治療完了、目を覚ますよ

天寧霧佳

第1話 螺旋階段を下って 1

巨大な「目」の下に、彼女は立っていた。

目を取り囲むのは、無数の目。

蠢く肉質な壁、壁、ピンク色のそれは建物や地面を覆っている。


ぶよぶよした浮腫のようなものがまとわりついているのだ。

そして、そこに埋め込まれているのは眼球。

血走った目がぎょろぎょろ動き、彼女のことを数千、数万も凝視している。


空は黒い。

どこまでも黒い。

その真上に、空全体を覆い隠すほどの眼球が、まるで太陽のように浮き上がり、あたりを照らしていた。


常軌を逸した空間。

普通でははかりえないような、そんな空間に、彼女は平然と立っていた。

年の頃は十三、四ほどだろうか。

長い白髪を、背中の中心辺りで三つ編みにしている。

可愛らしい顔立ちをしているが、その表情は無機的で、何を考えているのか分からないところがあった。


彼女は、眼前にぽっかりと空いた「穴」の前に進んだ。

穴は、肉の床が崩れ、内部に人間の体内に似たものが見える。

丁度食道を内視鏡で見るかのような感覚だ。

奥は曲がりくねって深く、よく分からない。


彼女は耳元に手をやった。

右耳の部分に、イヤホンつきの小型マイクがはまっている。

そのスイッチを動かして、彼女は口を開いた。


「ついたよ。この人の煉獄の入り口」

『OK、それじゃ、攻撃に遭う前にそこに入って、記憶を修正してくれ』


マイクの向こう側から、まだうら若い青年の声が聞こえる。


「…………」

『おい、汀(みぎわ)、聞いてるのか?』

「…………』


返事をせずに、彼女は周りを見回した。

いつの間にか、地面の肉質にも眼球が競り出して、

プツリ、と所々で音を立てながら、奇妙な汁を撒き散らしていた。


それら全てに凝視されながら、汀と呼ばれた少女は、

自嘲気味に、困ったように頭を掻いた。


「見つかっちゃった」


子供がかくれんぼで鬼に見つかった時のように軽い言葉だったが、

マイクの向こうの声は一瞬絶句した後、キンキンと響く声を張り上げた。


『すぐ戻れ! この患者はレベル4だぞ。入り口まで出てこれるか?』

「見つかっちゃったの。逃げられないの」


ゆっくりと、言い聞かすようにそう言って彼女はウフフと笑った。

その目は、声に反して笑っていなかった。

足元の眼球をブチュリと踏み潰し、彼女は両手を開いて大声を上げた。


「鬼さんこちら! 手の鳴る方へ!」


パンパンと手を叩く。


『こら、何してるんだ! おい、汀!』

「鬼さんこちら!」


ぶちゅり。

眼球を踏み潰す。


「手の鳴る方へ!」


裸足のかかとが、肉壁にめり込む。

パンパン。

また手を叩く。


瞬間、その「空間」自体がざわついた。

ぎょろりと空に浮かぶ眼球が、こちらを向く。

間を置かずに、汀を囲む壁から、眼球がまるで銃弾の雨あられのように吹き飛んできた。

汀は軽い身のこなしで、まるで曲芸師のようにくるりと後転してそれを避けた。

彼女が着ているものは病院服だ。

右から眼球が飛んできて、左の壁に当たって爆ぜる。

嫌な汁と血液のようなものが飛び散る。


まるでプチトマトを投げ合っているかのようだ。

汀を狙って、地面や壁から、次々と眼球が飛び出してきた。


くるくると少女は回る。

片手で地面を掴んで体を横に大きく回し、目の群れを避ける。


『遊ぶな!』


怒号が聞こえる。

今までぼんやりしていた表情は、まるで別人のように生き生きと輝いていた。

しかし、次の瞬間、眼球が一つ汀の脇腹に食い込んだ。


不気味な音を立てて爆ぜ、彼女の顔にパタタタッと音を立てて汁が飛び散る。

衝撃で汀はもんどりうって肉床を転がり、したたかに後頭部を壁にぶつけた。


「あうっ!」


小さな声で叫び声を上げる。

右脇腹で爆ぜた眼球は、ベットリとガムのように病院服に張り付き、次いでアメーバを思わせる動きで、ざわついた。


それが爪を立てた子供の手の形になり、汀の服をむしりとろうとする。

彼女は、口の端からよだれをたらしながら、しかし楽しそうにそれを払いのけ、また飛んできた眼球をくるりと避けた。


『お願いだからやめてくれ、汀。患者のトラウマを広げたいのか!』

「分かってる。分かってるよ」

『分かってないから言ってるんだ。汀、早く中枢を』


そこで汀はイヤホンのスイッチを切った。

そして彼女は、ゴロゴロと地面を転がる。


彼女を追って、眼球たちが宙を舞う。

それを綺麗に避け、汀は、地面にぽっかりと開いた穴の中に飛び込んだ。



一瞬視界がホワイトアウトした。

次いで彼女は、狭い、四畳半ほどの真っ白い、正方形の部屋に立っていた。

何もない部屋だった。

天井に蛍光灯が一本だけついていて、バチバチと異様な音を発している。


薄暗い空間の、汀の前には肌色のマネキンのようなものがあった。

それは体を丸め、体育座りの要領で頭を膝にうずめていた。

大きさは一般的な成人男性程だろうか。

どこにも継ぎ目がない、つるつるな表面をしている。


頭髪はない。

耳も見当たらない。

汀は無造作にその前に進み出ると、腰を屈めて、頭を小さな手で掴んだ。

そして顔を自分の方に向ける。


耳も、口も鼻もない。

ただ、一つだけ眼球がその顔の真ん中にあった。

眼球は虚空を注視していて、汀を見ようとしなかった。

汀は興味を失ったように頭を離した。

マネキンは緩慢に動くと、また頭を膝の間にうずめた。


「そんなに目が気になる?」


汀は静かに聞いた。


「あなたは、そんなに他人の目が気になるの?」


マネキンはゆっくりと頷いた。

何の音もない空間に、汀の声だけが響く。


「馬鹿ね」


汀はにっこりと笑った。

そしてマネキンの前にしゃがみこんだ。


「だから死にたいの?」


マネキンはまたゆっくりと頷いた。


「だから逃げたいの?」


マネキンはまた頷いた。

汀はまた微笑むと、その頭を両手で包むように持った。

そして眼球に、両手の親指を押し付ける。


「じゃあ見なきゃいいよ」


マネキンは痛がる素振りもみせず、ただ微動だにせず硬直していた。


「私が、あなたの目を奪ってあげる」


ぶちゅり、と指が眼球を押しつぶした。

そのまま指を、眼窟に押し込み、中身をかき回しながら汀は続けた。


「耳も、鼻も、口も、目も、そして心も閉ざして、逃げればいいよ」


眼窟から、どろどろと血液が流れ出す。


「私がそれを、許してあげる」


マネキンの手が動き、汀の首を掴んだ。

それがじわりじわりと、彼女の細い首を締め付けていく。

汀は、苦しそうに咳をしながら、ひときわ強く眼窟の中に指を突きいれた。


『ウッ』


部屋の中に、男性の苦悶の声が響き渡った。

マネキンの手がだらりと下がり、糸が切れたマリオネットのように足を広げ、壁にもたれかかる。


汀は拳を振り上げると、眼球がつぶれたマネキンの顔面に、何度も叩きこんだ。

血液が飛び散り、その度にビクンビクンと、魚のようにマネキンが震える。


やがて汀の病院服が、転々と返り血で染まり始めてきた頃、彼女は荒く息をつきながら、動かなくなったマネキンを見下ろした。


ダラダラと、原形をとどめていない顔面から血液が流れ出し、 白い床に広がっていく。

そして彼女は耳元のイヤホンのスイッチを入れ、一言、言った。


「治療完了。目をさますよ」



「……と言うことで、旦那様は一命を取り留めました」


眼鏡をかけた、中肉中背の青年が、柔和な表情でそう言った。

それを聞いた女性が、一瞬ハッとした後、両手で顔を覆って泣き崩れる。


「主人は……」


少しの間静寂が辺りを包み、彼女はかすれた声で続けた。


「主人は、何を失くしたのですか……?」

「視力です」


何でもないことのように、青年はそう言ってカルテに何事かを書き込んだ。


「視力?」


信じられないといった顔で女性は一旦停止すると、白衣を着た青年に掴みかからんばかりの勢いで大声を上げた。


「目が見えなくなったということですか!」

「はい。しかし一命は取り留めました。自殺病の再発も、もうないでしょう」

「そんな……そんな、あまりにも惨過ぎます……惨すぎます!」


青年は右手の中指で眼鏡の中心をクイッと上げると、またカルテに視線を戻した。

柔和な表情は、貼りついたまま崩れなかった。


「まぁ……後は区役所の社会福祉課にご相談なさってください。こちらが、ご主人が今入院されている病院です。面会も可能です」

「先生!」


女性が机を叩いて声を張り上げた。


「主人の目が見えなくなって、一体これからどうやって生活していけというんですか! 私達に、これから一体どうしろと……」

「ですから、それから先は私達の仕事の範疇外ということで。誓約書にありましたでしょう。命のみは保障いたしますと」

「それは……」

「脳性麻痺の疑いもありませんし、植物状態になったわけでもありません。ただ、『目が見えなくなった』だけで済んだという『事実』を、私は貴女にお伝えしたまでです」

「…………」

「それでは、指定の口座に、期日までに施術費用をお支払いください。本日はご足労頂き、ありがとうございました」


話は終わりと言わんばかりに、青年は軽く頭を下げた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る