隙間風


 どこからか、隙間風が、吹き込んでいたんだ。

 そうとしか思えない。


 仕事から帰ってきたら、彼女が消えていた。

 忽然と、前触れもなく、消えていた。

 彼女の持ち物だけが、初めからそんなものは存在しなかったかのように実にナチュラルに、実にキレイサッパリなくなっていて、だから、帰宅直後、しばらく違和感に気付かなかったくらいだ。

 異変に気付いてから、焦って部屋中を見て回った。それで、ああ、出て行ったのかと気付いてソファーに座った。それから、もう一度立ち上がって、部屋の隅々にまで目を凝らして書き置きの類いを探した。けれど、そんなものはどこにもなかった。

 なんの痕跡も残さず、黙って出て行ったのだ。彼女らしいと言えばらしいが。


『やる時には、なんだって徹底的に。じゃないと、面白くないでしょ?』


 ウロウロし過ぎて疲れた俺は、冷蔵庫から缶ビールを取り出してソファーに戻った。

 だからって、なにも金曜日に出て行くことないじゃないか・・

 一緒に飲もうと思って、せっかく帰りに、彼女の好物の焼き鳥を買ってきたのに。


『あたし、最後の晩餐には、絶対にこの焼き鳥を入れるの』


 飛行機のジェット音が地鳴りのように響いてくる。冷気が頬を掠めたのを感じて見ると、僅かに窓が開いているようだ。

 一度、不審者に入られたことがあるので、戸締まりにはうるさかった彼女にしては、不用心だった。いや、もう自分の住まいじゃないから、用心しなくてもいいのか。なんだかな。


『しっかり戸締まりしておかないと、この幸せが、逃げていってしまいそうだもの』


 ビール片手に、窓辺に近付く。横田基地の飛行ルート上に位置する築30年近いこの賃貸物件は、当時で考えうる限りの防音対策がされており、窓も二重とまではいかないまでもグレモンハンドルという、音楽スタジオや録音スタジオなんかで防音ドアに使われている密閉性の高いハンドルが採用されている。窓を押し込んで閉めるので、内外の騒音対策に有効なのである。それが、開いていて、窓に隙間ができていた。飛行機の騒音と共に冷たい風が、そこから吹き込んでいる。

 同棲生活10年。

 結婚を考えなかったわけじゃない。

 ただ、リアリティがないというのか、いまいち『彼女と結婚する』ということが、俺の中でしっくり来なかった。形に縛られたくなかった・・俺の愛情は、結婚みたいな陳腐なもので表したくはなかった・・どれも、合っているようで、ちょっと違う。

 彼女とは一緒にいたかった。それは真実。

 でも、戸籍や家を含めた世の中の枠組みに嵌りたくなかった、というか。彼女とは、そんな世知辛いしがらみとは無縁で、淡白でいたかった、と言ったほうが近いかもしれない。

 だけど、結局は俺のそんな独り善がりが原因で、それがいけなかった・・んだろう。


『この時間が、未来永劫、ずっと続けばいいのにね』


 彼女は、39。

 俺は、45。

 だいぶいい歳というか、いい加減に身を固めろよって歳だ。

 彼女にしてみれば、出産できるギリギリの年齢。しかも初産なんてリスクが高い。加えて、彼女は子ども好き。そりゃあ、先のことを考えたら、将来のことを見据えたら、いくら好きでも見限りたくなるだろう。

 俺は、いつまで経ってもうだつが上がらない塾の講師。彼女は、博物館の学芸員で。ちょっと変わってて。人や物を見る視点なんかがちょっと変わってて。そこが、よかったんだけど。


『人のことばっかり言いますけど、あなただって大概変人なんですよーだっ』


 お互いに変わってたから、こんな長い同棲生活が、続いてしまったわけで。

 10年って言ったら、無力な赤ん坊が生意気盛りの10歳、ちょうど俺が受け持っている小学生の5年生になるくらいの年数だ。

 そう考えると、ちょっとすごい。そんな人間の進化の第一段階くらいの時間を、俺たちは、毎日変わらない生活をして、むしろ、変わらないような生活を確立して過ごしてしまったのだ。

 楽しかったんだけどなぁ・・


『あなたとの生活は、例えるなら、春休みみたいね・・』


 ベランダに出て、ビールを煽る。

 彼女が大切に育てていたミントやパセリだけが寂しく取り残されていた。

 なんだよ、これ。なんで、置いてってんだよ。

 俺に世話しろってのかよ。夏休みの観察日記につける朝顔ですら枯らした俺に。だから、苗を買う時に、嫌だっていったじゃねーか。ミントもパセリも好きじゃねーし。つか、嫌いだし。ファミレスとかで添えられてても必ず残すし。食う概念なんてないし。弁当のバランと同じだと思ってるし。いらねぇって言ったじゃねーか。それを、なんで、わざわざ残してくんだよ。窓が開いてたってことは、ベランダ、見たんだろうが。


『ミントは、殺菌とか鎮痛の効果がある万能薬なのよ。パセリは、こう見えて、ビタミンCがたっぷり入ってるんだから、すごいのよ』


 俺は、その二つの鉢を視界に入れないようにして、ビールを飲み干した。

 だからどうした。知るかよ・・

 二機目の飛行機が、群青色の夜空を背景にして巨大な影絵のように横切っていく。

 見慣れた景色、聞き慣れた騒音に身を委ねながら、俺はここ数日間の彼女の言動を思い出そうとしていた。

 なにか、変わったことはなかったか。

 こうなる原因となるような決定的なことはなかったか。

 だが、いくら考えても、いつもと変わらない一週間が来て、過ぎていっただけだ。それが繰り返されていただけだった。そうとしか、思い出せない。

 わからない。なんだ? どうして、突然出て行った?

 前々から、計画していたにしたって、なにか、きっかけがあったってよかったはずだ。と、いうか、せめて、当事者の俺に、出て行こうと思ったきっかけや、思い当たる何かを残してくれたって、いいじゃないのか。そのくらい。ああ、あれが原因かって、仕方ないなって、俺が悪かったなって、納得させてくれたっていいじゃないか。こんな、唐突に・・

 そりゃ、結婚のことだろうなって思うけど、それだって、ハッキリとは切り出してこなかったじゃないか。言ってくれたら、俺だって、少しは、少しは考えたよ。きっと。多分。少しは。

 けど、ここ最近だとわからんな。俺、学期末の追い込みやら何やらで残業続きで結構忙しかったからな。その時に、繰り出されたら、どうだろ。疲れてるから今度にしてくれって、言ったんじゃないかな。言っちゃったんじゃないかな。だとしたら、無理だな。そんなタイミングで言われたって、覚えてない。わかんねーよ。

 そもそも、大事な話は、時間を取って話すべきことだろう。そう、言ってくれよ。わかんねーし。


『案外、こう見えて、余計な気を使っちゃう質なのよね』


 俺は、飲み終わった空き缶を、両手で握り潰した。げっぷと一緒に苛立ちが込み上げてきたのだ。

 全然、気を使うようなことじゃないし、気を使って諦めるべきところでもないだろう。もし、そうだとしたら、俺の予想が的中してたとしたら、それって不可抗力っていうんだろ。

 二人で一緒に生活してたんだぞ。

 どうして、俺を無視して決めたんだよ。

 俺の気持ちは、どうでもよかったのかよ。

 俺は、君にとって、いったいなんだったんだ。

 勝手に・・決めないでくれ・・


『あたし、あなたのことが、一番好きよ』


 嘘つき。

 君は嘘つきだ。

 好きってなんだよ。好きってどういうことだよ。

 こうやって、前触れもなく突然消えるのが、好きな相手にすること、なのかよ。

 それが、君の愛情だとでも言うのかよ?

 違うよな。

 君は、君の隠れた意思に沿わない俺と一緒にいるのが、もう苦痛だったんだ。

 そんなに結婚したいならしたいって、ずっと言い続ければよかったじゃないか。こんなことになるなら、まだそのほうがよかったんだ。


『あなたに、嫌われたくないの』


 だからって、こんなやり方ないだろ。

 喧嘩別れのほうが、ずっとマシだよ。

 お互いに腹の中に溜め込んでた不平不満をぶちまけあって、嫌いになって別れたほうが、よっぽど・・

 俺は、空き缶を鉢植えに向かって投げつけると、部屋に入って、窓をグレモンハンドルでがっちりと閉めた。

 これで、安心だ。もう、どこからも不満に思う隙間風が入ってくることはない。けど、

 不満・・なんて、なかったからなぁ。

 俺は、君がいてくれるだけで、よかったんだ。

 けど、きっと、それも、ダメだったんだろうな。

 混乱した頭を抱えて、踞ったところでなにが変わるわけでなし。

 ああーどうすりゃよかったんだよ。

 わっかんねーよ。もう、わかんねーよ・・

 君の頭の中にあっただろう高尚な未来は、俺にはなんだか色々難しい。

 わからなかったんだよ。でも、十年もあったんだぞ。そんなに時間があったのに、お互いの考えすら共有できてなかった。

 俺たちの十年って、なんだったんだよ・・

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