3話 後悔


 冷たく細かい雨が窓ガラスを叩いていた。

 分厚い雲が空全体を覆い、壁に囲まれた街はさらに灰色に染まってみえる。

 部屋の中は洞窟のように薄暗く、窓ガラスに手を当てた先から徐々に体が冷えていく。

 それでも僕は、ただじっと窓の景色を、壁に囲まれた面白くもない街の景色を、ただじっと眺めていた。

 どのくらい眺めていたのか分からない。涙も乾ききってしまい、目元はかさかさとしていた。


 あおいはもういない。

 僕はを間違えてしまった。


 月曜日の夕方だった。

 あおいがいなくなったことを知ったのは。

 その日も雨が一日中降り続けていた。

 僕はいつものように自室でVR空間に入り学校の授業を終わらせると、小腹が空いたので下に降りると、リビングに黒の制服に身を包んだ男が居座っていた。

「やあ、キミがいさな君かな?」

 母さんが怯えた表情でティーカップに紅茶を注ぎ男の前に置いた。そして震えた手でお盆を持ったまま僕の顔を見る。

 男も薄笑みを浮かべて僕のことを視る。まるで瞳そのものが監視カメラのように黒く不気味に感じた。お前が何を考えているか知っているぞ、とでも言っているかのようでその場から動けなくなってしまった。

「......あ、あなたは誰ですか?」

 かろうじて開いた口も、怖くて呂律が上手く回らない。

「とりあえず、席についてはどうかな?」

 男の前に僕は座った。黒一色に統一された男を目の前にすると、家の食卓なのに、なんだか牢獄に閉じ込められたかのようで息が張り詰めて苦しい。

 ゆっくりと両肘を机について指を組んでから、男は答える。

「私はこの地区を監察している者です」

「......監察官」

 監察官と名乗る男は紅茶を一口飲む。

 自分の脇から湿った嫌な臭いがする。

 監察官は警官隊を指揮して壁の中の秩序を守る者たちだ。一見、正義の組織にみえるが僕たち住人の秘密を全て調べる権利を持ち、その手段さえ選ばないと聞く。

 彼らが僕の前に現れたってことは......。

「私の仕事は主に壁の中で犯罪を犯そうとする者を監視することです。例えば、壁の外へ出ようなどと愚かなことを考えている人間とかをね」

「ぼ、僕に何か用ですか⁉️ 僕は何もしていませんよ!」

 ああ、挙動不審な受け答えをする自分が嫌になる。隠せもしないことを隠そうとする自分が。何より彼女を裏切ったことさえも隠そうとしているみたいで自分が自分に腹立たしい。

「ええ、ご安心を。あなたは何もしていない。だから、今日は警告をしに来たのです」

「.....警告?」

「そうです。先日、あなたのお友達がD地区へと移送されましてね」

「.....あおいですかっ⁉️」

 自分でもびっくりするくらい荒げた声で、机に手をついて立ち上がった。そして、そのまま監察官の顔に迫る勢いであおいの安否を問う。

 ただ監察官は眉ひとつピクリとも動かさないで淡々と、どこか面白がっているように答えた。

「そうです、あおいさんです。C地区を勝手に抜け出しD地区のゲート前に彼女はいました。まるで誰かを待っているのように、キョロキョロと辺りを見回していましたよ。D地区の住人にしては清潔な服装でしたし、さすがに怪しげな動作だったので捕まえてお話しをさせていただきました」

「.....それで、あおいは......彼女は今、どこにいるんですかっ⁉️」

「まあまあ、落ち着いて。あおいさんは元気に穏やかに過ごしていますよ」

「だから、どこにいるのですかっ⁉️」

「D地区にそのまま移送させてあげました」

 頭が真っ白になった。胃酸が込み上げてきて吐きそうで気持ち悪い。何も考えられない。

『D地区に移送された』

 父さんが僕の肩を強く押さえて話してくれたことを思い出す。

 そこではところだと。

「あおいさんは無口な方なのか、強情なのか。なかなかお話をしてくれませんでしたよ。やれやれ、あの日は本当に疲れました。まあ.....ですので、彼女のお宅を訪問しさせていただき、あなたとの会話履歴が見つかりました。失礼ながらその会話履歴を読ませていただきました」

 監察官はため息を漏らしながら、ティーカップに口をつける。

 ああ...僕もD地区へと移送されると思った。

 だけど、それでいいじゃないかと思った。もう何も考えたくない。

 こんな気持ちになるならもう感情を失った方がマシじゃないか。それにあおいと同じところに行けるのだ。

「僕もD地区へと移送するのですか?」

「いえ。先ほども言いましたが、今日は警告しに来ただけです。あなたのお父さんは立派にこの地区に貢献してくださっている公務員だ。お父さんに免じてあなたは警告で済みました」

「そ、そんな......」

「おや? どうしたのです? まさかあおいさんと一緒になれなくて残念だと思っているのですか? ふふ、後悔する必要はないですよ。むしろ、あなたの選択は正しかったと思います」

「な、何がですか.....」

「......これは憶測ですが、会話履歴を読んでいるとあなたは迷われていたのではないですか? 好奇心や彼女への恋心で壁の外へ出るか、それとも安定した生活や家族を守るために約束を破るかのどちらかを。そして、あなたは選んだ。......家族を守る方を」

「.......」

「あなたは賢い選択をしたのですよ。それが、たとえからくるものだとしてもね」

「.......なんなんだよ」

 コイツは.....お前は.....僕の何を知っているんだよ。

 そんなんじゃない。ただ、怖かっただけなんだよ。中途半端に、決断できなかっただけなんだよ。

 お前みたいな奴が僕のことを知った口になるなよ。

 僕は、本当にただの.....中途半端でダメな奴なんだ。

 監察官はそれすら見透かしているかのように気味の悪い笑みを浮かべた。

「臆病なことを良いことです。.....少なくともこのでは」

「.....もう黙っててください」

「すみません、怒らせる気はなかったのですが。まあ、いいです。今回は警告ですので、次はありませんからね。では、失礼します。お母さん、お茶ありがとうございました」


 監察官は紅茶を飲み終えると、そのまま家を出ていった。

 玄関のドアが閉まる音が聞こえた途端、母さんは崖が崩れたかのように床に膝をついてそのまま放心状態になってしまった。

 僕も座ったまま窓の先を眺めていた。雨雲に覆われた壁の先を。

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