第24話

 床の一点を見つめたまま動かない智之の肩を足で軽く蹴る。


「ほら、話を続けなさいよ。どういう経緯で、なんで浮気したのかまだ聞いてないわよ」


 智之は諦めたように大きく息を吐いた。

 その様子を見下ろし、琴音は舌打ちをした後に平手打ちをした。


「早く言いなさいよ!」


 上下関係ができていた。

 智之に拒否権も黙秘権もない。ただ琴音の質問に答える義務だけが残っている。

 何もかも終わった。美沙との関係が知られてしまった。もう今後美沙と会うことはできないだろう。美沙はそれを聞いたとき、どういう反応をするだろうか。せめて会うくらいはさせてくれと、琴音に頭を下げるだろうか。それとも逆上して琴音から取り返すようなことをするのか。美沙は琴音を押しのけて結婚したいと言うような子ではない。けれど確かに、美沙から愛を感じていた。どういう反応をするのか、見たい気もする。


「言えって言ってんでしょ!」

「…美沙とは、職場で出会って」

「そんなことさっきも聞いたわよ!どうして、どうやって、なんで浮気に至ったかって聞いてるのよ!」


 琴音としてはその女に会いに行きたい。どういうつもりだ、既婚だと知っているだろう、慰謝料請求するからな。そう言いに突撃したい。

 しかし先に話を聞かねばならない。すべて聞いた後で突撃せねば浮気相手と話ができない。

 そんなことを考える冷静さは持ち合わせていた。


「…はぁ」

「ため息吐きたいのは私よ!」


 智之はまだこの事態が現実だと呑み込めない。

 あれだけ隠し通していたのに。

 長い間隠していても露見するのは一瞬だ。

 美沙ごめん。そう連絡を入れたい。

 今頃何をしているだろうか。風呂に入ったか。寝ているのか。


「聞いてるの!?」


 二度目の平手打ちで意識を戻され、智之は憤慨している琴音の歪んだ顔を視界に入れた。

 何の話だったか。あぁ、そうだ、美沙との馴れ初めを聞かれているのだった。

 美沙の可愛さとは程遠い顔をしている琴音から目を逸らし、智之は美沙のことをぽつりと話し始めた。


 馴れ初めといっても、それほど大したものではない。ありふれた話だ。

 受付を通る度に、笑顔で目を合わせてくれる可愛くて若い女。

 一度話しかけてみると嬉しそうにしてくれて、そこから何度か話すうちに目が合うと手を振ったり会釈をする仲になった。

 話は合うし、盛り上がる。若いといってもそれほど歳は離れていないので、互いに恋愛対象となっていた。

 ある日二人きりになった時、美沙が頬を赤らめて告白をしてきたので受け入れた。既婚だと知っているが、それでもいいというので交際をスタートさせた。

 男女が恋をするのに、特別なシチュエーションなど不要だ。ありふれた、よくある話。

 社内恋愛のきっかけなんて、こんなものだ。


 智之がすべて話すと、琴音はまた掌で頬を打った。

 浮気が悪い事だと自覚しているので智之は抵抗しない。


「そう、そうなの。いつからよ」

「…二年が経ったところだ」


 二年。

 短いようで短くない。浮気の二年は長い。

 琴音が違和感を覚えたのもそのくらい前だった。

 少なくとも一年は、その違和感にもやもやしていた。

 もっと早く行動していればよかった。恥を捨て、友人に相談していればよかった。


「そんなに前から…裏切り者」

「…悪い」

「言っておくけど、離婚は絶対にしないから」


 予想外の言葉に、智之は顔を上げる。

 離婚を視野に入れているのかと思っていた。


「離婚はしない。してやるもんですか。そんなことしても、その女が喜ぶだけじゃないの!」


 智之は安堵した。離婚をしないならよかった。

 体裁は守られる。

 美沙と離れてしまうのは惜しいし、今後益々琴音の尻に敷かれると思うと頭が痛くなるが離婚を回避できてほっとする。


「それで、その女はどこに住んでるの」

「どこって…もしかして行くのか?」

「当たり前でしょう!」

「い、今からか?」


 時計を見ると夜の十時を回っていた。

 明日は日曜日で休みとはいえ、今頃寝ているのかもしれない。そこへ突撃するのは、常識的に考えておかしい。

 浮気をしておいて常識を語るのもおかしな話だが、美沙の安眠の邪魔をしたくない。


「早く案内しなさい!」

「で、でも」

「あんた私に口出しできる立場じゃないでしょう!私の言うとおりにしなさい!」


 憤慨する琴音に圧し負けた。

 せめて連絡を入れようと携帯を取り出すが、琴音に奪い取られてしまう。


「何する気?」

「連絡を入れないと…」

「はぁ!?人の夫を奪い取った女に気を遣うの!?」


 気を遣うというか、連絡を入れるのは常識だ。

 アポイントなしで家に行く方がどうかしている。

 そう反論することはできないので、携帯を奪い返すことはしない。

 琴音は傍にあった鞄を取り、智之の携帯を突っ込んだ。鞄を肩に掛け、智之の服を引っ張る。


「ほら、早くしなさい!」


 よろよろと立ち上がる智之の背中を蹴り、鼻を鳴らす。

 確固たる上下関係が出来上がってしまった。智之は琴音の言いなりになるしかない。

 離婚をしないでいてくれると言うのだから、従う以外に選択肢はない。

 慰謝料を貰うと言っていたが、どのくらいの額になるのだろうか。美沙は派遣であるため貯蓄はないはずだ。

 多額を請求された美沙が社内で不倫のことを暴露したら、智之の居場所はなくなる。それを恐れ、口止め料として慰謝料をできるだけ少額にしたい。そしてその慰謝料の額を、自分の口座から引き出し、こっそり美沙に渡したい。社内に漏れないよう釘を刺したい。

 体裁が大事だ。

 慰謝料の話が出たら、なんとか少額に抑えてもらうよう琴音と交渉してみよう。

 琴音も体裁は大事だと考えているはずだ。

 職場で夫の立場がなくなれば、辞めざるを得ない。そうなると、収入がぐんと減ってしまう。社会に出たことがない琴音でも、それくらいは想像できるはずだ。

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