第44話 顔もよく思い出せない

 日蝕に関わるビカンの話は皆に恐怖を与えるのに十分な恐ろしい内容だった。

 神話や伝説の中に描かれ、伝承されてきたそれらの物語は、絵空事の出来事ではない。

 現実に起きることも十分に有り得たからだ。


 アマーリエは日蝕が絡む大きな陰謀に巻き込まれていようと露ほども考えていなかった。

 しかし、ふと考えるのだった。

 もし、あのまま家から出なかったのならば、どうなっていたのか。

 ぞっとしてきたアマーリエは鳥肌が立った腕を思わず、押さえていた。

 彼女は優しい人と信じて疑っていなかった叔母様、まさか恐ろしい計画を企む人間だったと未だに信じられないでいる。


 それでもエヴェリーナを連れ、家を出た判断が決して、間違いではなかったと確信していた。

 エヴェリーナを残し一人で逃げていたら、もっと後悔していたに違いないとも考えていた。

 ロベルトから、マルチナが家を出たと聞いたことも大きな影響を与えた。


 アマーリエはふと思い出した。

 マルチナがどこか、一歩引いているように見えたことを……。

 それが気のせいではなかったとはっきりした確信は持てないものの考えることが出来た。


 マルチナの瞳は曇りのないきれいな蒼玉サファイアの色だった。

 しかし、まるで目の敵のように敵対的な態度で接してくるユスティーナの瞳は濁った曇天の空の色を映した青に感じられた。

 サファイアと呼ぶには程遠いくすんだ青色である。


 マルチナは現在、マソプスト公爵家に身を寄せており、身の安全が保障されていると聞いたアマーリエは胸を撫で下ろした。

 エヴェリーナもコンラートの離宮に身を寄せている以上、心配に及ばない。

 セバスチアーンがいるからだ。

 それだけでなぜか、アマーリエは安心出来た。




 日蝕が近い。

 約束の時は刻一刻と近付いていると言われていたが、特に何も起きないまま、ヴィシェフラドの厳しい冬の日が続いている。


 それでもいいことがなかった訳でもない。

 エヴェリーナは歌うのが好きだと分かった。

 彼女の歌は誰に教わったのでもないのに上手だった。

 とても、きれいな歌声に魔力を乗せられることも分かった。

 アマーリエには絵を具現化させる魔法の才能があったが、エヴェリーナには歌の才能があったのだ。


(このまま、何事も起きなければ、いいのに……)


 しかし、アマーリエのささやかな願いは叶わなかった。


「お父様がお亡くなりになったということ?」


 ワルショヴァで起きていた戦争が終わったと報せが届いたのはそれから、間もなくのことだった。

 決して、悪くないニュースだと誰しも考えた。

 戦争が終われば、出征者は帰還する。

 その中に家族がいる者にとって、これ以上ないいい報せでもあった。


 アマーリエとエヴェリーナには父親ミロスラフの思い出がほとんどない。

 アマーリエに至っては顔すら、思い出せない。

 知らない人と変わらない存在と言っても過言ではなかった。

 それでも悪くない報せだと彼女らが考えたのには理由がある。

 ミロスラフが帰ってくれば、ミリアムやユスティーナが己の心を取り戻し、元に戻るのかもしれないと一縷の望みをかけたからだ。


 だがその希望は潰えたも同然だった。

 戦争は確かに終わった。

 しかし、ミロスラフの行方が知れない。

 ミロスラフだけではなかった。

 第二騎士団が忽然とその姿を消してしまった。

 はっきりとしてるのはグスタフ・コラーが死んだという事実だけである。


「奴らが動くかもしれんな」


 ビカンは深い緑色の瞳を宿した目を細め、そう言うのをアマーリエはどこか、他人事ひとごとのように聞いていた。

 自分が思っていた以上に父親のことに衝撃を受けたからだった。


 父親の顔もよく思い出せなかった。

 どんな声だったかも覚えてない。

 覚えていて、思い出せるのはたった一つの出来事だった。

 彼の大きな手が温かった。

 それだけだった。

 しかし、確かに悲しいと感じていた。

 そんな己をアマーリエは不思議に思っていた。


 エヴェリーナは自分よりもずっと悲しみが深いのだろうか。

 今にも泪が零れ落ちそうな彼女の澄んだ青い瞳を見たアマーリエは我知らず思わず、泣きそうになった己に戸惑っていた。


 アマーリエは関りが薄かった自分でさえ、こんなにも悲しい気持ちになるのだと気付いた。

 父母の代わりを務めようとしたユスティーナはもっと大きな衝撃を受けている。

 その悲しみの深さはどれほどのものか。

 姉の気持ちをようやく理解したアマーリエは少しだけ、大人になった。

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