紅蓮のメイドは夢を抱く
蕪菁
第一章【夢は向こうに置いてきた】
第一幕【火竜の巫女が守る島】
1-1【憧れのあなたに恥じない為に】
人々の悲鳴が町に響き渡る。
人を押しのけ、物を押しのけ逃げ惑う人々。
荷車に繋がれた馬は
文字通りの阿鼻叫喚。誰もが自らの命を守るため、必死なのだ。
そして人々が去った後には、一際大きな巨人が割れた石畳の上に佇んでいた。
仁王立ちするその巨人は、人々から【魔獣】と呼ばれ恐れられる怪物である。
身長は隣に建つ、白壁の二階建て住居と同等だ。
筋骨隆々の身体は浅黒く、単眼をぎらつかせる。
巨人は衛兵達から【サイクロプス】と名付けられており、高頻度で人里に姿を現す魔獣だった。
「お前、逃げなくていいのかァ?」
血液の腐臭が混じった吐息が、声と共にまき散らされる。
サイクロプスに壁際まで追い詰められた者が、壁を背に佇んでいた。
その人物の顔や服装は外套によって隠され、表情は伺えない。
だが、この状況下で恐れを知らぬ人間がいるだろうか。
自らがこの場の強者であると確信しているサイクロプスは、裂けたように大きな口をにやつかせる。
サイクロプスの剛拳が、建物二階の外壁を貫く。
幸いなことに、降り注ぐ破片がフードの人物に当たることはなかった。
それでも、下の人間を気にすることなく、サイクロプスは埋もれた腕を勢いよく引き抜く。
周囲にまき散らされる破片。埃や塵が、開いた大穴から煙のように噴き出す。
サイクロプスの手には、屋根を支えるための太い
こん棒として扱うには少々短く、強度も足りない木材だ。
それでも、力任せに人間を跡形もなく吹き飛ばすには十分だろう。
「怯えろ、怯えろ。オレは人間が怯えるの、大好きだ」
人間は答えない。
微動だにせず、フードを脱ぐようなこともしない。
サイクロプスも、人間は怯えて体がすくんでいるのだと考えていただろう。
しかし、こうも反応がないと短気な魔物は苛立ちを隠せなくなる。
表情は険しくなり、歯ぎしりが騒音のように響く。
「お前、もういい。死ね」
右手に握られた梁を、フードの人物めがけて振り下ろすサイクロプス。
直後、木材のひしゃげる乾いた音が、大量の木片と共に響き渡った。
――サイクロプスの一つ目が、大きく見開かれる。
突風でなびく外套。
振り下ろされた梁は、フードの人物に届いてはいなかったのだ。
その人物の右腕は梁に向けて伸ばされ、手には赤く輝く竜紋の
風が外套のフードを剥がす。
現れたのは、切れ長の目でサイクロプスを睨みつける、青年の少女だった。
整った容姿に、大洋の青を思わせるダークブルーの髪。
フリルの付いた白色のキャップを被る姿から、どこかの家に仕える使用人のようだ。
少女はサイクロプスを
「これで時間は稼げたね、アデーレ」
竜紋の錠から声が放たれる。
だが、無機物が喋るという状況に、アデーレと呼ばれた少女は一切の驚きを見せない。
「誰もいないよね、ロックン」
「もちろん。いつでもやっちゃいなよ!」
錠の声に合わせ、アデーレが駆け出す。
呆然とするサイクロプスは、少女が自らの股をくぐって背後に回ったことに気付けずにいた。
少女は駆け出した勢いのままサイクロプスの方へ振り返り、今度は左腕を外套の外に晒す。
その手には、錠とセットになっているのであろう、炎を模した鍵が握られている。
右手の錠、左手の鍵。
慌てて振り返るサイクロプス。
正対したアデーレは、両手を自らの前方に突き出す。
彼女はゆっくりと目を閉じ、鍵を錠に差し込む。
鍵が完全に差し込まれると、錠前から赤い炎が噴き出し周囲に熱波を放つ。
炎はどこに燃え移ることもなく、彼女の手の内で燃え盛っている。
その様子を前にして、余裕の態度を見せていたサイクロプスが距離を取る。
彼女は、熱を帯びた空気を肺に溜めるように、短い深呼吸をした。
「……行くよッ」
目を開き、左手に力を込め、手にした鍵を時計回りに回す。
カチャリと鳴る鍵の回転に合わせ、錠から火花が飛び散る。
先ほどまで錠が纏っていた炎がアデーレの身体を一瞬で包み込み、炎は赤いオーラへと姿を変える。
火の粉のような輝く粒子を放ち、オーラはアデーレの全身に取り込まれ、形を変えてゆく。
キャップは両側が上に反ったつばを持ち、竜の翼を模した飾りで彩られたワインレッドの帽子へ。
外套が風に吹き飛ばされ、白色のロングワンピースと、その上に羽織った赤色のロングコートが姿を現す。
同時に、キャップの下にまとめられていたダークブルーの長い髪が風になびく。
オーラはなびく髪に集まり、その髪色をルビーのような鮮やかな赤へと変化させた。
「ヴェスティリア……ッ」
サイクロプスが呟き、後ずさる。
歯を食いしばり、手に持っていた梁の残骸を彼女めがけて投げつける。
アデーレはそれを避けようとせず、錠前を握っていた右手で大きく薙ぐ。
粉砕される木材。
アデーレの手には、長大な金属の塊が握られていた。
竜紋の錠前は、噴き出した炎を刃に変えたような大剣へと姿を変えていたのだ。
自身の身の丈よりも長い剣を片手で掲げ、切っ先をサイクロプスに向けるアデーレ。
その顔に、一切の情は存在しない。
「後悔してもらうよ、この島に現れたこと」
大剣を両手で構え直す。
ロングブーツを履いた彼女の踏み込みで、足元の石畳が砕ける。
そして強く地面を蹴り、アデーレがサイクロプスとの間合いを一瞬で詰める。
身を守ろうとサイクロプスは腕を構えるが、遅すぎた。
アデーレの方がより早く、巨大な剣でサイクロプスの巨大な体を切り上げていた。
「……あ。もうすぐお客様がいらっしゃるんだった」
袈裟懸けに両断され、引火した炎で燃え上がるサイクロプスを背に、アデーレがつぶやく。
火の加護が消失した衣服は、黒いワンピースと白いエプロンドレスに変化していた。
髪も色が戻り、なびかせていた髪もまとめられ、キャップの中に収められている。
アデーレはスカートのポケットに錠前をしまった後、落ちていた外套を手にし、ついた埃を払う。
そして再び外套を身にまとうと、本来の業務に戻るためその場を後にするのだった。
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