沈
きわめて刹那的な彼女の気分とどのように向き合えばいいのか。精神疾患などに精通した専門家の力を借りなければ、適当な接し方が見出せず、間合いを図りかねて足踏みを繰り返しているような感覚に襲われる。それでも彼女は、不思議と笑顔が絶えない。まるで後ろ暗い悩みなど抱えていないかのような溌剌とした表情であり、俺をさらに悩ませた。よもや俺との戯れを試験的に捉えているような気がしてならず、一挙手一投足がすべて彼女の内申点に関わっていると思わせられた。
ましてや、自ら彼女に電話を掛け、待ち合わせの手筈を整えた当人が、手持ち無沙汰を理由に閉口し続ける訳にはいかない。ふと周囲に目をやれば、名も知らぬ喫茶店に注意が向く。走り終わったばかりの陸上選手を想起させる彼女の呼吸を鑑みて、俺は親しみ慣れた店を紹介するかのように、彼女の視線を右手で誘導し、件の喫茶店に導いた。
「一旦、そこ入ろうか」
その喫茶店の評価を調べもせずに入店を促したのはなかなかに罪深い。普段なら必ず、不特定多数の評価の案配と睨み合い、入店するかどうかの判断を下す。しかし今は、避難を主とした決断に走った結果、一か八かの飛び込みになり、メニューの中から吟味されて選んだものが口に合わなかったら、目も当てられない。会話の妙を楽しむような口先の旨さとは縁もゆかりもない俺ができることは、味蕾からの情報を共有し、店内でグチグチと文句を垂れる迷惑な客になるという、これもまた一か八かの方法を取らざるを得ない。
「カラン、カラン」
扉の上部に備え付けられた鈴が、来店を知らせる合図を送った。駅前の喧騒と人間工学に基づいた灰色の風景とは相反する、木造建築ならではの温かみを内装から看取する。牧歌的な楽器による演奏が鼓膜を撫でつけ、長い時間、椅子に座っていることを苦にさせない。飲食店にとって、回転率は経営上、見逃せない点だが、お客様の居心地を重視した喫茶店の微睡むような体験を提供したいという、店長の経営方針が忙しない出入りを排斥している。
「ご自由にどうぞ」
落ち着いた雰囲気を作る要因は、何もプラス面だけではない。単純に客の少なさもまた、のびのびと過ごす上で関わってくる。店内を見渡すと、空席が多く散見され、いつ閑古鳥が鳴き始めてもおかしくない。
「じゃあ、そこに座ろうか」
必ず訪れると言っていい、沈黙の兆しをつぶさに受け取り、間を埋める為の話題が欲しい。
そんな小賢しい考えをもとに、丸テーブルを挟んで対面する窓際の席を選んだ。
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