【短編】楓(かえで)

磨己途

第1話 自宅

 ファックスが紙を吐き出す音で眠りから覚めた。

 ぼんやりとした意識の中で僕は、ああしまったな、とつぶやいた。

 起きたところで何かやるべきことがあるわけでもない。どうせならずっと眠ったままでいたかった。そんな後悔だった。


 いま何時だろうか。

 そんなことを考えながら上体を起こしたが、これも迂闊うかつな話だ。

 仕事にはもうひと月近く行っていない。

 はじめの一週間ぐらいは度々電話が掛かってきていたが、無視を決め込むうち、終いには何の音沙汰も無くなってしまった。


 暗闇に時計を探すつもりで目を凝らすと、思わず赤く明滅を繰り返す光を見つけることになる。

 ファックスの着信を示すランプだ。

 そういえば、さっきの音はそうだった。


 重い身体を持ち上げベッドから足を下ろす。

 その足に何かを踏みつけた不快な感覚が襲った。

 起き抜けの頭を働かせて、布団に潜る前の部屋の様子を思い浮かべる。

 弁当の空き箱か何かだろうか。それが昨日の物か一週間前の物か、あるいは一カ月前の物か。そこまではもはや想像の及ぶところではない。そんな物はこの部屋にはいくらでも転がっているのだ。


 思いを巡らすことの愚かしさに気が付き、気を揉み、気に病み、気が……いや、何でもいいか。

 僕は考えることをやめ、得体の知れない何かを踏み散らしながら赤の点滅を目指した。

 ファックスを掘り起こし、垂れ下がった用紙を雑に切り取る。

 テレビの場所を探り当て電源を入れると、部屋の中に雑音が流れ出した。


《回収資源は定期的に委託処理しましょう》


 モニターの光に照らされた紙面はそんな見出しで飾られていた。どうやら市の衛生局からのDMらしい。

 そもそもどんな重要なファックスを期待していたのかと自分自身にうんざりする。

 丸めて捨ててもよかったが、ここまで歩いて来た労の元を取ろうと、何とはなしに紙面に目を走らせる。

 案内されていたのは近隣にあるゴミ収集機の設置場所だった。資源濫用らんようの槍玉に挙がっている紙メディアでそれを受信するとは、なんとも皮肉な話だ。


 しばらく立ったままで僕は考え事をしていた。

 いや、嘘はいけないな。何か考えなくてはと焦りながら、その実、考える振りをする自分を闇の奥から俯瞰ふかんし虚脱していただけだ。


 安っぽいチャイムの音が響く。

 それで僕の体は自動的に玄関へと動いていた。

 まるでリモコンで操られているみたいだなと自嘲する。来客か、などと考えを巡らせ始めたのはその後だ。

 仮にまともに考えることができる状態であったなら、間違いなく居留守を使っていただろう。だが、とにかく応対のために体が動き出してしまったのだから、仕方がない、出てやろうじゃないか。

 ゴミを踏み分け、1LDKの部屋を横切る僅かな間にも、外から女性の声が僕の名を何度も呼んでいた。


 ドアの前に立っていたのはアパートの管理人だった。

 呼び出しに応えて出て来た僕の顔を見て、女はひるんだ様子を見せる。

 それはそうだろう。僅かに開いた隙間から、髪はボサボサ、髭も伸ばし放題の酷い顔がヌッと現れたのだ。

 女は僕の顔を見て、一瞬何か別のことを言いたそうな表情になったが、それを飲み込んで話を切り出した。


「ええと、私ここの管理人ですけど。他の住人の皆さんから苦情がありましたので、それを伝えにきたんですけどもぉ。あのぅ……ちょっと言いにくいんですけどね。最近ねぇ、この部屋から変な臭いがするって、他の住人さんから言われるものですから……」


 女は度々脱線しながらも、要するに部屋のゴミを捨てろと勧告しているようだった。

 その粘りつくような口調にうんざりした僕は、女の言葉を途中で遮り、何とかしますから、と適当な言葉で追い返した。

 深い溜息と共に、僕は背中を扉にもたれかけさせた。

 胃液が喉元までせりあがってくるような苦い感覚がある。

 おそらく久しぶりに人と会話をしたせいだろう。

 腕を伸ばし壁のスイッチに指をかけた。

 蛍光灯の明かりであらわになった部屋の現状は、自分でも眩暈めまいを覚えるほど酷い有り様だった。

 空き缶、食べ物の屑、読み古した雑誌……。部屋中に散らばったそれらが、混沌の二文字でひたされ堆積していた。

 部屋の空気は確かによどみきっていた。

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