5.クリスタ嬢との夜
この国では男女に関係なく長子が家を継ぐことが決まっていた。
母は私を産んだ後に子どもができにくい体になっていたので、弟が生まれることはあまり考えられないのだが、弟が生まれても私は変わらずに公爵家の跡継ぎである。
クリスタ嬢の場合も同じだ。クリスタ嬢の場合は後妻が平民なので、子爵家の出身であるクリスタ嬢の母親の方が身分が上であるし、クリスタ嬢に弟が生まれてもクリスタ嬢がノメンゼン子爵家の跡継ぎであることには変わりない。
それが分かっていないからノメンゼン子爵夫人はクリスタ嬢を子爵家から追い出して自分の娘が跡継ぎになれるとでも勘違いしているのだろう。
クリスタ嬢の部屋は大急ぎで準備されていたが、その日は私の部屋に泊まることになった。もじもじとしているクリスタ嬢に、マルレーンが優しく語り掛ける。
「エリザベートお嬢様のベッドのシーツを防水のものに取り換えましたから、夜も安心ですよ。一応、吸水性のいい下着をはいて寝ましょうね」
「ちっち、でたら、ぱちん?」
「お手洗いに行きたくなったらいつでも呼んでください。漏らしてしまっても、すぐに呼んでくだされば、シーツを取り換えてお着替えをして差し上げますよ」
私の乳母ともいえる生まれたときからお世話になっているマルレーンはとても頼りになる。叩かないで濡れたものの処理をしてくれると聞いて、クリスタ嬢は安心していたようだ。
パジャマに着替えるとクリスタ嬢がパジャマの袖に頬を擦り付けている。
「ふわふわ。いーにおい」
「いまはわたしのおゆずりですが、ちかいうちにクリスタじょうのふくやパジャマもつくってもらえますよ」
「わたちのふく!? ぱだま!?」
「もうこわいひとはいませんからね。わたしといっぱいおはなししましょうね。まいにちいっしょにすごすのですよ」
「おねえたまといっと! うれちい!」
飛び付いてくるクリスタ嬢を抱き締めながら私は心の中でノメンゼン子爵夫人に呪いの言葉を吐いていた。
クリスタ嬢には関わらないはずだったのに、ノメンゼン子爵夫人のせいで関わることになってしまった。将来クリスタ嬢が皇太子妃になって私を追放する日が来ても、私はクリスタ嬢を憎めないではないか!
「おねえたま、わたち、ねむい」
「いっしょにねましょうね」
大きな欠伸をしているクリスタ嬢をベッドに招くと、布団に埋もれてお目目をキラキラさせている。
「ふかふか! いーにおい!」
「マルレーンがおひさまにほしてくれていますからね。さぁ、ねましょう」
「おねえたま、あかり、けたないで……」
「あかりがきえるのがこわいのですか?」
私の部屋の灯りを消してマルレーンが部屋から出て行ったのに、震えながらクリスタ嬢が私に縋り付いてくる。抱き締めて髪を撫でていると、眠そうにしているが、怖さが勝って眠れないでいるようだ。
ベッドサイドの灯りを点けるとクリスタ嬢はほっと息を吐いて布団に潜った。
「あしたは、おてんきだったら、おにわをさんぽしましょう。わたし、じがよめるのですよ。えほんもよんであげましょうね」
「あちた、おにわ……えほん……」
嬉しそうに呟きながら眠りに落ちて行くクリスタ嬢の隣りで、私も目を閉じた。
私の部屋のベッドは私が大きくなっても使えるように大人用のものになっている。そこに六歳の私と四歳のクリスタ嬢が一緒に眠るのだから、広々と使える。
シーツは私がお漏らしをしていた頃の防水のものに変えられているし、クリスタ嬢は多少はお漏らしをしても吸水する下着をはかされていた。
眠りに落ちた私はまた前世の夢を見た。
前世で私はいわゆるブラック企業と言われる会社に勤めていて、休みもなく、就業規則も守られず、ズタボロになっていた。
台風の日に出勤しろと言われて、ブラック企業に染まっていた私は逆らえずに、駅に行った。
電車の止まった駅では復旧する見込みがないとアナウンスが流れている。
仕方なく私は歩いて会社に行くことにした。
大型の台風で雨が大量に降っていて、膝くらいまで水に埋まっていた。
風に吹かれて傘の骨は折れて使い物にならない。
突風に吹かれてバランスを崩した私は、大量の雨水に流された。
それから記憶がない。
気が付けばこの世界に生まれ変わっていて、エクムント様に抱っこされて庭を散歩していた。
エクムント様はまだ喋ることもほとんどできない私に話しかけて、何度も私を可愛いと言ってくれた。
「エリザベート様はとてもお可愛い。お花が大好きなのですね」
「うー! あー!」
「あ、帽子を脱いではいけませんよ。白い肌が焼けてしまいます」
エクムント様はお母上が辺境伯領の出身なので、褐色の肌をしていた。私は自分とは違うエクムント様の肌の色も、金の目の色も黒い髪の色も、大好きだった。
「えーたま、えーたま」
「はい、なんでしょう、エリザベート様」
「だこちて!」
少し喋れるようになっても私はエクムント様のところによちよちと歩み寄って何度も抱っこしてもらった。
「エリザベートは本当にエクムント殿がお好きだな」
「エリザベートは一人っ子ですから、兄のように思っているのかもしれませんね」
両親も私とエクムント様の様子を微笑ましく見守っていてくれた。
私がエクムント様のことが大好きで、エクムント様に懐いていたから、両親はエクムント様を我が家の騎士にすることに決めたのかもしれない。
前世でのつらい記憶から今世の幸せな記憶に切り替わって、私は気持ちの切り替えが上手くできないでいた。
「うぇぇぇ! いやぁぁぁ!」
泣き声で目を覚ますとクリスタ嬢が私に縋り付いて泣いている。
起きてクリスタ嬢を抱き締めて、私は静かに問いかけた。
「どうしたのですか?」
「おばたん、わたち、ぱちん! ママ、ちんだの、わたちをうんだからって」
何ということを言っているのだろう。
命を懸けて母の妹の叔母がクリスタ嬢を産んだのに、クリスタ嬢の母君が死んだのはクリスタ嬢のせいだと責めていたなんて。
「わたち、わりゅい! おへや、でちゃ、め!」
「クリスタじょうはなにもわるくありません」
「わたち、わりゅくない?」
「わたしのおかあさまは、わたしをうむときにくるしんで、いのちをおとしかけました。そのせいでこどもができにくくなったのです。でも、おかあさまは、わたしがけんこうでげんきにそだっていることをよろこんでくれています。クリスタじょうのおははうえも、クリスタじょうをうんでしんだことでクリスタじょうをせめたりしないとおもいます」
必死に私が説明をすると、涙を流しているクリスタ嬢が洟を啜る。ベッドサイドのテーブルからティッシュを取ってクリスタ嬢の涙と洟を拭いてあげた。
「こわいゆめをみたのですね」
「おばたん、こあかった」
「おてあらいはへいきですか? いっておきませんか?」
「おねえたま、ちゅいてきて」
起きて泣いていたので漏らしてしまっているかと心配したのだが、クリスタ嬢は漏らしたりしていなかった。手を引いてお手洗いに連れて行くと、自分でちゃんと用が足せる。
「おねえたま、じぇったー!」
「じょうずにできましたね。えらかったです」
「おちまい」
「え!? ふかないのですか!?」
「ふく?」
お手洗いに行ってもクリスタ嬢は拭くということを知らないようだった。マルレーンを呼んで私はお願いする。
「クリスタじょうにおてあらいのあとのふきかたをおしえてあげて」
「分かりました、エリザベートお嬢様。ここにある紙を取ってこれくらいの長さ切って、拭くのですよ」
切った紙をくるくると重ねてクリスタ嬢に渡したマルレーンが、クリスタ嬢の手に手を添えて拭き方を教えている。
お手洗いの練習ができていないだけでなく、クリスタ嬢はお手洗いの後に拭くのだということも知らなかった。
「拭いた後には手を洗うのです」
「てって、ちゃぷちゃぷ」
石鹸をつけてクリスタ嬢が手を洗うのに、私もついでに手を洗って、マルレーンにお礼を言って部屋に戻った。
部屋でベッドに入ると、クリスタ嬢が私の手を握ってくる。
小さな暖かい手を握って、私も再び目を閉じた。
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