いけすかないお隣さんが、将来のお嫁さんだった件。

こう。

第一話・いけすかないお隣さんが、将来のお嫁さんだった件。

俺の名前は、石城ハヤト。

どこにでもいるような、普通の高校生だ。

他人と比べて、別段優れているところはないし、誰かに誇れるほどの趣味もない。

アニメや漫画が好きだけれど、嗜む程度。

熱く語れるほどの情熱もない。

勉強もスポーツもほどほど。

普通過ぎて、普通に何もない人間である。

俺は、今年の春から高校一年生になり、一人暮らしをしていた。

高校生になると、高校デビューで髪を染めるやつもいたが、俺はそんなことをする度胸もないし、イケメン集団に混じってウェイウェイして楽しく過ごすことも出来ない。

……両親に勧められ、いい高校を受験しただけで、学校に対してのモチベーションは高くない。

まあ、そんな俺の高校生活をずっと応援してくれた両親は、俺の晴れ着姿を拝むことなく他界した。

不慮の事故。

よくある交通事故だ。

そのせいで、帰る家は家族が居た真新しい一軒家から、学校近くのボロアパートである。

築数十年ではあるが、一人で暮らすには狭くないし、圧倒的に家賃が安い。

家族と一緒に住んでいた家を失い、つらいことばかりだったが、それはそれでいい。

家族を思い出してしまう広い家に居るよりはマシだった。

一人で生きるのは大変だが、俺の両親が最後に残してくれたもので、なんとか生きていける。

俺の両親のおかげで、人並みの生活が出来るわけだ。

お金は大切に使わないといけない。

今の生活になってからは、遊んだりはしていない。

俺の心の中の母さんが、無駄遣いするなと怒るのだ。


コンビニで買ったお弁当片手に、アパートの階段を上ると、お隣さんがいた。

彼女は、鍵を開けて部屋に入るところだった。

「……」

その人は、とても奇麗だった。

長い黒髪が似合う高校生。

だというのに、まるでその佇まいはお姫様のようであった。

大和撫子。

日本人だから分かる美しさだった。

それは、ボロアパートとは相反する美しさである。

いや、逆にこんな場所でさえ、彼女の美しさが少しも失われないことを賞すべきか。

彼女は、俺と同じ制服を着ていることから、同じ学校らしい。

制服は新調したばかりで真新しく、一年生だということが分かる。

俺と同年齢ってだけで、なんだか親近感を覚える。

しかしまあ、可愛い女の子とはいえ、赤の他人が長々と語るのは気持ち悪いな。

これくらいにしておこう。

「……」

「……」

無言でいるのも気まずい。

そうだ、挨拶くらいはしないと。

「えっと、こんばんは」

俺が挨拶すると、彼女は何も言わず、軽く会釈をするだけで家に入っていく。

ドアが閉じる音。

それを眺めるだけの俺だった。

反応が薄い。

嫌われたのかな。

しかし、挨拶したら挨拶くらい返してくれてもいいと思うのだが。

親の教育がなってないものだ。

そう思いつつも、怒りはしなかった。

まあ、俺も同じだからね。

人よりも優秀ではなく、性格がいい訳ではないし、マナーが出来ているわけでもない。

他人を叱れる立場でもない。

忘れず挨拶をするくらいしか出来ない人間だ。

美人と比べるまでもない。


しかも、高校生なのにバイトもせずに、晩御飯用のコンビニのお弁当を持っている。

どう考えてもやばいやつだ。

自堕落のかたまりだ。

そんな光景を見たら、亡くなった両親も悲しむだろう。

母親に張っ倒される。


それに、お隣さんとはいえ、他人は他人だ。

何でもかんでも仲良くしようとしていたら、生きにくいものだ。

最近の社会ではお隣さんであっても、あまり仲良くしないらしいし、隣人問題も多いから、女の子としては関わりたくはないのだろう。

変に絡んでストーカーになったら災難だからな。

そう考えたら、彼女の行動は最もである。

少し優しくしたら、言い寄ってくる男は多いだろう。


あんな美人とは、俺の人生においてこれ以上絡むこともない。

忘れよう。

住む世界が違い過ぎる。

お隣さんであろうと、全く接点がない関係だ。

普通の普通と、美人の美人だからな。

俺は、軽く溜息を吐き、鍵を開けて自分の部屋に入るのだった。



次の日。

俺は教室に入ると、クラスメートに話し掛けられる。

名前はまあ、すぐには思い出せないから、語るのはやめておこう。

クラスメートは、馴れ馴れしく俺に聞いてきた。

「石城、お前も一年生のミスコンに参加してくれ」

「……なにそれ?」

説明を受ける。

今、男子だけで、一番可愛い女の子を決めるためのイベントをやっているらしい。

秘密裏でやっているのだが、大多数の男子は参加している。

見ず知らずの人間が直ぐに仲良くなるのは難しいし、共通の話題で盛り上がろう。

男子たるもの、女の子はみんな好きだからな。

理解した。

だがまあ、世間体としては最低過ぎるイベントだ。

この学校は、生徒の行動にはあまり口出しをしないらしいが、これはキレていいのではないか。

そもそも、令和の時代にミスコンとか女性軽視もいいところだ。

いや、聞いたら、女子も同じことをしているらしい。

この高校のやつは馬鹿かな?

一応、この学校は偏差値高いよな。


「というわけで、石城も人気投票に一票入れてくれ」

「あ~、すまない。俺は、クラスメートですら、顔と名前が一致していないんだけど……」

「大丈夫、一番可愛いと思った女子に入れればいいからさ」

顔で選べばいいのね。

顔以外を度外視したミスコン。

しかし、それは男子が悪いわけではない。

純粋な可愛さで選んでいるだけ、まだマシだ。

女子なんて、顔と実力と社会性、今後の将来性から男を見ていた。

幅広く好きな女の子に投票された男子とは相反し、女子が投票した男子は数名だけ。

イケメン以外は価値がない。

まあ、そうだよな。

世知辛い世の中である。


俺は女子との繋がりはないから、無難に票数が多い女子に入れておこう。

名前しか書いてないから顔は分からんが、ぶっちぎりの女子に渡されたシールを貼っておく。

氷室姫乃。

「結局、お姫様かよ。石城もミーハーだな」

名前しか情報ないし、顔しらんけど。

この場のノリに合わせておく。

優しい男子くんは、彼女の素晴らしさを教えてくれる。

氷室姫乃。

HH。

一年生の首席であり、文武両道。

お姫様と呼ばれるほどの美しさに、完璧なルックスと、人当たりの良さ。

オタクに優しい優等生。

今時の女子では珍しいくらいの大和撫子であり、世界一可愛い女の子だ。

彼女は、読者モデルになれるほどの美貌を持つ。

……世界一可愛い読者モデル。

はて、聞いたことがあるワードである。

本屋さんで見かけたワードだったか。

それくらいに男子が称賛しており、氷室さんはモデル顔負けの綺麗な人らしく、男子からの人気は高い。

ファンクラブもあるらしい。

「石城、一応氷室さんは、クラスメートだよ?」

「ああ、そうなのか? すまない、女子に興味ないから気付かなかった」

「え?」

何か、引かれていた。

勘違いするな。

だからって、男子が好きってわけではない。

単純にそういう人間関係に疲れているだけだ。

別に、クラスメートの誰が可愛いとか、付き合いたいとか思って生きていない。

人間関係はほどほどに。

男子とはたまに漫画の話をするし、人との繋がりはそれだけで満足している。

あと、断じてぼっちではない。

「お姫様推しだと、メチャクチャ競争率高いぞ。男子の大半は氷室さんが好きだからな」

氷の姫君。

皆に優しいけれど、その実は氷のように冷たい。

高嶺の華とは、届かぬ故に美しい。

特に氷の華となれば、触れれば溶けてしまうもの。

彼女くらい美人だと、毎日のように告白されているようだ。

生徒会の人間や、運動部の部長。

その誰もが、かなり優秀な人達である。

上の人間は、上の人間に好かれる。

へぇ、美人も大変だな。

俺みたいに女子に相手にされず、全くモテないのは嫌だが、モテ過ぎるとだるい。

……あ、なるほど。

先日、家の前で氷室さんにスルーされたのは、こいつらと同族だと思われていたからか?

美人だから声を掛けるようなクズと俺が同じだって……。

うん。同じだな。

学校で告白されまくり、疲れて帰ってきたら、家の前にクラスのやつがいるとか、普通に考えてクレイジーである。

やばい。

俺の立場がやばい。

この事実が女子達にバレたら、ストーカーとして、教卓の前でさらし首にされる。

「なあ、氷室さんって口軽いタイプか?」

「え? 何かしたの?」

「いや、誤解されそうなことがあって……。ああ、別にお前に話すことじゃないか」

冷静になる。

多分だが、目の前のこいつは誰よりも口が軽いだろう。

軽石よりも軽い頭をしている。

学校に来ているのに、脳みそが詰まってなさそうだ。

さっきからずっと、勉強の話をしていないからな。

他の人に意見を聞きたいところではあるが、変に話して誤解を生むくらいならば、自分一人で解決しよう。

そうである。

お隣さんなら、氷室さんには堂々と合って話せばいい。

お隣さんだからな。

これからもクラスメートとして付き合いがあるとなると、このままではきついし。

それでまたストーカー扱いされても、それ以降は二度と会話しなきゃいいだけだ。

よし、学校が終わったら待ち伏せしよう。

数分だけ話せば、全てが終わる。


それ自体がストーカーの発想だと、俺は知らなかった。



俺は、放課後になったと同時に、早めに家に帰り、氷室さんが帰って来るのを玄関で待つことにした。

相手はお姫様だ。

一年生の春先とはいえ、高い運動神経や頭脳により、部活の勧誘が凄いようであった。

部活のレクリエーション前に、勧誘を受けて話し掛けられていたのが氷室さんだけなあたり、本人の凄さが伺える。

まあ、本人は他人に頼られ、喜んでいるのかは不明だが。

それから暫くして、階段を上って氷室さんが帰って来る。

当然、氷室さんには身構えられる。

実際にストーカーだしな。

「すまない。ちょっとだけ話を聞いてほしい。俺は、同じクラスの石城ハヤトだ」

ちゃんと自己紹介をして、事の経緯を説明する。

上手く説明が出来た気はしなかったが、氷室さんは俺よりも頭がいい人なのでそこは問題なかった。

拙い説明でも理解してくれた。

「そうなの。状況は理解したわ。でも、私に会わずに、手紙でもポストに入れてくれたら良かったんじゃないのかしら?」

「……え?」

そうか。

変に会ってしまいストーカーっぽく見えて問題になったなら、紙に残せばそれでよかったのか。

いやでも、風で飛んでいってしまう心配もあるし、ポストに入れっぱなしで氷室さんが気付かないパターンもあるし。

数週間後に気付いて、困る気もしたし。

「はあ、そういう人なのね。まあいいわ。お隣さんなら、それはそれでいいから、今後はあまり干渉しないようにしましょ」

塩対応である。

俺、悪いことしたのか?

取り付く島もない。

学校では見せていないが、本来の彼女はいい性格をしているらしい。

氷室さんは、最後に一言残す。

「高校デビューで一人暮らしするのはいいけど。社会のマナーくらい、今からでもご両親から教えてもらった方がいいわよ」

ああ、そうか。

なんで微妙に、俺達の空気感が合わないのか分かった気がした。

彼女は多分、こちら側ではないのだ。

「……俺の両親は死んでいる」

ーーーーーー

ーーーー

ーー

「えっ……」

氷室さんの表情が強張る。

「いや、すまない。俺が悪かった。今の言葉は無視してくれ。……今後は気を付けるよ」

俺は、自分の言った言葉に後悔をした。

何故、苛立ってしまったのだろうか。

別に氷室さんが悪いわけではない。

普通に幸せな人が、普通の言葉を使っただけだ。

普通の人なら、両親がいることが普通だからな。

彼女だって、俺の両親が事故死していると知っていたら、そんなことは言わなかっただろう。

彼女の表情から、彼女が善人なのは分かる。

だから、自分の身の内を学校の奴らに言っていなかった自分が悪い。

腫れ物扱いされたくないからと、そうしたのは自分だ。

自分で選んだことに文句を言うのは違うだろう。

氷室さんは、初対面の会話で、たまたま地雷を踏み抜いただけだ。

氷室さんみたいな人が、底辺の人間に気を配る必要はない。

「ごめんなさい……」

そんなつもりじゃなかった。

そう言いたいのだが、気が動転していたのか言葉に詰まっていた。

「いや、いいよ。そっちにも色々事情がありそうだし、人間ってそういうものだしな」

家賃数万円のボロアパートで、一人暮らししているのは、彼女も同じである。

普通だったら、高校に通わせる為とはいえ、こんな場所に可愛い一人娘を置いておかない。

何かしらの理由があるのか。

不意に、俺達は顔を合わせた。

嗚呼、そうか。

今さっきまで気にしていなかったが、彼女もまた、大切な人を亡くしているのだろう。

俺の言葉を聞き、目の色が急激に変わった。

瞳は定まらず、過剰な反応をしていた。

少し突けば壊れるほどに。

人の心とは、元より脆いものだ。

人は、悲しみを永遠に忘れることは出来ない。

辛い過去とは、どれほど昔の出来事だろうと、些細なきっかけで思い出す。

目の前で起きたかのように鮮明な映像として再現されてしまう。

そんな人を罵るほど、俺はまだ、人間をやめていない。

投げ掛けられた言葉はつらかったが。

今の姿を見た後だと、彼女のことを嫌いになれなかった。

「んじゃ、俺が言いたいことは全て言ったつもりだ。また明日学校でな」

「石城くん……」

氷室さんは俺のことを止めようとしてくれた。

だけど、俺は気付かないフリをして扉を開けた。

閉まる扉の音は、いつもより大きかった気がした。

まだまだ、俺はガキである。



それから一週間くらい経っただろうか。

あれ以来、氷室さんとの関わりはなかった。

別に二人とも学校には普通に行っていたし、あの一件のせいで気持ちが沈むこともない。

というのか、ある程度気持ちの整理が付いていなかったら、高校に通いながら一人暮らしなんてしていないだろう。

俺は単純だから、飯を食べて爆睡したら大体のことは忘れてしまう。

しかし、単純じゃない人間は食べて寝るという、人間としての簡単な解決方法が存在しないから、精神にダメージを受けやすいものだ。


なんで、当事者の俺よりも氷室さんが気落ちしているのかは不明だが、お昼ご飯まで辛そうにしていたら気になるものだ。

クラスメートは、氷室さんのことを気を遣ってくれていたが、美人が気落ちしているから優しくしているだけであり、心の底から心配しているようではない。

悲しいものだ。

周りに人がいても、彼女は楽しくない。

氷室さんって案外、自分のことを語らないだけで、感性は普通なんだろう。

美人で成績優秀だが、なまじ普通だから、疎外感を覚える。

というのか、今の学校に楽しいを求めるのが間違いである。

クラスメート三十人が仲良く過ごせる場合もあるが、カースト上位が聖人じゃない限りは無理である。

俺はまあ、普通の人間だから、クラスで浮くことはないけれど、学校に来たくないやつもいるだろう。

人間関係で悩まないといけないとか、世知辛い世の中である。

誰が可愛いとか、誰が優れているとかを気にするのが人間だが、度が過ぎれば怖いものだ。

自分の人生なのに、他人の為に生きている気がしてくる。

それなのに、他人は自分のことを一切気にしていない。

なまじ、才能や顔がいいばかりに、その対象になりやすいのが氷室さんだった。

可哀想である。

……お姫様ね。

氷室さんはそう称されているが。

囚われているって意味では、そうなのかも知れない。

まあ、彼女の本心に気付いていたとしても、俺みたいな人間じゃお姫様を守る騎士様にはなれないけどね。

普通レベルは、普通レベルで馴れ合っていればいい。

お姫様とは不相応ってやつだ。



放課後になり、スーパーと本屋に寄ってから帰宅すると、玄関前に氷室さんがいた。

逆パターンかよ。

思わずツッコミたくなってしまったが、空気を読んで言わないようにする。

彼女と目が合うが、その瞳の奥にある真意は分からない。

馬鹿だから、女性の考えていることを理解出来ない。

この状況をどうすればいいか分からず、頭が痛いが話を進めるしかない。

「氷室さん、どうしたんですか?」

「この前はごめんなさい。それだけ言いたくて待っていたの」

「……別にいいよ。それくらいで傷付いたりしませんから」

俺が平然とした態度でそういうと、氷室さんは声を荒げる。

「そんなことない! 大切な人を失って傷付かない人なんていないもの……」

彼女は泣き出す。

大粒の涙を溢しながら、両手で必死に抑えようとする。

しかし、それは零れ落ちていく。

何なんだろうな。

どうして、俺に共感するのか。

自分の過去を思い出し、悲しい思いをしてまで、他人に関与する必要があるのか。

俺は、制服からハンカチを取り出して手渡す。

「これを使ってくれ」

「ありがとう……」

彼女が落ち着くまで待つ。

……何だか分からないが、母さんみたいな人である。

別に他人の為に、自分の大切な感情を流す必要なんてないのに。

本当に訳が分からない人だ。

あれから、かなりの月日が経ったはずなのに、懐かしい。

母さんの言葉を思い出す。

他者を思いやれるのは、人間だけが持つ美徳である。

ママみたいな、いい女性を好きになりなさい。

……あの人、遺言がそれでいいのか。

まあ、それでいいんだろうな。

氷室さんのことは多くは知らないが、知らないが故に知っていることもある。

多分、普通に彼女と出逢っていたら、心だけは絶対に分からなかったのだろう。

どこにでもいるような美人として、彼女を見ていたはずだ。

俺達は似ている。

だから、嫌になってしまい、互いに大きく拒絶を示すのかも知れない。

興味がない人間に、人は感情を揺らすことはない。

氷室姫乃がどういうタイプかは分からないが、馬鹿ではないはずだ。

いや、馬鹿なのか。

他人の手を握れるのは、母にそう教えられ育てられた者だけだ。

無償の愛とは、そういうものだ。

「……そうだな、仕方ない。これも何かの縁か、腹を割って話すか」

氷室さんが、俺の身の上話が好きかは分からなかったが、話すことにした。

下らない人間の過去だが、彼女は黙って聞いてくれた。

入学前に、両親が死んだこと。

死別した後は、親族にも頼れず、両親が残した遺産の一部が奪われたこと。

事故により、数千万円の保険金は手に入ったが、そんなもの。使う気も起きずに、ほとんど手付かずであるということを彼女に話した。

「そうなのね……」

「ああ」

大変だったこともあり、俺の心の中では、一区切りが着いていた。

とはいえ、誰かにこうやって話すのは初めてだった。

他の人が思うほど、家族を亡くしてつらいとか、寂しいとかはなかったと思う。

それでも、思い出してしまう日だってあった。

彼女は、俺のことを否定しなかった。

いけすかないお隣さんだと思っていたが、違うらしい。

ひとしきり話を聞き終え。

氷室さんは、玄関前の二階の手すりに寄り掛かる。

「私、ずっと前にお母さんが死んじゃったの。……幼稚園の時だから、今では気持ちの整理はついているし、お母さんのことはちゃんと見送ってお別れしたから、石城くんと比べたらかなり幸せだとは思う。この世界には、私よりもっと不幸な人だっていることも理解しているわ」

彼女は、続けて言う。

「それでも、私はお母さんを愛していて、もっと一緒に居たかった。高校生になった私を見て欲しかったし、一緒に色々な場所に行きたかった」


ずっと一緒にいたい。

幼き日のように、抱き締められていたかった。

ママのところに行きたかった。

人の命の向かう場所など、子供には分からない。

死んでも尚、お母さんに会いたいと、幼き彼女は泣きじゃくっていた。

子が母を求める。

それは自然なことだ。

それが叶わぬ願いで、最愛の人に会えなくなっても、我々は生きていかなければならない。

私を忘れて生きてほしい。

ママを愛しているなら、そうしなさい。

それほどつらいものはないだろう。

……氷室さんは、自分のことを話してくれた。

その後、父は再婚して、妹も産まれた。

お姉ちゃんになった。

新しい母は、私と妹を同じように愛してくれた。

血よりも濃い愛をくれたのだ。

妹だって、今は小学生だが、私のことを姉としてずっと慕ってくれている。

彼女は、今が幸せだと語るが、その幸せが煩わしく感じることがあった。

「石城くん、私の学校での呼ばれ方を知っている?」

「お姫様だな」

「……勝手に持ち上げられて、もてはやされているけれど、本来の私はそんな人間じゃないの。いつも他人の顔色を伺い、生きているだけの薄っぺらい人間。完璧に見える生き方だって、幼い頃のお母さんを真似ているだけ」

お母さんを忘れたくない。

お母さんみたいな立派な女性になりたい。

綺麗な黒髪。

美しい立ち振る舞いに、話し方。

それが、今のママに対する不義理だと知っていても。

捨てることは出来ない。

彼女は、自分のやり方が間違っているのではないか。

こうして、一人暮らしをしてまで、自分の道理を通す必要があるのか。

両親に愛されていて、煩わしく思える私はおかしくて、生きているのかさえ分からない。

心をあの頃に置いてきているのかも知れない。

彼女は、つらそうにそう話す。

「自分を卑下するなよ。愛していた人を想っていての行動ならば、それは何よりも美しいことだ」

そう。

彼女は、美しかった。

学校で知る完璧な彼女よりも、家族を想い涙する今の彼女の方が美しい。

人の持つ感情とは、ここまで偉大なのかとさえ思っていた。

彼女は、母から愛を受け生きている。

彼女表情からは、お母さんの面影が見えた。

俺は、続けて言う。

「自分の気持ちを大切にしろ。そんなにも愛されているならば、その誇りを胸に懐き、信念を持って生きるべきだ。自分の気持ちに素直に生きろ。誰にも文句を言わせるな」

なにも悩む必要などない。

俺は、彼女の全てを知っていたわけではなかったが、それでも彼女は正しく生きていたはずだ。

人として正しくなければ、他人の為に悲しみ、涙を流すことは出来ない。

彼女のその善性は、家族の愛があってのものだろう。

亡き母からは、不滅の愛を。

今の母からは、血を越えた愛を貰っている。

二人の母がいるから、氷室さんは真っ直ぐに育ち、こうも綺麗なのだろう。

俺には分かる。

氷室さんは多分、俺とは違って愛される人間だから。

過去に悲しい出来事はあれど、それでも彼女は前を向いて、光輝く未来を生き、幸せに向かっていた。

氷室さんは、最愛の家族から身を置いて、自分の気持ちに折り合いを付けたかったから、一人暮らしをしていたのだ。

だが、だからこそ。

氷室さんは、家族とじっくりと話すべきだろう。

自分の気持ちを整理して、ちゃんとした言葉でご両親に打ち明けるべきだ。

「なあ、氷室さん」

俺が呼び掛けると、彼女は顔を上げてこちらを見る。

「今からでも家族に会うべきだ。ちゃんと顔を合わせて、心の底から愛していると打ち明けるべきだと思う」

「私は、お母さんのことをママに言って、ママを悲しませたくないわ。だって、ママは誰よりも私のことを大切に思ってくれているんだもの」

「尚のこと、傍に行ってやれ。ここでグチグチして後悔するより、泣き付いた方が何倍もマシだ」

「また今度、機会があった時に……」


「そんなものはない」


「そんなものは来ないんだ」

彼女には未来があるが、俺にはない。

俺達は似ているが全然違う。

亡き母親からは同じ愛を貰っていたとしても、明確に違うのだった。

氷室さんは、悲しそうに言う。

「人は皆、幸せであるべきなのに、なんでそうじゃないんだろうね……」

「さあな。神様は俺達が嫌いなんだろうよ」

「石城くんって、神様とか信じているタイプなんだ。意外だね」

「……少し前までは信じていたさ」

数ヶ月前までは、だけどな。

「私と一緒だね」



それから、俺達はすぐさまに氷室さんの実家に行き、話をすべく家族に会いにいった。

俺は何故、それに付き合うことになったのか。

まあ、理由はないのだった。


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