第7話

☆☆☆


しっかりしなきゃ。

そう思ってトイレから出たとき目の前に大和がいたので悲鳴を上げてしまいそうになった。


「どうかしたのか?」

大和が千明の手に持っている雑巾に視線を向けて聞いてきた。


「あ、ごめんなさい。私牛乳をこぼしちゃって」

素直に謝ると大和は「なんだ、そんなことか」と笑った。


笑うと目元はクシュッとシワになって可愛らしい。

自然とそんな風に考えてしまって、慌てて左右に首をふる。


ダメダメ。

仕事は仕事なんだから、もうそんな風に考えないって決めたはずでしょ。


自分自身を叱責して「すみませんでした」と、頭を下げる。

そんな千明に大和は驚いたように目を丸くし、それからなんとなく寂しそうな表情を浮かべた。


「怪我とかがないならいいんだ。気をつけて」

大和はそう言うと事務所へと入っていったのだった。


☆☆☆


「ねぇ、今日はどうして休憩室で食べないの?」

昼休憩の時間になると、千明は梨江を誘って外のベンチに移動してきていた。


休憩室ではいつもどおり大和と晋也が昼食をとっているはずだ。

「うん、ちょっとね……」


お弁当箱を開けてみてもあまり食欲はなかった。

「よかったら食べる?」


そう言ってお弁当箱を差し出すと梨江はタコさんウインナーを指先で摘んで口に入れた。

「うん。美味しいじゃん。こんなの作れるのに彼氏いないなんてもったいない」


「これくらい誰でも作れるでしょ」

「そうかなぁ? 朝早く起きてお弁当を作るのってそんなに簡単なことじゃないと思うけど」


言いながら梨江は今日も栄養ドリンクだけだ。

それだと余計に栄養が偏ってしまいそうに見えるけれど、梨江は今日もパワフルに動き回っていた。


「で? さっきの質問の答えは?」

そう聞かれて喉の奥に言葉をつまらせる。


お昼時だからか周囲にはお客さんの姿も見えず、風が心地よく吹いてくるだけだった。

話すなら、今だろう。



千明は小さく息を吐き出してから、大和との間にあった出来事を説明した。

梨江は何度も口を挟んで色々と質問しそうになったけれど、どうにか我慢した。


「キスされたって……あの菊池さんに!?」

「ちょっと、声が大きいよ!」


慌てて周囲を確認する。

大丈夫、やっぱり誰もいない。

ホッと胸をなでおろして梨江を睨みつけた。


「それってどうして?」

「どうしてって……」


あの日大和は確かになにかおかしかった。

だけど詳細は伏せていた。



どこまで話していいのかわからなかったし、目の色については黙っているように言われている。

だからキスしてしまって、好きかもしれないと感じたところだけを説明していた。


それだけでも梨江にとっては大きな出来事だったみたいだ。

「菊池さんだって、千明のことが好きだったからキスしたんじゃないの?」


それについては完全に否定することができる。

なにせ謝罪されてしまったのだから。


「そっかぁ。じゃあその日に菊池さんになにかがって、キスしたってことかぁ」

千明は頷いた。


そのなにかについてはよくわからない。

だけど大和はとても苦しそうにしていた。


「今日の千明がなんだか挙動不審な理由がわかってよかったよ」

栄養ドリンクを飲み干して梨江が言う。


「え、私そんなに挙動不審だった?」

「自分で気がついてないの? 菊池さんのこと避けまくってるじゃん」

「そ、そんなことしてた!?」



慌てるものの、無意識のうちに大和のことを避けていたかもしれないと思い当たる。

だって、大和と一緒にいたらどうあがいてもキスのことを思い出してしまうんだから、仕方ない。


「でもまぁ、なにがきっかけであれ菊池さんのことを好きになったってことだよね?」

千明はコクンと頷いた。


好きになった瞬間に振られたわけだけれども。

「じゃあ、私は千明を応援する!」

「え?」


「だってさぁ、好きになったらもう頑張るしかないじゃん? それとも諦めるの?」

頑張るとか、諦めるとか、そんなことまで考えていなかったことに思い至った。

千明は悩んで首をかしげる。


「好きって自覚した瞬間失恋するのは辛いと思うよ。だけどそれで終わりでいいわけ?」

真剣な表情でそう質問されると、良くないと思えてくる。

だってなにもしてない。


突然キスされて、こっちが相手を好きになって、それなのに振られて。



「全然よくない!」

千明は強く左右に首を振って答えていた。

そんなの全然いいわけない!


どうしてこっちばかりが振り回されないといけないのか。

大和はどうして自分にキスをしたのか。


ちゃんと明確にしなきゃいけないことは山ほどある。

「だよね。じゃあ、とにかくお腹一杯食べて力をつけることだよ」


「わかった!」

千明は大きく頷いて少しも手をつけていなかったお弁当をかきこんだのだった。

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