借金取りの彼と債務者の俺

リツキ

1:大変なことになりました


 母親からの連絡を受けた彼、春人はるとは慌てて実家近くにある総合病院へと車を走らせていた。

 連絡の内容は父が心臓発作で倒れ、病院へ来てくれとのこと。

 仕事が休みだった長谷部春人はせべはるとは、のんびり買い物をしている最中に来た連絡だったので、色んな思いが過った。

 父がもしかして死ぬ間際にいるんじゃないかとか、もし父が死んだらこれから彼が経営している工場は自分が取り仕切っていかなければならないかもしれないとか。

 実家は車の部品を作っている町工場を経営していて、春人はそれを手伝っていた。

 工場を取り仕切っていたのは父親がやっていて、春人はサポートに回っていたので、しばらく父親が入院したら自分が中心となって工場を回していかなければならない。

 大変なことになったと思いながら車を走らせ、総合病院に辿り着く。

 着いた時にはすでに夕暮れになっていた。

 母親が教えてくれた病室へと直接向かい、部屋へ入る。

 青白い顔で眠る父の顔が目に飛び込んでくると、春人はベッドの傍らで心配そうに見守る母親から声をかけられた。


「春人……」

「父さんはどういう状態なの?」

「心労による心臓発作じゃないかって。朝、急に倒れて、救急車を呼んでそれからすぐ手術になったの。私も動転していたから連絡するのが遅くなってしまったけど、治療してなんとか一命はとり留めたわ。今は大丈夫だけど、とにかく安静にって先生が言っていたわ」

「そう…」


 母の話に春人は少しだけ気持ちが安堵するが、父が回復するまでには時間がかかりそうだ。ということは、工場の今後について母親と相談しなければならない。


「工場、どうしたらいい?」

「そうね…しばらく父さんは無理だから、あなたが中心に頑張ってほしいわ。勿論私も手伝うけど、できる?」


 できると問われてできないとは言えない。

 春人は少し戸惑った表情をしたが、ぎこちなく頷いた。


「…頑張ってみるよ」

「やるしかないわね。でも無理はしないで」

「うん」


 いつも父の傍で見てはいたけど、少ないが従業員に上手く伝えられるかわからない。

 色々思うことはあるけれど悩んでいる場合ではない。

 深く眠っている父を見つめ、気持ちを強く持つしかなかった。

 しばらくして、妹の梨絵りえが仕事帰りに現れ、今にも泣きそうな顔で父を見つめ、春人たちに父の状態を尋ねてきた。

 容体を聞いて一旦は安心していたが、それでも不安は全てなくなったわけではない。


「お父さん、元気になるよね?」


 不安げな表情で春人を見つめるが、笑みを無理やり作り返事をする。


「大丈夫だよ、お前はちゃんと仕事には行けよ?たまには母さんと父さんの看病をお願いしたいけど」

「わかった、やれる限りは看病の手助けをするよ」


 まだ不安が拭えていないが、彼女なりに頑張るしかないと思ってくれたようだ。

 家族が大変な状況には家族一致団結しなければ乗り越えていけない。

 自信がないと言ってる場合じゃない、やっていくしかないのだ。






 春人は母親に父親の生活用品を持ってきて欲しいと頼まれ、一旦家に戻り、タオルやパジャマ、歯ブラシ等生活用品を大き目のカバンに入れて家を出る。

 ふと隣にある自営の工場に目が行った。なんとなく気持ちが明日のことを考えると、つい工場内が気になりそちらへと歩みを進めた。


 夕闇に包まれている工場を見ていると寒々しく見える。

 周りは何もない雑種地が広がり、その隣の敷地内にぽつんと工場が立っていた。工場の大きさはさほど大きくはなくこじんまりとしている。

 工場に向かって進むと、入口に二人の男の姿が見えた。

 一人は短髪で派手なシャツにダウンジャケットを着ている。もう一人はオールバックで黒のスーツに黒の長めのコート着ていた。

 もう3月とはいえ、冬並みの寒さなので防寒着はまだ必要な気候だった。

 春人の気配に気づくと、ゆっくりとこちらを見た。

 顔を見た瞬間、その二人が堅気ではないことに気づく。

 目つきや顔の雰囲気等を見て、どうもチンピラ……ヤクザに見えたのだ。

 春人は一瞬顔が強張り、二人を見据えた。


「あんた、長谷部さんのとこの息子さん?」


 黒のスーツを着たオールバックが春人に声をかける。


「……ええ、そうですけど、あなた方は?」


 想像できる相手だったが、敢えて尋ねてみた。


「俺らはあんたのお父さんに会いに来たんだよね」

「え?どういうことですか?」


 彼の言葉に春人は一瞬嫌な予感がした。


「あれ?聞いてねぇのか。まぁいいや、とりあえずあんたのお父さんと話がしたいから呼んでくれない?」

「それは……父は今、入院していて…」

「は?入院?」


 春人の言葉に黒スーツの男は目を見開いた。


「入院ってマジ?なんで?」

「…心労による心臓発作みたいで」

「心労ね」


 春人の返答に黒スーツの男は苦笑する。

 なぜ笑うのか春人は少し苛立ちを覚えながらも彼らの素性を尋ねた。


「それより、あなた方は何者なんですか?」

「え?俺たちの雰囲気を見てわからない?」


 ニヤつくようにもう一人の子分のような男が変わりに返答した。


「やめろ、小林」


 黒スーツの男は小林と呼んだ子分を諫める。そして春人を見て口を開いた。


「あんたの親父さん、俺らの会社に借金してんだよ。返済が滞ってたから今日一言伝えにきたんだが、まさか入院してたとはね……」


 嫌な予感が的中した。やっぱり借金をしていたのだ。

 この二人がヤクザの風貌だったので、まさか闇金に手を出しているのでは?と思ったのだがそのままだったのだ。

 でもなぜ借金を抱えていたのだ?一度も父は春人にお金について相談はなかった。


「借金って、いくらあるんですか?」

「一千万」

「え……」


 思っていた以上の金額に春人は言葉を失った。

 一千万って、いつのまにそんな金額の借金を抱えていたんだ?


「この工場を維持するのに金が必要だって言ってた。あんた聞いてないのか?」

「維持?」


 言われて春人はハッとする。

 確かに色々やりくりしていたのは知っていた。

 これは経費節減に使えるとか、細かいことを尋ねようとするとお前は知らなくてもいいとかなんとか言って、詳しいことを教えてくれなかったのだ。

 まさか闇金から資金を得ていたなんて、春人はこれを母に伝えるべきか、それとも母は知っていたのか尋ねたくなった。


「知らない、俺は全く知らなかった」

「なるほどな」


 春人の動揺した顔を見た黒スーツの男は、彼の言葉を信じた。

 様子を見るなり春人に話を続けた。


「親父さんが倒れたってことは、他の奴から借金を返してもらいたいんだが」

「………」


 ヤクザの話を耳にしながら春人は色んな考えが巡る。

 これだけの負債を抱えているなら工場は動かせない。動かせば更に金銭的負担がかかってしまう。ということなら他の仕事を探さなければならない。

 どこで働けばいいんだろう。


「あんた、仕事は?」


 心を読まれたかのように黒スーツの男から尋ねられた。


「ずっと父の仕事を手伝ってきたから、他の仕事はしてない」

「そうか、工場が借金まみれってことがわかった以上、工場は稼働できないよな。ってことは、他の仕事をしてもらわないといけないな」


 ちらりと見られ春人はぐっと黙った。

 黙ったまま思考している春人を見つめ黒スーツの男は口を開いた。


「あんたが今すぐ働くとこがないなら紹介してやるけど?」


 口元の片方を少し上げながら言う。

 ろくな仕事じゃないのは覚悟の上だが、それでも緊張は隠せない。


「……母に伝えたいことがあるんだ、ちょっと待って欲しい」


 しばらくじっと見られたが、


「わかった」


 黒スーツの男の承諾をもらい、春人は少し離れた場所から母親に電話をした。

 借金の話は母親も知らなかったらしく、電話の向こうでショックを受けている。

 やはり父親が勝手に借りていたらしい。

 よりによって闇金に手を出すとは。まともなところでは借りられなかったのだろうか?銀行は相手にしてくれなかったのだろうか?

 確かにこんな小さな町工場に金を貸すのはリスクがあるのかもしれない。

 今更こんなことを考えたって何の解決にもならないが、もしかして父が倒れた心労って、借金についてだったんじゃないかと感じた。

 自分はヤクザと話し合いをするので、病院に行くことができないから、父の入院用の荷物を妹に取りに来て欲しいと母に伝えた。

 大きな溜息を一つ吐き、黒スーツの男へと向かった。


「仕事って何をすればいいんだ?」

「とりあえず、俺らの事務所に来てもらおうか」


 言って春人の背中をポンっと小林が押す。


「そういえば、俺の名前を言ってなかったな」


 そう言い黒スーツの男が踵を返して春人は見た。春人も思わず男の顔を見る。

 よくよく見ると、男の顔は端正な顔立ちで女性にモテそうだった。

「俺の名前は浅木桂介あさぎけいすけ、しばらく俺があんたを管理すると思う。よろしくな」






 連れて行かれた事務所、つまり浅木が所属している世山せやま組は、関東で有名な某繁華街から近くにあり、建物は昭和時代に建てられた築40年といった感じで、薄い灰色のトタンで覆われている壁は、昔よくあった古い会社のような作りだった。

 茶色の扉を開くと、


「入れ」


 浅木に背中を押されおずおずと春人は中に入った。

 中に入るとすぐ左隣に扉があり、真っすぐ伸びた先には上に上がる階段があったが、左隣にある部屋へと案内される。

 部屋の中は足の短い長椅子二つと長めのテーブルが並べてあり、応接室替わりにしているようにも見えた。


「そこに座れ」


 春人は言われるまま長椅子に座り、そこで待つよう言われる。

 すぐ近くには小林が監視役として立っていた。

 春人の心臓はずっと騒がしく鳴っている。

 不安と緊張でどうしても落ち着かず、傍に立っている小林の圧にも緊張していた。


(何をさせられるんだろう?よく聞くマグロ漁船に出されたりするんだろうか?)


 マグロ漁船に出たらしばらくは帰ってこれなくなると聞いたことがある。そしてかなり過酷な労働とも。


(不安だ……)


 ただただ春人は不安で潰されそうになっていた。

 一時間ほど経っても浅木は帰って来ない。

 浅木には帰ってきて欲しくない気持ちが大きかったが、残念ながらしばらくして浅木が部屋に入ってきた。

 春人の鼓動が一気に跳ね上がる。


「待たせたな、二階に上がってきてくれ」


 いっそう心臓が騒がしくなり、少しだけ体が震えているのがわかった。

 重い足取りで春人は二階に上がり、別の部屋へと案内された。

 そこにはテーブルの上に書類が置かれ、書類の前にある椅子に座れと言われ、おずおずと座った。


「ここの書類、ざっと読んでくれ」


 そこには父親が契約したと思われる借金の内容が記載されていた。

 一か月でどれだけ払うとか、利息は何%かかるとか。

 緊張のあまり、なかなか契約内容が頭に入ってこないが、必死に何度も読み返し覚えた。

 そして三枚ほどあった契約書の最後に代理人としての契約書なるものがあった。

 それを手にした春人に浅木が口を開く。


「ここはあんたがサインする書類だ。あんたは父親の代行者として働くことになるわけだから、一応な」


 言われて春人は書類の隣に置かれているボールペンを握り、少しだけ震える指を必死に抑え込みながらフルネームでサインをする。

 “印”と書かれた部分はどうするんだろうと思っていたら、すっと浅木から朱肉を渡される。


「母印でいい」


 朱肉の蓋を開けて親指を付け、赤く染まった親指をぐっと“印”と記載されている部分に押し込んだ。

 渡されたティッシュを手にし拭くと、


「今から働く場所に行くから立て」

「え、今から?」


 急な展開に春人の頭の中は混乱した。


「そう、夜の仕事だから」


 夜の仕事と言われ春人はゾッとする。

 夜の仕事と聞いて何を思いつく?

 キャバクラの店員、ホスト?まさか。あとは男性相手と……。

 想像すればするほど再び体が小刻みに震え始めた。もしかして傍らにいたチンピラ二人にはバレたかもしれない。

 しかし浅木、小林はそれに対して何も言わず、春人を二人で挟みながら事務所を後にした。

 春人の頭の中はもう何も考えられなかった、いや、考えたくなかった。

 考えれば考えるほどどんどん歩けなくなりそうだったからだ。

 10分ほど歩いたか、ふと浅木たちが止まり、春人も一緒に止まった。

 見るとあるバーの前で立っていた。


「ここだ、入れ」


 周りを見ている余裕なんてなかったので、今自分がどこにいるかわからなく緊張が高まったが、春人は唾をゴクリと飲み込み、“OPEN ”と書かれた札が付いているバーの扉を開き一歩を踏み出した。

 





 扉を開くと派手な音楽が耳に入り、春人はハッと我に返った。

 室内はライトが各箇所についているが少し薄暗かった。部屋に入った奥にカウンター席があり、扉の右側には椅子のないテーブル席が幾つかあるのが目に入ってきた。

 店の広さは約40畳ぐらいあるだろうか、それなりに広さを感じた。

 浅木は春人を抜き去り、カウンターにいる緩いウェーブがかかった髪型で痩せ型の男に向かって声をかけた。


「アキラさん!こいつだよ!」


 アキラと言われた男は浅木を見て、頷くとカウンターから出てきた。


「この子?」

「そう、長谷部春人っていう名前だ」

「よろしくね、春人君」


 優しく笑むアキラという男性は、身長が高めだがどこか女性っぽさを感じた。

 春人は浅木に慌てて声をかける。


「あ、あの、俺はここで働くってことですか?」

「ああ、そうだ。今日から働いてもらう。で、この人がここの店長のアキラさんだ」


 紹介されたアキラはニッコリと微笑みながら言う。


「初めまして、私はアキラって言うの。ここの店長よ、あなたはここの店員として働いてもらうわね」

「ここのバーの店員!?」

「そ!これからは君のこと、ハルちゃんって呼ばせてもらうわね!」


 急に自分のことをハルちゃんと呼ばれ、春人は動揺を隠せず戸惑っているとアキラは少し苦笑する。


「ちょっと距離詰め過ぎたかしら?」

「あ、いえ……その…」

「あとね、私、ゲイなの。話し方で察してたかもしれないけど」

「あ、はい、なんとなく……」

 

 やはりと春人は思う。


「もう一つ、この店ゲイバーなの」

「え、あ、え?」


 ゲイバーと聞いて思わず客層を見た。

 確かに男性しかいないし、男性同士やたらと密着し親しげなのが目に付いた。

 頬にキスしている男性もいる。

 かなり戸惑っている春人にアキラはちらりと浅木を見、浅木も軽く頷いた。


「あんたはしばらく、借金を返せるまでここで働くことになったから、あと昼も俺がケツモチしている飲食店でも働いてもらうからな」

「え?」

「借金返すのにそれなりに仕事してもらうって、契約書に書いてあったと思うけど?」


 落ち着いた口調で言われ、春人は言葉を返せず黙り込んだ。そして呟くようにぼそっと言う。


「あんたがしてる仕事、他の奴らより全然マシだと思うけどな」


 他の奴らがどんな仕事をしているかわからないので、これから労働する仕事内容と比べようがないが、したことがない接客業に春人は不安を感じた。


「大丈夫よハルちゃん、私が教えるから」

「……よろしくお願いします」


 小さく覇気のない声で言い、そんな春人にアキラはよろしくねと優しく言った。

 





 春人が持ってきた荷物は、狭いがスタッフルームに置いた。と言っても、突っ張り棒でカーテンを引っかけただけの狭いスペースだ。

 アキラがよかったらと言いながら青いエプロンを渡される。

 エプロンを着衣しながらカウンターに入ろうとしたら、興味津々に30代ぐらいの痩せ型で背が高く眼鏡をかけた男性が春人に声をかけてきた。


「君、新しい子?」

「あ、はい。よろしくお願いします」


 小さく言いながら頭を下げると、ニヤニヤしながらその男は春人の髪に優しく触れてきた。

 触れられた瞬間春人は思わずのけぞり、男性は少し驚いた表情で言った。


「そんなにビビらなくてもいいのになぁ~」

「す、すみません」


 謝りはするがまともに顔を見ることができない。男にあんな風に髪を触られるなんて初めてだし、いい気持ちにはならない。


「ちょっと高崎さん!やめてよ、初っ端から触るなんて!」


 様子を見ていたアキラが慌てて高崎を遮った。


「この子、ゲイじゃないんだからお触りは禁止よ!」

「え、マジ?可愛いなぁなんて思ってたのに。そっか、ノンケなんだ~でもそれもいいねぇ~」


 満面な笑みで春人の立ち姿を舐めるように見るので、春人は慌ててカウンター内に入った。

 男に可愛いなんて言われたのは初めてで、自分の容姿は可愛いなんて言われるほどではなく普通で、どこにでもある顔立ちだと思っていたから変な気分になる。

 ゲイの人から見るとそう見えるのだろうか?

 もっと見せてよ~と愚痴る高崎を背にし、春人はアキラに何をすればいいですかと尋ねた。


「そうね、今日は初日だからまずグラスとか食べ物の場所とかを覚えていってもうらおうかしらね。それでいいわよね?浅木さん」


 カウンターの角に座って見ている浅木が静かに頷いた。気づくと小林はもう帰ったのか、姿を消していた。

 アキラに言われるまま食器や食べ物、色んなことを必死に春人は覚えていく。


「あ、そういえば言ってなかったけど、うちは夜6時から夜中1時くらいまで営業よ。でも下準備とかあるから、夕方5時くらいには来てもらいたいわ」

「わかりました」


 頷く春人に再び浅木は口を挟んだ。


「あと明日行くけど、昼からの働く飲食店は11時から2時までの営業だからな」

「わかりました」


 本当に働きづめになるのだと思って、春人は体が付いていけるか心配だったが、借金を返すしかないので何も言えず、しかし心の中は不安で満ちていた。

 アキラは不安な面持ちの春人に、それじゃあこれはここに置いてもらえる?と声掛けしながら彼のことをおもんばかった。






 お店は繁盛しており、春人たちが店に入ったのは7時頃だったが、8時になると店いっぱいになるほどお客が入っていた。

 アキラも必死に対応しており、離れた場所にあるテーブル席にお客が座った時、春人はアキラに声をかけられた。


「ハルちゃん、ごめんね、向こうのお客のオーダーを聞いてきてくれる?」

「あ、はい!わかりました!」


 オーダーを書く注文票を持ってお客の方へと向かう。

 注文される内容を注文票に書き、少しお待ちくださいと言って離れようとした時だった。

 注文してきたお客に春人は尻を撫でられ、思わずうわっと声が出てしまった。


「いいケツしてんじゃねぇか?俺とどうだ?」

「え?いえ、すみません」

「あんた可愛いなぁ~新入り?」

「あ、はい……その…」


 どんどん質問攻めをさせられカウンターに戻ることができない。

 困惑していると、ふと後ろから誰かの気配がした。


「ごめんな、兄さん。こいつ今日入ったばっかで慣れてねぇんだ、今は引いてくれるか?」


 振り返るとそこには浅木が立っていた。

 驚き春人は浅木を見つめた。


「なんだよ、残念だな」

「悪いな」


 謝るしぐさをすると、浅木は春人の背中を押しカウンターまで戻した。


「助けて下さって、その…あ、ありがとうございました」


 春人は感謝をするが、一つ溜息を吐いて浅木は返答した。


「そのうち客のセクハラに慣れねぇといけないな。多分、ああいう類のセクハラは結構受けるぞ?」

「え?」


 言われて春人は背筋がゾッとするような悪寒が走った。


「仕方ねぇよな、ここはゲイバーだ。男たちが集まって酒を楽しむ場所だからどうしても性欲が高まることもあるし、お前は結構なターゲットになるかもな」


 脅しなのかわからないが、そう言われた春人は自分が可愛いと言われることに対して疑問を感じ、浅木に問いかけた。


「あのう、俺、やたらと可愛いって言われるんですけど、そんな風に見えますか?」

「それは……」


 しばし春人を見つめた浅木は言葉を濁す。


「まぁ、なんだ。普通ではあるけどそういう素朴な感じが受けるんじゃねぇの?」

「は?なんですか、それ…」


 思わす心の声を零した。

 素朴ってどういう意味かわからない。

「そういうとこじゃねぇの、この世界を知らない素人だから、それが表情に出てるし、あんた、さっきから怯えて対応しているから、それが可愛く見えるってことだよ」

「は、はぁ・・・」

 この世界っていうのは、ゲイの人たちの世界という意味だろうか?

 春人は詳しく聞くのは少しはばかれた。

「だから早くここに慣れることだな、そうすればいじられることは減るかもしれねぇ」

「マ、マジですか・・・」


 常に男性の性的対象で見られていているって、春人は少し女性の気持ちが理解できた気がした。

 初日だけで二度もセクハラを受けたせいか、体力的な不安もあるが精神的ダメージの方が耐えられるかわからなくなってくる。

 不安を抱えながらアキラに呼ばれ、カウンターの中へ入る。

 その様子を浅木は静かに見つめていた。






「良かったらどう?」


 ぐったりしながら短い休憩時間に休んでいた春人に、すっと温かく美味しそうなにおいがする小鉢をアキラから受け取った。

 それは肉ジャガだった。

 受け取った小鉢を見て春人は思わずアキラを見つめた。


「これ…」

「私の手作りなの。結構評判が良くてね、この肉ジャガの為だけにうちの店に来てくれるお客さんもいるのよ!」


 笑顔で言うアキラに少し癒され、渡された小鉢と箸を持ち一口、口にした。

「美味しい!」


 驚き春人はもう一口、もう一口と肉ジャガを口に運んでいった。

 温かい食べ物が胃に入って行くと落ち込んでいた気力も少し上がる。

 食べている姿を見たアキラは良かったと言いながら話を続けた。


「大変かもしれないけど、私なりにあなたをサポートするから、だから頑張ってね」


 優しく笑むアキラはまるで姉にも母にも見え、春人の心をぐっと締め付けるような気持ちになり、泣きそうになった。


「ありがとうございます」


 そう言うのが精一杯だった。






 1時になったので、アキラ、春人はバーを閉める準備を始めた。

 まだぐだついている客もいるが、アキラが彼らの背中を押し店から出す。

 テーブルや椅子を拭くよう言われた春人は、台拭きを使って拭きだす。

 精神的と体力的にも疲労が大きく、拭きながら大きく溜息を吐いた。


「大丈夫?急な仕事だから疲れたわよね?」

「いえ…大丈夫です」


 やせ我慢をするが第三者から見れば、それが嘘だとすぐにわかる。

 浅木は春人に絡む客の様子を見つつ、そして時々助け船を出してくれたりしながら、ずっとカウンター席の角に座り、監視していた。

 拭き終わると、浅木は春人の方へと歩み寄った。


「お疲れ、まぁこんな感じだ」

「はい」


 疲れた顔で返事をしたが、それ以上話が続けられない。

 苦笑しつつ浅木は話を続けた。


「明日、10時30分までにここに来てくれ」


 スーツのポケットから出された一枚の紙を渡され、春人は静かに受け取る。

 紙の内容を把握すると春人は、わかりましたと返事をした。

 疲れ切った表情を見たアキラは思わず助け船を出した。


「まぁ、明日も仕事もあるし、今日はここまででいいんじゃない?浅木さん?」

「まぁそうだな。今日はここまでだ。明日も絶対ここへ来いよ」

「……わかりました、お先に失礼します」


 二人に頭を下げ荷物を持つと、春人は静かにバーから出て行った。

 静かに彼の背中を見つめていたが、アキラはふっと声をかける。


「あの子、大丈夫?」

「大丈夫って言われてもあいつはやるしかねぇだろう?工場は閉鎖した状態なんだから、ここで働くしかねぇ」

「そうね、そうだけど…お客さんのお触りに相当ダメージ負ってる感じがしたから」

「だいたいこういうとこに来ないと、男から触られることなんてないだろうからな。初めての経験で動揺してるんだと思うけど、あいつと同じように、ここへ来た奴らだって、同じ状態になってただろう?」

「……そうだけど」

「あいつだけが特別じゃねぇんだから、あんま優しくしてやるなよ」


 しかしアキラは納得いかないようだった。


「だって借金だって彼のお父さんが作ったものでしょ?一人でなんとかしようとして、それが失敗して、全部それが彼に降りかかったんだもの。なんだか同情するのよ」


 アキラの話に浅木は大きく溜息を吐く。


「言いたいことはわかる。だから今回はあいつをここへ連れて来たんだ。本当だったら別の、もっとどぎついとこへ連れて行かれるはずだったんだぞ?」

「え、そうなの?」


 驚くアキラに浅木は静かに頷いた。


「事務所で変な奴に目を付けられてな。でもそれを俺が必死に断ったんだよ。そこへ行くにはちょっと気の毒に思えてな」


 タバコを吸おうとして取り出すと、すっと傍にあったアキラから灰皿を差し出された。


「あなた、本当にヤクザなの?」


 少し苦笑しながら問いかけられた。


「ヤクザだよ、働かせて金を巻き上げる。キツすぎると逃げちまうから、ある程度は余裕がねぇとダメなんだよ」


 灰皿に吸ったタバコを押し付けると踵を返した。


「それじゃまた明日来るわ」


 アキラに背を向けヒラヒラと手を振りながら浅木はバーを出ていった。


「変な男…」


 思わずアキラはぼやいた。



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