英雄に出会う晦冥




-----------------




 煙に咽そうになる口を、私は必死に抑えた。


 息もできない苦しみに勝手に涙が溢れるが、それでもベッドの下から母の死体を見つめ続ける。

 眼は乾燥で血涙を流し、煙に詰まった気道は間隙を縫うわずかな呼吸を許すのみ。

 両手で口を押えた己の爪が頬肉に食い込み、縮こまった全身が緊張と絶望で震えだしていた。


 それでも、母が言ったのだ。

 隠れていなさいと。

 必ず連れ出すからと。


 けれど、私と同じく地面に倒れこんだ母は一向に動かなかった。


 我が家に土足で入り込んだ悪魔共ともみ合い、気づけば私の視界に母が倒れて映り込んだ。

 真っ赤に色づいていく木目の床と、荒らされて放置された母と私の寝室。



 狭い、とても狭いベッドの下にどれほど隠れていただろう。


 勇ましい足音に床が揺れ、寝室に誰かが入ってきた。


「ディシア!ディシア!」


 聞きなれた、父の声。

 母の身体を揺らし、普段の優しい声からは想像もできない程切羽詰まった声で叫んでいた。


「くそッ!!……ティア!ティア!いないのか!?」


 私の名を父が呼ぶ。


 でも、応えちゃいけない。

 母が言ったのだ。

 言ったのだから、母が呼んでくれるまで。


「っ!?ティア!?そこにいるのか!?」


 寝室を見回していた父が、ベッドの下にいる私に気付いた。

 ベッドをのぞき込み、目が合った。


「ティア……!すまなかった、まさか村が魔人に襲われているなんて…怖かったろう、もう大丈夫だ」


 手を伸ばし、私を引きずり出して抱いた。


「……お父さん、お母さんは?」


 抱かれながら、父の肩越しに未だ寝ころんでいる母を見る。


「お母さんは……少し、疲れてしまったんだ。このまま、寝かせておいてあげよう?」


「…………うん」


 私は、泣いてなんかない。

 頬を伝うそれは、ただの汗か血だろう。

 だって母が言っていたのだ。

 真に強い女は、泣かないのだと。

 母が私に教えたように、今の私は強い姿で在るはずだ。


 だから大丈夫。

 大丈夫。


「いこう、ティア」


「…でも魔人が村を囲んでるって、お母さんが」


「大丈夫、抜け道を見つけたんだ。だから大丈夫だよ。でも、一つお父さんと約束してくれ」


「うん」


「村を出たら、走るんだ。そうしたら、絶対に振り向かないって。約束してくれるかな?」


「わかった」


 父の目を見て、私は約束した。






 村から出た。


 どうやって出たかは、私にはわからなかった。


 目を瞑れと言われて、父に背負われながらしばらく目を閉じていた。


 揺れに身を任せ、時折聞こえる罵声や火の爆ぜる音、剣が交錯するような鈍い音に傾注していた。


「もう、目を開けていいよ…!」


 息も絶え絶えの父の声を聞き、私は目を開ける。

 すると、一寸先も見えないほどの煙に目がくらむ。


「こほっ!こほっ!」


「すごい煙だね、ティア。雨林は水を多く含んでいるから、燃えると沢山煙が出るんだよ」


 優しく、平常を装って父が語る。

 その顔を見ると、頭部から出血していた。


「お父さん、血が…」


「大丈夫、かすり傷さ。ぐっ!」


 風を切るような音と共に、父が体勢を崩した。

 お姫様のように抱えられていた私は投げ出され、木の根や細かな傾斜だらけの森を転がる。

 父の方を見ると、背中に矢のようなものが刺さっていた。


「お…とう、さん?」


「大丈夫、大丈夫だよティア!お父さんとの約束、覚えてるかな?」


 父は笑い、私の後ろへ指を向ける。


「さぁ、走って。すぐに追いつくから」


「おぼえてる。ちゃんとおぼえてるよぱぱ。おぼえてるから、てぃあをひとりにしないでね」


 泣いてない。

 泣いてない。

 泣いてない。


 約束を守る。

 お父さんを困らせたりしない。


 父の背後から村の火を背に、甲冑の悪魔が迫っていた。


「ティアは良い子だね。約束を覚えていて偉いぞ。絶対一人にしない。パパとの約束だよ」


 矢が再び飛んでくる。

 父は振り返りながら剣を振り、矢を弾いた。


「さぁ!走れッ!!!ティア!」


 良い子でいたかった。

 良い子でいれば、またお父さんとお母さんに会える。


 そう信じたから。


 怒ってないよ、お母さん。

 お母さんが約束守ってくれなかったこと、怒ってない。

 私を守ってくれたんだってわかってる。

 だから、起きてくれるよね?

 また二人に会えるよね?


「はぁ……!はぁ……!」


「そっちに行ったぞ!追え!」


 何度も躓いて、何度も転んで。

 すぐ後ろに迫る足音を振り払おうと走り続けた。


 約束だったから、振り向かなかった。


 けれど、剣を振り上げるような音が聞こえて。

 もう、駄目なんだと覚悟した。


 その時、私は足を踏み外して。


「あっ…!」


 崖から真っ逆さまに、私は落ちた。

 崖の凹凸に体をぶつけながら、骨の折れる音を聞く。

 最後には岩みたいに硬い水面に落ちて、気づけば川に流されていた。


 大して流されてはいなかったと思う。


 川のカーブから勢いよく投げ出されて、地面を泥まみれになりながら転がった。


「……ん?なんか音しなかったか?」


 人の声が、聞こえた。

 悪魔だったらどうしようとか、考える余裕はなかった。

 それに、その女性の声はとても柔らかくて、優しいものだったから。


 必死に地面を這って、声の方へ向かう。


 相手もこちらを見に来たようで、深い森の奥から二人の女性が現れた。


「……おねがい…します……たすけて、ください……どうか、ぱぱとままを……」


 自分でもびっくりするほど声が出なかったけれど。


「わかった。助けるよ」


 あまりにあっさりと。

 請け負ってくれたその人を、最後の力を振り絞って見上げた。


 漆黒の髪と、赤い瞳。

 角も、羽もなく、耳も短い。

 けれども人形の如き、黄金比。

 幻想的なまでの、ある種理不尽なまでの美しさ。


 不敵に笑う、少女が立っていた。




-----------------




  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る