第28話 私が幸せにしてあげるから
「なんか葵の家、久しぶり」
門扉を押し開ける幼馴染の後ろで、私はかつて通い慣れた邸宅を見上げた。
場所は私の家から百メートルあるかないかで、本気で走れば二十秒、いや鈍った今なら三十秒はかかるかもしれないが、いずれにせよご近所である。
赤煉瓦を基調にしたこじゃれた外観で、築年はそれなりに経っているはずだけど、手入れが隅々まで行き届いているおかげで昨年新築したと聞かされても驚かない。
「そういえば高校入ってから、うち来てなかったよね」
葵は猫のキャラクターがついたキーホルダーを鞄から取り出し、玄関扉に差し込んだ。
「さ、どうぞ。お代官様」
「うむ……邪魔するぞ」
中に足を踏み入れた私は、そこでもう一度「お邪魔します」と声を上げた。
だが、誰かが出てくる様子はない。葵が靴を脱ぎながら私を振り返る。
「今、誰もいないよ。お母さん遅くなるみたい」
「あ、そうなんだ」
葵のお母さんとも当然顔見知りだ。久しぶりに会いたい気持ちもあったが、不在なら不在で気を遣わなくていいかもしれない。
葵は一人っ子だ。同学年の娘達は葵と同じ一人っ子か、私のように姉がいるかのどちらかしかない。男兄弟や年下の妹は存在しえないからだ。少なくとも今のところは。
階段を上がりながら、私は大きく息を吸い込んだ。
「この匂い、懐かしいな」
「匂いって言うのやめて……」
人の家には匂いがある。自分の家だと不思議とそれがさっぱりわからないが、葵の家に漂うどこか柑橘系っぽい甘い香りが私は好きだった。
二階の葵の部屋に入る。室内は暖色系の内装でまとめられており、壁際にベッドと学習机、中央に円形のテーブルというレイアウトは中学の時のままだが、ベッドに置かれたぬいぐるみは私の記憶が正しければ二倍に増えている。
「少し見ない間に増えたね」
「いつの間にか増えてんだよねぇ。つぼみ、知ってる? ぬいぐるみって勝手に増えるんだよ」
「急に怖くなってきたんだけど」
私と葵は笑い合う。葵はエアコンの電源を入れ、鞄を机の脇にかけた。
「じゃあ、酒とツマミ持ってくるから、適当にくつろいどいて」
「うん、ありがと」
「ぬいぐるみが勝手に増えても気づかない振りをしてね。決して増える瞬間を見てはいけない」
「怖い。早く戻って来て」
葵の笑い声と足音が遠ざかっていき、私は大きく息を吐いた。
なんだか落ち着く。子供の頃から何度も来ているからか、下手をするとここは自宅より落ち着く場所だ。机の上の写真立てには、中学の時のグループ写真や、家族写真の他に、私と二人で写ったものも多くある。
幼稚園のお遊戯会の後に撮った写真。小学校低学年の遠足帰りに撮った写真。二人とも無邪気な笑顔をしている。まだ世界がゆっくり滅びているなんて知りもしない頃。この世に生を受けたことに何の疑問も持たず、全身全霊でその瞬間を楽しんでいる顔。
「……」
無言で写真を見つめていると、葵が勢いよくドアを足で開けて戻って来た。
「さあ、宴じゃあ!」
盆に載せているのは酒とツマミ――ではなく、コーラとポテトチップスだ。
乾杯をして、ごくごくと喉を鳴らして飲む。そして、二人一緒に、
「ぷはー、生き返るぅ」
ここまでがセットである。小学生の頃から、葵の部屋に来るたびに行われる儀式のようなものだが、なぜこれが続いているのかもはやよくわからない。
その後、私達はようやく勉強を始めた訳だが、三十分程で葵が急に立ち上がった。
「あー、制服ごわごわする。ちょっと着替えていい?」
「ああ、うん」
頷くと、葵は躊躇なくブラウスのボタンを外し、スカートを下ろし、下着姿のままクローゼットを漁り始めた。目の前で蠢く白い肢体を、私はぼんやりと眺める。葵はTシャツの袖に腕を通しながら、こっちを振り向いた。
「そんなに私に見惚れてどうしたん?」
「いや、いきなり目の前で着替え始めたの葵でしょ」
「ま、気にするような関係じゃないっしょ」
その通りではある。小さい頃はよく一緒にお風呂に入ったものだ。
私は片肘をテーブルにつきながら、短パン姿になった葵を見上げる。
「なんか、もったいないような気がして」
「何が?」
「ほら……部長の指示で恋愛漫画を結構読んだんだけどさ。葵って可愛いし、明るいし、ナイスバディだし。もし世の中に男がいたら放っておかなかったんじゃないかと」
「だよねぇ。私もそう思う。惜しいことをした」
「すごい自信!」
「つぼみだって男子がいたらモテてたと思うけど。可愛いし、頭いいし」
「いや……私は絶対無理。あやめちゃんに幸せになれないキャラって言われたし」
自分が可愛いだなんてとても思えないし、頭だって決していい訳じゃない。単に人より勉強に割く時間が多いだけだ。
私が幸せになれない委員長キャラと分析されたことを思い出した葵は、手を叩いて笑い、私に向かって親指をぐっと立てた。
「大丈夫。つぼみのことは、私が幸せにしてあげるから」
「なんて頼もしい親友なの」
寸劇のようないつものやり取りを経て、試験勉強は再開される。
エアコンが風を送る音と、ペン先がノートを滑る音、二人の乙女がぼりぼりとポテトチップスを貪る音が室内に響く。数学Ⅰの問題集を解き終わったところで、私は息を吐いて自身の肩を揉みほぐした。慢性的な肩凝りは母親譲りだ。
すると、正面に座った葵がノートに目を落としたまま言った。
「マッサージ、マッサージはいらんかねぇ」
「え、マッサージ屋さんがここに?」
「寄ってきな、嬢ちゃん」
葵は顔を上げて、ベッドを親指で指さす。
「でも、悪いよ」
「いやいや、つぼみにはベストコンディションでいてもらわないと、教えてもらう側も困るからさ」
葵は母親によくマッサージを頼まれるらしく、幼少期から鍛えられた指圧術は既に熟練の域に達していた。学校でもちょくちょく肩を揉んでくれるのだが、施術後は驚くほど肩が軽くなるのだ。
「さ、しゃちょさん、ここにねるよろし」
「なんで急にカタコト……?」
ベッドにうつ伏せになった私のお尻に、葵はよいしょと腰を下ろした。
友人の体重を身体に感じる。低反発の枕からはシャンプーの匂いした。凝り固まった首筋に指先の圧がかかる。
「うぅ、気持ちいい」
葵は適格にツボを押してくるのだ。
「うへへ、お嬢ちゃんの体のことは隅から隅まで知り尽くしてますからねぇ」
「それ、なんかやだ……」
「ちなみにここはテストの点が上がるツボです」
「ううっ、ちょっと痛いけど、もっと押して下さい」
そういえば、と思う。すみれが学校に来るのは終業式と聞いた。ということは、彼女は期末テストを受けるつもりはないのだ。やはり高校生活を続ける気はないのだと暗澹とした気持ちになる。
「ねえ、つぼみ」
「なに?」
「浅川さんってどんな人なん?」
「え?」
ちょうどすみれのことを考えていたので、思わず変な声が出た。
「動物園に一緒に行くくらい仲良しなんでしょ」
「仲良しっていうか……」
振り返ろうとしたが、首回りを押さえられているので、葵のほうに顔を向けられない。
私は親友の枕に顎を乗せたまま答えた。
「最初は怖そうな人だと思ってたけど、結構面白い人だよ。変に義理堅いところもあったりして」
私は下校中に待ち伏せされた話や、バイクに乗せられた話、子供の頃に歌を習っていたらしいといった話をした。
その間、お尻に乗った葵からは何の返答もない。
代わりに、背骨の両脇を押さえる指先の力が強くなっている。
「ね、葵。ちょっと、痛い」
「……あ、ごめんっ」
ふいに葵の手が背中から離れた。
「大丈夫? つい気合いを入れすぎちゃった。秘孔をついちゃったかも」
「秘孔……ってなんだっけ? あ、全然大丈夫。ちょっと痛かったけど、テストの点は上がりそうな気がする」
起き上がると、葵は両手をこすり合わせて私に謝った後、ふと虚空に目を向けた。
「でも、浅川さん、只者じゃないと思ってたけど、やっぱり只者じゃないんだねぇ」
今度話しかけてみよっかな、とにへらと笑うその顔は、いつもの葵と同じもので、なんだか私は妙に安心したのだった。
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