敬天愛人 ②




「たっ…!たすけて…!だれか、だれかぁ!」


 兵士は走り続けた。

 奔って走って、進み続けても。


 背後から迫る気配は強まるばかり。


 走りながら振り返ると、そこには何もない。

 けれど、木々の奥、その暗闇から感じる夥しいほどの魔力に再び恐怖を駆り立てられて、一目散に走った。

 それは魔人の角が魔力を感じ取れるセンサーの役割を有しているからこそであり、本能が己の死を告げているかの如き恐懼。


「おい!どうした!?何故持ち場を離れている!?」


 傾斜から沼への最終的な警戒を行っている部隊が、男の行く手を阻んだ。

 しかし、男は阻んだ三人の兵士を突き倒し、なおも進む。

 この傾斜を降り切れば、沼に入ることが出来る。そうすれば百人を超える仲間たちがいるはずであり、生き残る方法は仲間と合流する他ない。


 希望が見え始めた刹那、再び風を切る音が聞こえた。

 背後から何かが弾ける不快な音が鳴り、一瞬だけ横目で見れば案の定、既に三人の兵士は全員腰から切断されて体の半分が地面に落ちていた。


「ひぃぃ!?何なんだよぉ!?どうして俺がこんな目に!」


 叫びながら傾斜を転がり、沼に落ちる。

 あと少し、もう少しでキャンプ地。

 顔を上げた先には広大な沼が広がり、その中央には小さなテントや布を被った牢屋が並んでいた。

 そこへ泥を這ってでも辿り着こうと走り出した刹那、バランスを崩して転ぶ。


「な…なんだ…?」


 何故自分がバランスを崩したのか。

 不思議に思いながら体を起こし…いや、起こせなかった。

 両手をついて体を起こそうとしたのに、実際に地面につけたのは左手だけ。


 嫌な予感に右腕を見ると、それは肩口からさっぱり、無くなっていた。


「ぁぁ!?あぁぁぁぁぁ……ッ!!」


 激痛に悶絶しながら来た道を見る。

 赤い動線を辿ると、そこには右手が落ちていた。


「くっっ…そぉぉ…!いてぇ…いてぇよぉ!」


 のたうち回る男の視界に、傾斜を飛び降りる黒い人影が見えた。

 凄まじい距離からの落下にもかかわらず、その人物の着地はあまりに鮮やか。

 酷くぬかるんでいるはずの地面に、飛沫や波紋すら立てずに着地した。

 それはもはやわずかに浮いているかの如き静かな着地で、事実靴すら汚れてはいなかった。


「案内ご苦労」


 まだ若干幼さの残る、少し低めの女の声。

 顔を上げると、やはりその人物はうら若い少女であった。

 けれど、ニヒルに笑って髪をかき上げる所作は、あまりに極悪非道。


「何なんだよ…お前は…!」


「名乗るほどのもんじゃないさ。俺は別に、お前らに恨みもないしな。ただ行きがけの駄賃を貰いに来た」


「あぁ…?」


「よく考えてみると、俺って文無しなのよ。このまま人里行ってもつまらないだろ?だから、ついでにお金も貰っちゃおうって算段さ。義賊ってやつ?」


 やけに上機嫌で意味の分からない事を語り、少女は両手でトリミングポーズをとる。

 男の奥にあるキャンプ地を切り抜くようにジャスチャーして、「スキャン」と呟いた。


「あらら、こりゃまた赤ちゃんみてぇなのばっかだな。もしかして、俺が雑魚だと思って戦ってた迷宮の魔物って、強かったのか?」


 独り言を呟いている隙に、男は地面を片手で這う。

 泥を飲みながら、少しでも距離を取ろうと足掻くが…


「どこ行くの?」


 当然、すぐにバレてしまう。

 きっと、次の瞬間にはあっさり殺されるだろう。

 そんな事はわかっていたから。


「敵襲ぅぅぅぅぅぅぅぅッ!!!!敵が攻めてきたぞぉぉぉぉぉぉッ!!」


 男は、キャンプ地へ向けた絶叫した。


「うお!?びっくりした!」


「は、ははっ!どうだ!ざまぁみろ!!精々後悔しやがれ!これでもうお前は終わりだ!哨戒してた奴らも戻ってくる!俺の仲間がお前を囲んで逃がさない!なぶり殺しにされろ、このクソ───」


 最後までいう事は叶わなかった。

 その耳障りな口が、両断されたからだ。


 上顎から先の頭部が宙を舞い、その挙動を見守りながら少女は呟く。


「よく飛ぶなぁ」






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