第2話 血の雨が降る 2
「……悪かった。汀ちゃんの病状を、軽く考えていたよ」
診察室の椅子に座り、大河内がため息をつく。
圭介は資料をめくりながら、興味がなさそうに口を開いた。
「気に病むなよ。いつものことだ」
「…………」
「それに、お前は汀の中では『お父さん』でもあり、『恋人』でもあるんだ。多少はしゃいでゲロ吐いたって、あいつの精神衛生上プラスになってることは間違いない」
「だろうが……口が悪いぞ、高畑」
「そうか?」
顔を上げずに、彼は続けた。
「まぁ、起きた頃には忘れてるさ。それより見てみろ、大河内」
資料を彼に放り、圭介は椅子の背もたれに寄りかかった。
「あの患者の経歴だ」
「どこから取り寄せた?」
「世の中には『親切な人』が沢山いてね」
柔和な表情で彼は腕を組んだ。
大河内は資料に目を通してから、深いため息をついた。
「なぁ、この患者の治療はもうやめにしないか?」
「…………」
圭介は少し沈黙してから、言った。
「嫌だね。一度依頼された治療は必ず行う。それが俺の方針だよ」
「汀ちゃんを見ろ。負担がかかりすぎてる。この患者の治療をするには、十三歳では難しすぎると私は思うがね」
「でも、汀は特A級だ」
「天才であることは認めるよ。しかし、適材適所という考え方もある。これは、赤十字の担当に回したほうがいい」
「大河内」
彼の言葉を遮り、圭介は言った。
「汀にとって、お前は『お父さん』であり、『恋人』であるかもしれないけど、お前にとって、汀は『娘』でも『恋人』でもないぞ。俺も同じだ。入れ込みすぎているのはどっちだ?」
問いかけられ、大河内が口をつぐむ。
圭介は資料を彼から受け取り、テーブルの上に戻した。
「治すさ。汀は」
「…………」
「たとえそれが、家族から見放された、重度の『痴呆症』の患者であっても」
「痴呆症の患者は、精神構造が普通の人間とは違う。汀ちゃんに、それを理解させるのは無理だ」
「無理でもやるんだよ」
いつになく強固な声で、圭介は言った。
「それが、あの子の仕事だ」
◇
汀が目を覚ました時、丁度圭介が点滴を替えているところだった。
汀は起き上がろうとして、体に力が入らないことに気がつき、息をついてベッドに体をうずめる。
「おはよう」
「おはよう、良く眠れたか?」
圭介にそう聞かれ、汀は軽く微笑んで首を振った。
「よく寝れなかった」
「遊びすぎたんだよ。お前達は、加減を知らないから……」
「加減?」
「…………」
圭介が、不思議そうに問い返した汀を見る。
そして少し沈黙してから、また点滴を交換する作業に移った。
「いや、いいんだ。別に」
「気になるよ。何かあったの?」
「大河内が来ただけだ」
「せんせが来たの?」
汀は、途端に顔を真っ赤にして圭介を見た。
「ど、どうして起こしてくれなかったの?」
どもりながらそう聞く彼女に、圭介はまた少し沈黙した後、答えた。
「お前、覚えてないだろうけど、昨日の夜かなり具合が悪かったんだ。どの道、クスリ飲んでたから話は出来なかったと思うよ」
「せんせ、ここに入ってきたの?」
「ああ」
「恥ずかしい……私、こんな……」
毛布を手繰り寄せて、汀は小さく呟いた。
彼女の女の子らしい反応を見て、圭介は小さく微笑んで見せた。
「大河内は気にしないだろ。お前の格好なんて」
「せんせが気にしなくても、私が気にするの」
まるで、昨日大河内とWiiで遊んだことを、いや、彼がこの部屋に来たことさえもを覚えていない風だった。
否、覚えていない風、なのではない。
覚えていないのだ。
圭介はこの話は終わりとばかりに、点滴台から離れると、隣の診察室に歩いていった。
汀が胸を押さえながら、俯く。
大河内と話せなかったと思ったことが、相当ショックらしい。
圭介はしばらくして戻ってくると、汀に写真のついた資料を渡した。
「これは覚えてるか?」
問いかけられ、汀は写真を覗き込んだ。
そして首を傾げる。
「誰?」
「覚えてないならいいんだ。今回の患者だ」
興味がなさそうに資料をめくり、しばらく見てから、汀はある一箇所を凝視した。
「ふーん」
と何か納得した様な声を出す。そして圭介に返し、彼女は彼を見上げた。
「それで、いつダイブするの?」
「今日は無理だな。お前の体調が戻り次第、ダイブしてもらいたい」
「いいよ。圭介がそう言うなら」
にっこりと笑って、汀は続けた。
「その人を助けることも、『人を助ける』ことになるんでしょう?」
問いかけられ、圭介は一瞬口をつぐんだ。
しかし彼は、微笑みを返し、頷いた。
「……ああ。そうだよ。お前が、助けるべき患者だよ」
◇
「……そうか。一緒に遊んだ記憶が飛んだか」
赤十字病院の一室で大河内がそう言う。
彼は暗い顔で、腕を組むと壁に寄りかかった。
「ダイブした患者の記憶も、スッキリ飛んでた。お前の用意したクスリは、本当に良く効くな」
資料に目を通しながら圭介が言う。
大河内は反論しようと口を開けたが、言葉の着地点を見つけられなかったらしく、息をついて呟いた。
「クスリが強すぎる」
「それくらいが丁度いいんだ。あの子のためにも」
含みを込めてそう言うと、圭介はガラス張りの部屋の向こうに目をやった。
数日前のように、車椅子にマスク型ヘッドセットをつけた汀と、前に横たえられた壮年男性の姿が見える。
マジックミラーのようになっていて、向こう側からはこちらの様子を伺うことは出来ない。
汀はもぞもぞとヘッドセットを動かすと、車椅子の背もたれに体を預け、脱力した。
『準備完了。これからダイブするよ』
壁のスピーカーから彼女の声が聞こえる。
圭介は、壁に取り付けられたミキサー機のような巨大な機械の前に腰を下ろすと、そのマイクに向けて口を開いた。
「説明したとおり、その患者は普通の患者じゃない。重度のアルツハイマー型痴呆症にかかってる。普通の人間と精神構造が違うから、注意してくれ」
『大丈夫だよ。すぐに中枢を探してくるから』
「時間は十五分でいいな?」
『うん』
頷いて、汀は呟いた。
『ここ、赤十字でしょ? ……大河内せんせに会いたいな』
隣で大河内が軽く唾を飲む。
圭介は小さく笑うと、なだめるように言った。
「集中しろ」
『分かってるよ』
「これが終わったら、考えてやってもいい」
『本当?』
「ああ、本当だ」
『約束だよ』
「ああ、約束だ」
『うん、私頑張る。頑張るよ』
何度も頷く汀を、感情の読めない顔で見つめ、圭介は言った。
「それじゃ、ダイブをはじめてくれ」
◇
汀は、古い日本家屋の中に立っていた。
床に、立っていた。
「うわっ!」
小さく叫び声を上げ、汀は真下に落下した。
ドタン、と受身を取ることも出来ずに、体をしたたかに打ちつけ、彼女はしばらくうずくまって、痛みに耐えていた。
『どうした?』
圭介の声がヘッドセットから聞こえる。
汀は息をついて、腰をさすりながら起き上がった。
「ちょっと失敗しただけ。何でもない」
そこは、上下が逆になった世界だった。
床が天井の位置にある。
反対に、天井が床の位置にある。
しかし、家具や電灯は、重力に逆らって上方向に固定されていた。
汀だけが、家屋の中、その天井に立っている。
先ほどは床の位置から落下したのだ。
息をついて周りを見回す。
タンスに、大きなブラウン管型テレビ。
足元の電球の周りには虫が飛んでいる。
障子は開いていたが、その向こう側は真っ白な霧に覆われていた。
そこは居間らしく、頭上にテーブルと座布団が見える。
奇妙な光景だった。
今にも家具が天井に向けて『落ちて』きそうな感覚に、汀は少し首をすぼめた。
「ダイブ完了。でも、良くわかんない」
『分からないってどういうことだ?』
「煉獄に繋がる通路じゃないみたい。トラウマでもないし。普通の、通常心理壁の中みたいだよ」
『何か異常を探すんだ』
「上下が逆になってるだけ。それくらいかな」
何でもないことのように汀は言うと、天井に立った。
そして彼女は、這うようにしてテレビの方に近づくと、頭上の床から垂れ下がるようになっているそれに手を伸ばした。
何度かピョンピョンとジャンプし、スイッチをやっと指で押す。
さかさまになっているテレビの電源がつき、砂画面が映し出された。
しばらくして勝手にチャンネルが変わり、汀の顔が映し出される。
「……?」
首をかしげて、さかさまに映っている自分のことを、彼女は見た。
黒い画面に、汀が立っているだけの映像。
またしばらくして、画面の中の汀の首が、パンッと音を立てて弾け飛んだ。
首のなくなった彼女の体が、グラグラと揺れて、無造作に倒れこむ。
汀は冷めた目でそれを見ると、手を伸ばしてテレビの電源を切った。
「訂正。通常心理壁じゃない。ここ、異常変質心理壁だ。H型だね」
『知ってる。そこから出れるか?』
「何で知ってるの?」
汀の質問に答えず、圭介は続けた。
『この患者は普通じゃないと言っただろ。中枢を探してくれ』
「……分かった」
汀がそう言った時だった。
ゴロゴロゴロゴロ……ドドォォーンッ! と、雷の音があたりに響いた。
「ひっ」
雷が怖かったのか、汀は息を呑んで体を硬直させた。
そして気を取り直して障子の向こうを見る。
パタ……パタタタタタタ……! と、連続的な音を立てて、何かが下から上に、『降って』きた。
それは、血液のように赤かった。
否。
血液だった。
上下がさかさまになった空間の外で、下から上に、血の雨が降っている。
それは途端に土砂降りになると、たちまちゴーッという耳鳴りのようなスコールに変わった。
汀の頭の上で、床下浸水したかのように、溜まった生臭い血液が、家屋の中に進入してくる。
狭い部屋の中、血液の波は一気にタンスやテレビを飲み込んだ。
テレビの電源が勝手につき、そこからけたたましい笑い声……男性の、引きつった痙攣しているような声が響き渡る。
汀は、頭の上から迫ってくる血だまりを見上げ、足下の天井を蹴って、障子に向かって走り出した。
その途端だった。
ぐるりと視界が反転し、彼女は、入ってきた時と同じように、血の海の中に頭から突っ込んだ。
上下さかさまになっていた空間が、突然元に戻ったのだ。
床が下に。
天井が上に回転した。
小さな体を動かし、汀はもったりとした血液を掻き分けて顔を出し、息をついた。
しかし、ぬるぬると血液は彼女の体を沈み込ませようとする。
それに、どんどん血液は家屋の中に進入して、かさを増してきていた。
汀は成す術もなく、血の海に飲み込まれた。
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