っていた。
もう一度、あの、白い歯が零れんばかりの笑顔を見たかった。
そんなある日曜日。
鯉のぼりが気持ち良さそうに泳ぐ青空の下、おれは駅に向かって走っていた。
サッカー部の遠征試合会場に行かなければいけなかったのだが、珍しく寝過ごしてしまったので、慌てていたのもあって、駅の改札口で引っ掛かった。なんのことはない、ICカードではなく図書カードを翳していたのだが、焦っているので、カード違いに気付かず、何度も翳すがエラーが出て扉は開かない。
その時「ちょっと待って、落ち着いて」と声がかかった。
聞き覚えがある声に、思わず振り返ると、吹き込んできた風に煽られた。若葉の香りが混じった柔らかい風だ。
おれの細めた目の前に、旅行用のスーツケースを引っ張ったキムラカナエが立っていた。
「きっとそれ、違うカードだよ。よく見て」
冷静に指摘されて、おれはやっと間違いに気付いた。
財布からICカードを取り出しながらも視界の隅でしっかりキムラカナエを捉えていた。目を離したら、またいなくなってしまいそうだったからだ。
「なんで学校に来なかった?」
「んー・・んん、ちょっとねー・・」
初夏の風を纏ったキムラカナエは、スーツケースを引っ張って改札を抜ける。
おれも急いで後に続いた。見失ったらいけない。
おれの本能がそう告げていたから。
キムラカナエは、肩までのボブからショートカットになっていた。短い髪と服の裾が風に弄ばれている。初めて見た私服は、信仰宗教家が着てそうなストンとしたデザインのワンピースだから余計だ。なんだか、老けて見えるなと思った。そう言えば、キムラは少し肉付きがよくなったようだ。
「どこ、行くんだよ」
「んー・・んん、うーん、秘密」
ぺろっと舌を出すキムラカナエ。相変わらず可愛い。
その時、おれは見た。
彼女が引きずるスーツケースの脇に揺れるマタニティマークを。
え・・・・
駅の改札に巣をかけている燕が、初夏の爽やかな風を引き連れて、ふいっと横切った。
おれは、キムラカナエの腹部から目が離せなかった。新芽の臭いがする。
「ばいばい!」
キムラカナエは、真っ白い歯を惜しみなく見せてにかっと笑って手を振った。ずっと見たかった笑顔だ。
けど、おれは凍り付いたまま動けなかった。ヒマワリみたいに笑うキムラカナエを、見ることしかできなかった。
電車のドアが閉まった。
おれは動けない。動けないままで、風薫る中を進むキムラカナエが乗った電車を見送った。
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