愛の交差

円寺える

第1話

 智之は項垂れていた。

 不安と焦燥感を抱えていたためか額から一筋の汗が流れ出た。不快感を拭うようにアイロンがかけられた白シャツの袖で額を擦る。

 透明なグラスに入っている水を飲みこみ、乾いた喉を潤して俯く。

 平日の昼間だというのにファミレスに空席が目立たず、子ども連れや一人客で繁盛していた。隣の席に座っている女性は子どもを二人連れており、まだ二歳にもなっていないような子を放置し、黙々とハンバーグを食している。小学生くらいの子は大人しくオレンジジュースを飲みながら母親を見つめていた。

 子連れの客が隣にいる。それは智之の居心地を悪くさせていた。


「ねぇ、それだけ?」


 テーブルに肘をつきながら呆れたように美沙は言った。

 平らげたガトーショコラの皿を店員が下げて行く。

 まっすぐに伸びている黒髪を耳にかけ、智之を覗き込むようにして「それだけ?」と再度問う。


「そ、それだけって…結構やばいんだぞ」

「どこがよ。奥さん、気づいてないんでしょ?」

「気づいたかもしれないって言っただろ」

「かも、でしょ。気づいてないかもしれないじゃない」


 枝毛を探しながら、興味はないと言いたげに智之から視線を外した。

 危機感のない美沙にむっとする。


「だってあいつ、最近小言が増えたんだ。今日の昼ごはんはどこで食べたの?今日は誰と飲みだったの?最近携帯よく見てるよね。今やってる昼ドラが面白いんだけど、一緒に見る?ってさ、もうこれ絶対気づいてるだろ」

「だったら直接言ってくるでしょ。ただの世間話じゃないの」

「どこがだよ!」


 片手でテーブルを叩く。

 美沙は驚いた様子もなく、智之を白けた目で見つめる。

 そんな美沙の視線を感じ取り、慌てて「ごめん」と謝り、テーブルから手を降ろした。

 隣の子連れ客は智之を見つめている。

 目立つ行動をとってしまい、反省するがそもそも美沙の態度がいけないのだ。


「奥さんが何も言わないなら、気づいてないよ」

「分からないじゃないか」

「はぁ、そんな態度でいる方が怪しく見えるんだって」


 妻から増えた小言に怯えている智之を見て、ため息を吐く。

 そんなに弱気ならば最初から浮気なんてしなければいいのだ。もう二年経つ。やめようと思えば今までいくらでも関係をやめることができた。それでもそうしなかったのは、智之が快楽や優越感、変わらない日常へのスパイスを欲していたからだ。今更、妻からの鋭い言葉がなんだというのだ。


「奥さんとは別れたくないの?」

「あぁ」

「でもあたしとは一緒に居たいの?」

「あぁ」


 とんでもないクズだ。しかしそれでも美沙は智之の元から離れようと思わなかった。

 どれだけ智之がクズでも、どれだけ智之が小心者でも、美沙はすべて受け入れる。


「よかった。小言が増えたから別れよう、って言われるかと思った」

「別れたくない。でも、妻が笑顔で言ってくるんだ。浮気してるのがバレてるんじゃないかと怖くて」

「大丈夫だってば。だったら、一週間くらいあたしとは関わらずにいる?」

「い、一週間か」

「会社でもそんなに会う機会ないし、やましいことがない一週間を持てば気持ちの整理もできるんじゃない?」


 美沙からの提案を受け、考え込む。

 関わらない、ということはメールのやり取りもできないということだろう。一週間も美沙と関わらない生活は嫌だなと思うが、自分の精神状態を考えると受け入れていいかもしれない。


「そうだな、そうしよう」

「よし。じゃあ今日は一週間分の智くんを堪能しないとだね」


 態度を一変させ、智之にウインクをする。

 妻はキツイ見た目の美人であるが、美沙は若くて可愛いアイドルのような顔だ。家に帰ればキツイ顔が出迎える、そんな日々を送る智之にとって美沙は癒しであった。

 九歳も年下の若い子と付き合えている。まだ自分はいける。浮気がバレないよう外で会う頻度は少ないが、隣に置いて「俺の女だ」と自慢するように歩きたい気持ちがあるため、美沙とは遠出デートを楽しんでいる。先週デートをしたばかりだが、今週も出かけたい。けれど、妻のことがある。次のデートは来月になりそうだ。


「じゃ、じゃあ今日は美沙の家に行こうか」

「えぇー、やだよ」


 一週間の接触が絶たれてしまうので、その前に美沙の家で二人の時間を楽しみたかった。

 厭らしい笑みを浮かべる智之とは反対に、美沙は眉間にしわを寄せる。

 美沙は一人暮らしだが、智之を家に入れることを嫌った。他に男がいるのかと勘繰ったことがあったが、両親が事前連絡もなしに訪れるので、智之との関係を悟られたくないという思いから拒んでいた。実際に、美沙の家で寛いでいると両親が急にやってきたため、クローゼットの中に隠れるという展開になったこともある。

 故に智之が美沙の家を訪れることができたのは、ほんの数回だけだった。


「今日は家に来ないでって親に言えばいいじゃないか」

「そんなこと言ったら余計怪しまれるよ。あたし、普段そんなこと言わないんだから」

「そ、そうか。でも、今日くらい別にいいんじゃないか?いつまでも親に縛られるのはどうかと思うぞ」

「もう、あたしはこんなに智くんとのことを隠そうと頑張ってるのに、そんなこと言わないでよ」


 むう、と口をへの字曲げて不貞腐れる美沙が可愛く、智之はにやにやと顔を緩めてしまう。

 可愛い、守ってやりたい。庇護欲を掻き立てられ、抱きしめたい衝動に駆られる。

 二人はファミレスを出ると、美沙の家に行くことはせず、一番近いホテルへ向かって歩いた。

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