003 歪んだ感情

 気が付くと、教室の中央に立っていた。

 机が規則正しく並ぶ教室の中は夕日で橙色になっており、人影はない。もう皆、下校してしまったのだろう。

 すぐに此処が自身が通う針姫高校二年九組の教室だと悟った氷太朗は、しかし、どれだけ考えても何故自分だけが教室に居るのかわからなかった。


「まぁ良いか。僕も帰ろう」


 氷太朗は窓際の自分の席に行き、傍に掛かっていたリュックサックを背負った。その時である、教卓の前に人の姿があることに気が付いた。姉、坂之上氷華だ。目の下にはひどい隈を創っており、頬はこけている。右腕からは、おびただしい量の血が垂れている。只事ではないのは明白だ。


「何見てるのよ」


 氷太朗の視線に気付いた氷華は、ギロッと睨み尽きると、ゆっくりとした歩調で此方に来た。そして、間合いに入ってすぐ――氷太朗の頬に拳を叩き込んだ。それも一発や二発ではない。何度も何度も。


「何その眼⁉ 私を憐れんでるの⁉」

「ち、違っ……」


 氷華の猛攻に否定もままならない氷太朗は、いよいよ耐えきれなくなり、その場に倒れ込んだ。それを見た氷華は、今度は蹴りを繰り出す。


「貴方如きが! この私を! 憐れむな!」

「………ッ!」


 氷太朗は身体を小さくしながら、歯を食い縛る。

 実姉からの理不尽で唐突な暴力は――実を言うとこれが初めてではない。

 これまで何度も何度も経験してきた。

 そして、これから何度も何度も経験するだろう。

 痛くて怖くて悔しいが――その一方で、氷太朗は仕方がないと思う。

 自分には姉を救う術がないのだから。

 悪夢は暫く続いた。



◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 頬を軽く叩かれた氷太朗はゆっくりと目を覚ました。それを見て、ナルは安堵する。


「やっと起きた……。アンタ、凄い魘されてたわよ?」

「え? ああ、うん……」


 脳がまだ起動シークエンスの途中である氷太朗は朧気なまま、ゆっくりと状態を起こした。そして、周囲を見渡す――


「銭湯の……脱衣所?」

「そうよ」

「男湯?」

「男湯」

「なんで?」

「なんでって……後巡祭の後、ここで飲み直したからよ。何? 覚えてないの?」

「あー……」


 なんとなく思い出してきた。

 昨酒月夜神社を後にしたナル・魅流・氷太朗御一行は予定通り、天戸温泉に戻った。天戸温泉とは町の外れにある旅館である。ナルと魅流はその一室で寝泊まりをしている。天戸温泉へ向かう道すがら協議した結果、氷太朗はナルの部屋に泊まる事が決定した。だが、いざ天戸温泉に到着した瞬間、ナルの『宴会センサー』が温泉の大浴場の男性用脱衣所で宴会が開かれていることを感知し、飛び込んだ。そして、そこに居た大勢の酔っ払いに紛れて呑んで呑んでのみまくった。当然、そのような状況でナルが自室に帰るわけもなく――いつまで経っても脱衣所に留まっていた。

 いつの間に眠ってしまっていたのだろうか。そして、一体何時まで宴会は続いていたのだろうか。周囲に酔いつぶれた酔っ払いが沢山転がっているので、相当遅い時間まで続いていたのは間違いないだろう。


「氷太朗、お腹空いてない? サ店でモーニング食べに行きましょう」


 残骸に目もくれずナルは言った。


「良いけど……僕、お金持ってないよ?」

「それは大丈夫。昨日、アンタで散々稼がせてもらったから」

「どういうこと?」

「アンタが大道芸を披露してたから、こっそり投げ銭を回収しておいたの。結構な額になったわよ」


 ニヒヒッとナルは笑う。抜け目のない奴である。

 奢るのは構わないが奢られるのが大嫌いな氷太朗は、そういう事なら、と立ち上がる。その際、自身の腰に刀が差してあることに気が付いた。短いので脇差だろう。自分のものではないのは考えるまでもない。


「誰のだろう、これ……?」

「ああ、それ。酒屋の小三郎が『今手持ち無いから』って、投げ銭代わりにくれたの。家宝らしいわよ。よかったわね」

「いやいやいや、良くないでしょ⁉ 家宝なんでしょ⁉」

「酔って手放す程度の家宝なんでしょ。ほら、さっさと行くわよ。お腹がグーペコよ」


 言ってナルは、床に転がる酔っ払いの成れの果て踏まぬように慎重に歩き始めた。氷太朗も、誰かの家宝を腰に差すなぞ畏れ多くて堪らなかったが、それ以上に、こんな所で置いてけぼりにされる方が堪らなかったので、彼女の後を追う。

 脱衣所を出た二人は長い長い廊下を歩き勝手口から外に出て、すぐ傍の駐輪所に向かった。駐輪所には数台の自転車と、真っピンクなアメリカンタイプのバイクがあった。氷太朗は「こんなバイクで町を駆け抜けたら凄く注目を浴びるだろうな」なんて思いながらバイクを眺めていると――ナルは吸い込まれるようにそのバイクに跨った。


「排気量一五〇〇ccのモンスターバイクよ。後ろに乗れることを光栄に思いなさい!」

「あ、うん。素敵なバイクだね。光栄極まりないけど……ヘルメットは?」

「ヘルメットなんて腰抜けしか被らないわ。ほら、さっさと乗りなさい。お腹空いたわ」


 ナルは後部座席をポンポンと叩き催促をする。氷太朗は「わかったよ」と言ってバイクに跨った。

 バイクは、スタータースイッチを押した瞬間にエンジンがかかった。厳かな排気音は腹の底を揺らす。ナルはご機嫌に三回エンジンを吹かすと、直後、クラッチを繋いで急発進する。

 常夜は、朝だが夜だった。見上げれば星空が広がっているし、街灯は眩く輝いているし、すれ違う自動車はどれもライトを点灯している。油断をすると、まだ夜なのかもしれないと思ってしまう。しかし、街をよく観察していると、朝の情景が転がっている――例えばランドセルを背負った小学生の列。例えば欠伸をしながら歩くスーツ姿の男性。例えばバスの前で並ぶ女学生。例えば暖簾を掲げるメシ屋のオヤジ。人々の行動は、しっかりと『朝』を示していた。どこでも見る光景だが、なんだか新鮮な光景――それらを観察していると、すぐに目的地に到着した。

 スナック『愛姫』――レンガ造りの建物に掲げられたネオンの看板を見て、氷太朗は「喫茶店って言ってなかった?」と思わず尋ねてしまった。


「看板はスナックだけど、中身は喫茶店よ」


 愛車のエンジンを切りながら、ナルは答える。

 彼女の言葉は正しかった。扉を開けると、コーヒーの香りが氷太朗を迎えてくれた。

 高校生の彼には馴染みが無い筈なのに何故かなんとなく『懐かしい』と思える喫茶店だった。テーブル席の椅子は赤いビロード張りで、机は素朴ながらも重厚なウォールナット材で統一されている。照明は必要最低限の出力で、一見すると薄暗いが、手元の文字を読むには十分な明るさだ。壁には名もなき名画が掛けられており――どこからどう見ても喫茶店となっている。

 ナルは慣れた様子で扉に一番近い席に座る。その正面に氷太朗も座った。

 間もなくして、すかさず店員がメニューとおしぼりを持ってきてくれた。


「いらっしゃい。おしぼりどうぞ」

「あ、ありがとうございます――って、アシさん⁉」


 おしぼりを受け取った拍子に顔を上げると、驚くべきことに、そこにはアシが立っていた。


「あら、珍しいお客さんだと思ったけど――氷太朗くんじゃない。昨日ぶりね。太三郎とは無事会えた?」

「はい、お陰様で太三郎さんに会う事が出来ました。肉体も探して貰える事に。本当にありがとうございました」

「いえいえ。私の名前で良ければ、いくらでも出して貰って結構よ」


 まるで旧知の仲のように話すアシと氷太朗。

 その姿に、ナルは「どういうこと?」と目を丸くした。


「姐さん、氷太朗と知り合いなの?」

「ええ。ちょっとしたご縁があってね――それよりも、何食べる?」

「どういうご縁よ。まぁ良いや。私はナポリタンのモーニング。氷太朗は?」

「えーっと……じゃあ、同じので」

「はい。少々お待ちを」


 言って、アシは踵を返した。その姿は麗しの女将そのもので、昨日の怒れる彼女は欠片すら感じなかった。

 アシはおしぼりで顔を拭いて、ぷはぁと息を吐く。氷太朗は、その姿を思わずじっと見つめてしまった。


「え? 何? 私の顔をじーっと見て。何かついてる?」

「いや、こっちでもおしぼりで顔を拭くんだ、と思って」

「ニヒヒッ。みんながみんなする訳じゃないよ。やるのはジジイとババアだけよ」

「それも現世と一緒だ――って、ナルはババアって歳じゃないでしょ?」

「六〇〇歳だからババアだよ」

「ろ、六〇〇ッ⁉ そんな歳なの⁉」

「うん。まぁ、鬼だからね。千年くらいは余裕で生きるわよ。氷太朗はいくつだっけ?」

「一七歳だよ。高校二年生だから」

「へぇ、若いわね――ちなみに、現世の一七歳は皆、あんな芸が出来るのの?」


 あんな芸とは、昨夜の大道芸の事を指しているのだろう。氷太朗は「ううん」と否定する。


「自分で言うのもアレだけど、僕が特別なだけだよ。僕は人間だけと大妖怪の血も流れてるから、ああいう事が出来るんだ」

「なるほど。そうよね、誰も彼もがあんなこと出来たら面白くないわよね」

「まぁね。ナルは『何でも屋』を営んでるんだっけ?」

「そ。依頼されたら何でもする何でも屋をやってるわ。依頼がなければ何もしない暇人だけど」

「今日はお仕事ないの?」

「ない。無いから暇人の日」


 ニヒヒ、とナルは恥ずかしそうに笑う。

 暫くして、アシの手により料理が運ばれてきた。ラディッシュのサラダと、コーンポタージュと、ケチャップが香るナポリタンと、ベーグルと、コーヒーだ。どれもどこか懐かしさを醸し出している。

 氷太朗はいつも、サラダから食べるようにしている。何かの本で、最初は野菜サラダを食べると体に良いと聞いて以来ずっと――今日も例に洩れず、サラダから食べようとした。だが、目の前に座っているナルが「いただきます」と言うや否やナポリタンを啜りだした。それも、口いっぱいに。その姿があまりにも美味しそうで――氷太朗も、ジンクスを破り、ナポリタンにかぶりついた。

 味が期待を裏切ることは無かった。


「美味しい! なにこれ、美味しい! 滅茶苦茶美味しい! 人生で一番美味しいナポリタンかも!」

「でしょ? アシ姐さんのナポリタンは天下一なのよ。常夜に来たら絶対に食べないと」

「ホント……超美味しいよ! 全人類に食べて欲しいくらい!」


 氷太朗は次から次へと口に放り込む。口元にケチャップが付いてもお構いなしに。

 アシは奥のカウンターでウインクをした。


「連れてきてくれてありがとう、ナル」

「どういたしまして。――話は変わるけど、肉体が見つかるまでどうするの?」

「うーん……どうしよう?」

「太三郎のジジイから、ドコで待機していろとか、アレをしていろとか言われなかったの?」

「うん。特に指示はなかったかな。お祭りでバタバタしってたしね。何も言われなかったから、自由にしてて良いのかなーと思ってたけど……ダメかな?」

「さぁ、わからん。わからんから、食べ終わったら訊きに行こっか」

「連れて行ってくれるの?」

「勿論。だってアンタ、北も南もわかないでしょ?」

「うん、ありがとう」

「太三郎のジジイに訊いて、自由にしてて良いってなら――今日はそのまま常夜観光と洒落込むわよ!」

「いやいや、悪いよ! そこまで甘えられないよ!」

「じゃあ依頼しなさない! 何でも屋の私に。俺に常夜案内をしろ、って」

「言えないよ! 第一、依頼するお金も持ってないし――」


 言ってから気が付いた。

 ナルは昨夜、氷太朗に払われるはずの投げ銭をこっそり徴収していた事を。

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