第5話 椅子の上

 両手首に感じるしびれるような痛みで目を覚ました。

 身体がガクンと震えて前につんのめる。

 自分が後ろ手に縛られて椅子に座らされているのを知った。

 心臓が早鐘はやがねのように鳴っていた。


 視覚がない。

 アイマスクのようなものを付けられているようだ。

 懸命に耳を澄ますと、さほど離れていない正面に人の気配があった。

 珈琲コーヒーすする音。

 おかしなもので、自分に振る舞われたわけでもないのに、その香りで幾分気持ちが落ち着くように感じられた。


 起きたのか、と確認することもなく、正面の男が一方的に話し始める。

 男は僕の名前と住所、勤め先の社名を読み上げた。

 恐らく財布の中身をあらためられたのだろう。


「これに間違いないな?」

「会社にはもう行ってない」


 沈黙があった。

 目の前の男がどんな表情をしているのか全く分からない。

 生きた心地がしなかった。

 たっぷり間を置いてから、ようやく男が話を続ける。


「それはあてが外れたな。頼もうと思っていたことがあったんだが」


 何でもする。だから助けてくれ。

 そんな言葉が喉元まで出かかった。

 未だもって男の正体がつかめない。一人なのか、複数人なのかも。

 だが、置かれている状況から、自分がどれほどの苦境に立たされているかは分かる。

 普通は初対面の相手に頼み事をするとき、目隠しをしたり、椅子に縛り付けたりはしない。


「俺たちは忙しくてな。手っ取り早い方法もあるんだが……。どうだろう? 君は、俺たちの役に立ってくれるかなあ。君を信じても良いものだろうか?」


 何か硬い物がスライドしてガチャリと鳴る音が鼓膜を震わせた。

 実物を見たことも、生音を聴いたこともない僕だったが、この想像には確信があった。

 僕は見えない男に向かい首を大きく縦に振ってうなずく。

 忙しい身の上に配慮し、命乞いの口上は省略させていただくことにした。

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