第2話

水樹と理人が、ふぅんと曖昧に鼻を鳴らす中、陽希が眉を僅かに顰めていた。

「何か?」

と、怪訝そうに問う水樹の顔をじっと見て、それから陽希は「まさかね」とつぶやいた後、「何でもない」と首を左右に振った。

***

夜七時。豪華客船のラウンジは、クラシックコンサートの幕開けを待つ、大勢の客でにぎわっていた。数多くの円卓の上には、大皿に盛られた色鮮やかな料理や、銀器に盛られた冷たいデザートが並べられている。特に目立つのは、この船自慢のロブスター料理。十種類の特製ソースが、赤い身に鮮やかだ。しかも、客一人につき一匹ずつ出る。

水樹と理人が時間をかけて丁寧に殻を外す前で、陽希は、雑にばきばきと音を立てながらもいでしまい、太いハサミにしゃぶりついた。

「俺、ずーっとこの船に乗ってたいなぁー」

素直に感想を漏らす声に、水樹が「上品に食べられないのか」と怒る横で、理人は口元を隠して笑った。

この時間帯の客に紛れるため、まずは服装を無難に、水樹がホワイトのニットとブラウンのパンツ、理人がブルーのシャツとグレーのスラックス、陽希がピンクのブラウスとブラックのパンツにそれぞれ着替え、高級な料理に舌鼓を打つ。と言っても、本来業務を忘れたわけではない。監視のターゲットは、実に堂々と、不倫相手の真っ赤なドレスから出された肩を、しっかり抱いている。理人は、胸のポケットに入れたペン型のカメラで、その光景を写真に収めた。

船の上は長きに渡る密室だ。油断し、大胆になっているのだろう。

その時、水樹は背後から軽く肩を叩かれた。思い切り飛び上がる。調査の対象は目の前にいるが、バレたのではないかと思ったのだ。

其処には三人の女性が立っていた。いずれも黒髪で、ひとりがピンク色のドレスにストレートのロングヘア、一人が真っ赤なドレスに巻き髪、一人が緑色のドレスにボブであった。

その美しい三人組に、水樹は肩を叩かれる動機が全く思い至らなかった。ただ、陽希が、はっと息を呑むのだけが、分かった。知り合いなのだろうか?

「水樹君だよね?」

ストレートのロングヘアの女性が、ファンデーションでも全く隠せていないほど頬を紅潮させ、グロスで輝く唇を開いた。名前を言い当てられたのは恐ろしかった。しかも、苗字ではない。

「はい、そうですが」

「それが何か?」或いは「仕事か何かでお会いしましたか?」と言葉を続けようとした時、その女性が、口元を両手で塞いで、涙ぐみ始めたので、ぎょっとする。

「元気になったんだね、良かった、私……」

そこで、ふっと花が開くようにステージ上が明るくなった。他の二人の女性が、涙ぐんだ女性の手を優しく引いて、ステージに向かっていく。いったい何だったのか、心の奥に靄のようなものだけが残った。陽希の横顔をふと見ると、ずっと、難しい顔をしていた。

***

更に水樹が驚いたのは、先ほどの三人の黒髪の女性が、「魔女の三重奏」だったことだ。ストレートのロングヘアの人が友香理、巻き髪の人がナディア、ボブの人がゾーイと、司会の男性から紹介があって、初めて知った。理人も何も知らなかったようで、いつものにこにこ顔で、拍手をしている。陽希はずっと固まっていた。

橙色に近い柔らかい光に照らされたステージは、他のクラシックコンサートより、敷居の低さを感じさせた。

今夜は子供にも分かりやすいようにと、導入では、ナディアが「ハノン練習曲第一番」を披露するのだという。確かに練習曲と呼ばれるものほどメジャーな作品はない。だが、こうしてプロが弾くのは非常に珍しいだろう。

司会の説明によると、二曲目は、友香理が弾くフランツ・リストの「死の舞踏」。三曲目は、ゾーイが奏でるジョゼフ=モーリス・ラヴェルの「子供と魔法」を聴かせてくれるらしい。

ナディアは客に向かって、ドレスの裾を摘まむようにしてあいさつし、それから鍵盤に向かった。

奏でられるメロディには、誰もがにこやかに聴き入っていた。プロの奏でる練習曲は、逆になかなか、聴く機会がない。

次に、友香理が一頻り客に向かいあいさつし、鍵盤に向かった。先まで泣いていた顔は、矢張り少しメイクが崩れていることが、遠巻きにも分かってしまって水樹は僅かに心配になる。

友香理は目を閉じて鍵盤に指を置き、最序盤のいくつかの音を奏でた。その、ほんの次の瞬間だった。

物凄い閃光が、暖かい光に包まれていた会場を割くように走り、水樹は咄嗟に身を伏せた。遅れて轟音。何とも形容しがたい、激しい破裂音と、ものが崩れる音の混ざった感じだ。視界が煙で覆われていることに気づいたのは、一度は咄嗟に閉じてしまった瞼を開けたからだった。

「水樹! 危険です! こちらへ」

理人のオーボエのような声と、陽希から伸ばされた手に救われる。

やっと視界が開けたのは、隣室の安全な場所へ通された後だった。

「いったい何が?」

水樹の問いに、理人は首を横に振る。

「ピアノが爆発したようですが、ついさっきのことですから、被害状況までは……ありがたいことに、と申し上げて良いのかどうかは分かりませんが、『探偵社・アネモネ』のメンバーは無事のようです。ターゲットと浮気相手も」

「ピアノが? 何故、急に」

水樹が混乱する頭で問うと、陽希は、まだむせ返りながら、その呼吸を整える合間に、見解を述べる。

「ピアノに爆発物が仕掛けられていたとしか思えないね」

「爆発物を仕掛けたということは確実に犯人と呼ばれる人間が存在する。ステージの上のピアノに、長時間犯人が触れることは難しい。ピアノという複雑な構造のものに、短時間で爆発物を仕掛ける方法があるのでしょうか」

理人の問いに、陽希は首を捻る。水樹は頭を振って混乱を少し落ち着かせてから、「調べましょう」と声も高らかに宣言した。

「目の前で事件が起きて、探偵として放っておけません」

理人と陽希も、強い意思を感じさせる笑顔で頷いた。

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