002 現世
誰かに髪を撫でられたような気がした。
とても優しく、慈しみ深く撫でられたような――そんな気がした。
でも、起き上がって周囲を確認してみたが、人の姿は認められなかった。誰が撫でてくれたのだろうか――そんな事を思っていると、ぼんやりとしていた頭がハッキリとしてきて、様々な事に気が付いた。
例えば、ここが自室ではない事――つい先程までごろんと横になっていたので、勝手に此処がアパートの自室だと思っていたが、どれだけ確認しても、ボロボロの枕も、シミの付いた壁も、今にも落ちてきそうな天井もない。あるのは尻の下の砂と、周囲を取り囲む闇と、頭上の満点の星空だけだ。
「どこだ、ここ……?」
自室とは似ても似つかない、まるで夜のグランドのような場所に立っていた氷太朗は、左手首を捩じり腕時計を確認する。が、そこに腕時計はない――よく見ると、無いのは腕時計だけではない。スマホや財布はおろか、Tシャツもズボンも何も無い。
まさに裸一貫。
「な、なんで⁉ どうして⁉」
氷太朗は混乱する脳の中を必死に探り、記憶を手繰る。
確か、電話で美夜とのスーパームーン観測の約束を取り付けた後、和歌に服を買いに行こうと提案された。ファッションというものに無頓着で、寧ろ「お金の無駄」とすら思っている氷太朗は断った。だが、和歌の「くたびれたTシャツを着てる姿を見たら百年の恋も冷めるぜ」という文句に負け、駅に併設されているショッピングモールに向かった。
ショッピングモールには四〇店舗くらい入っていた。氷太朗としてはいつも衣料品量販店で無難なTシャツを買って終いにしたかった――が、女の子とショッピングに出かけてスムーズに終わるわけがない。あれを見よう、これを見よう、と言う彼女の口車に乗せられ様々な服屋に入り、様々な服を試着した。けれども、結局はいつもの衣料品量販店に行きつき、結局は最も無難なTシャツを買った。
その後、景気付けにカラオケに入り、二時間しっかり歌った後、「予定がある」と言う和歌と別れで一人帰路についた。ついたのだが――
「……あれ?」
本来は家に帰り、シャワーを浴び、夕食を食べた後、心地よい夜風を浴びながら自転車を漕ぎ酒月邸に行き美夜と月を見る記憶が続かないけないはずなのに――どれだけ記憶を探っても、夕日に眩みながら針姫神社の隣を過ぎた後の記憶がない。
「まさか……僕、死んだ?」
氷太朗の脳裏に嫌な推測が過る――もしかしたら、帰り道で事故に遭い、死んでしまったのではないか。そして、この殺風景な死後の世界に送られたのではないか――そんな推測が。それならば何も持たず裸で居るのにも理由が付く。
「ま、まさか……」
心の中で靄が広がる。
まだ何も成していないのに死んでしまうなんて――
「い、いや……とりあえず歩いてみよう……」
嫌な推測で頭の中が埋め尽くされかけた氷太朗は、もっと情報を得るために周囲の探索を始めた――現世ならば歩いていればすぐに地の果てがあるはずだし、あの世ならば三途の川なり血の海なりがあるはずだ。無ければ、『無限』があるはずだ。いずれにせよ、歩いてみなければわからないし、歩いてみれば何かがわかる。そう思ったからだ。
光源がないので一寸先がわからないが、
兵太郎は慎重に歩みを進める。
と、すぐに崖に辿り着いた。そんなに高い崖ではない。高さは二メートルくらいだ。その先は竹林が広がっている。
このまま崖を降りて竹林を行くのも良いが――それは最終手段として取っておいて、取り敢えず崖の淵に沿ってを歩く事にした。
五分くらい歩いた頃である。下に向かって延びる階段を見つけた。落ち葉に覆われていて見落としてしまいそうになったが――間違いない。これは切り揃えられた石を並べて作った石階段だ。
竹林は自然に出来上がるものだが、石階段は自然に出来上がるものではない。高度な知能を持つ生き物が意図しないと完成しない。ということは――この世界には知的生命体がいるということだ。
「はは……」
自然に笑みが出た。真っ暗闇の中にほんの少し光明が見えたような気分になった。
ほんの少しだけ足取りが軽くなった氷太朗は、闇夜で踏み外さないように目を凝らしながらゆっくりと石階段を降りていく。
降りた先の光景は更に氷太朗を安堵させた――そこに広がっていたのは、どこにでもある田舎の光景だったからだ。足元にはアスファルトで舗装された道路が左右に延びており、その両脇には街灯が規則正しく建っている。道路を超えた先には古い日本家屋がいくつも見える。窓からは明かりが零れているので、人が棲んでいるのは明確だ。
氷太朗の瞳に光が戻る。ここは何処なのか判るのも時間の問題のように思えた。同時に、疑問も湧いた――死後の世界にアスファルトがあるのだろうか? 街灯があるのだろうか? 日本家屋があるのだろうか? ここはあの世ではなく、別の世界なのではなかろうか?
「まさか、妖怪の隠れ里に迷い込んだのか……?」
そのような発想が心の中で生まれた。
芥川龍之介の小説に『河童』というものがある。とある青年が登山の最中に河童を見つけ、追いかけたら河童の国に迷い込んだという物語だ。そのような『妖怪の国』、即ち『妖怪の隠れ里』は令和に入った現代でも日本各地に存在すると姉の氷華は言っていた。
何かの拍子にその妖怪の隠れ里に迷い込んでしまった可能性も零ではない。
「いや、結論を急ぎ過ぎだ」
情報が無いにも関わらずあれやこれやと推理するのは氷太朗の悪い癖である――気付いた氷太朗は全ての推理を振り払い、目の前の日本家屋を見据えた。取り敢えず、あの屋敷の住人にこの世界についての情報を聞き出そう。そう思った。
その瞬間――
「うわ、変質者だ」
背後から声をかけられた。
「――ッ⁉」
人の気配がないと思い込んでいた氷太朗は、驚きのあまり跳び上がった。しかし、それも一瞬の事である――すぐに自分が全裸である事を思い出し、股間を手で隠した。
その姿を見た声の主は眉を顰めた。「あれ? 見せびらかしたいから丸出しにしてるんじゃないの?」
「い、いや……! 違ッ……! これは……!」
「まさか……」
更に眉を顰めると、少女は考えた素振りを見せて、羽織っていた着物とその帯を氷太朗に渡した。「着な」と言って。
受け取った氷太朗は、「くれるんですか?」と尋ねた。
「うん、あげる。その様子じゃ、好きで全裸になったワケじゃなさそうだし」
「そ、そうなんですけど……本当に良いんですか?」
「良いの良いの。バーゲンで買った安物だから」
少女は太陽のように明るい満面の笑顔で答えた。とても愛嬌のある少女だ。キャミソールに甚兵衛という気取っていない恰好な上に、愛嬌のある丸顔なので、棘を一切感じられない。クラスに居るムードメーカーのような子だ。もっとも、全てが全て可愛らしいかと言えば、そうではない――ちらりと覗かせた犬歯は鋭く、額から生えている二本のツノは更に鋭い。
見知らぬ男に着物をくれるという事は悪い人ではないのだろうが――一体何者なのだろうか。
氷太朗は着物に袖を通しながらチラチラ見ていると、少女の方から種明かしをしてくれた。
「そんなに鬼が珍しいい?」
「お、鬼ッ⁉」
氷太朗は再び跳び上がった。
少女はその姿に「ニヒヒヒヒッ!」とまた笑った。
鬼の存在は兼ねてより知っていた。数多くの文献に記されているし、氷華からも何度も退治したというエピソードは聞いていたので、存在している事は知っていた。しかし、自分の眼で見たのは初めてである――鬼に限った話ではない。氷太朗は和歌と同じく、『才能』や『センス』が無かったので、今まで妖怪の気配や姿をその眼で捉えることが出来なかった。
だがここに来て、突然鬼を視ることが出来た。
これは一体どういう事か。
「ニヒヒヒッ! アンタ、鬼も居ない田舎から出て来たの?」
「ま、まぁ……そんな感じです……」
「全裸で?」
「いや……全裸で来たワケじゃないです……」
「じゃあ、なんで全裸だったの? 身包み引っぺがされたの?」
「ま、まぁ……そんな感じです」
「ふぅん。大変ね」
奇特な物を見るかのような眼の少女は、しかし、疑う様子はない。氷太朗の言葉を全て真実だと受け止めている様子だ。
きっと良い人なのだろう――そう直観した氷太朗は、はぐらかす事も、嘘を吐く事もやめ、素直に打ち明けようと思った。
「実は僕、別の世界の人間で、気づいたらそこで倒れてたんです。だから、この世界の事を全く知らないんです――教えてください。ここはどこなんですか?」
「ここは何処って言われても……『常夜』としか言いようが無いわね」
「常夜って……あの常夜ですか?」
「どの常夜かわからないけど、たぶんその常夜」
「なっ……」
少女の言葉に、氷太朗の表情が翳る。
常夜――最近は常世とも書かれる『永久に変わらない世界』。その世界は常に移り変わる現世とは対照的であり、故に人間と対照的な幽霊や神しか存在することが出来ない。基本的に人間は立ち這入ることが出来ないが、とあるイベントを経験すると入ることが出来る――死だ。死んで幽霊になると、この世界に這入ることが出来る。
常夜に居るということは、死を経験した何よりの証拠だ。
決定的な単語の出現に氷太朗は「ということは僕、やっぱり死んだんだ……」とくずおれた。薄々感じていた事とは言え、いざ面と向かうと衝撃的な物がある。
齢十七。まさかこんなに早く死ぬとは思っていなかった。しかも、まさか好きな人とのお月見をする日に――こんな事なら、思春期特有の小っ恥ずかしさに負けず、教室で美夜に話しかければよかった。こんな事なら、臆病風なぞ無視して食事や天体観測に誘っておけばよかった。こんな事なら……。こんな事なら……。こんな事なら……。
心の奥底から沸き上がる未練の数々に、氷太朗は涙が出そうになった。
それを見た少女は「そんなに悲しい事?」と首を傾げた。
「悲しいですよ……。だって、常夜でしょ……?」
「常夜よ? 良い所じゃない。ちょっと暗いけど、メシは美味しいし、人は気さくだし、音楽は沢山あるし。まさに天国じゃない」
「天国……なんですか?」
「いや、比喩表現よ。本当の天国はもっと違うかもしれないけど」
「こことは別に天国があるんですか……?」
「まぁ、あるでしょね。教会の尼は死んだら天国とか地獄があるってしょっちゅう言ってるし」
「ここから更に死ぬこともあるんですか……?」
「生きてる以上、死ぬこともあるわよ」
「……ちょっと待ってください?」
イマイチかみ合わない会話に、氷太朗は思わず顔を上げる。
「ここは死後の世界――常夜なんですよね?」
「違う違う。常に夜の世界だから『常夜』って言うの。あの世の『常夜』とはまったく別の世界よ」
「じゃあ、僕は死んだからここにいるわけじゃないんですか?」
氷太朗が問うと、少女は「あー……」と罰の悪そうな表情になった。全てを察したようだ。
「この世界は『常に夜』ってだけで、あの世の『常夜』とは基本的に別世界よ」
「別世界⁉」
「そ。妖怪と人間が生きる常に夜の世界」
「どうしてそんな所に僕が……?」
「神社の連中が言ってた話なんだけど、どうもあの世の方の『常夜』とココがよく似ているらしいの。まぁ、名前も一緒だしね――あまりにも性質が似すぎているせいで、霊になった奴が迷い込むことがよくあんだって。たぶん、それじゃない?」
「霊になった奴って……じゃあ僕やっぱり死んでるんじゃないですか!」
「いやいや、世の中死霊だけじゃないわよ。幽体離脱しただけの『生霊』だって立派な霊よ? そう言えば、確か八〇年前にここに迷い込んだ奴は、妖狐に肉体をパクられたせいで半ば強制的に幽体離脱させられて生霊になった挙句ここに迷い込んだって言ってたわね」
「狐に肉体をパクられる事なんてあるんですか⁉」
「アイツが嘘を言ってなかったら、あるんでしょうね」
そう言えば、昔読んだ中国の書物にも同じような事が書かれた――氷太朗は思い出す。
でも、もし、一つの魄に二つの魂が這入ってしまったら?
その時は、一対の原則に従い、どちらかの魂が魄を追い出される。
それが氷太朗の身体でも起こったとすると、全てに合点がいく――妖の類に肉体を奪われ、魄を追い出された氷太朗の魂がここに迷い込んだと仮定すると、今の状況にも納得がいく。
「そ、その人はどうやって元の世界――現世に戻れたんですか?」
「さぁ、知らない」
「えぇ⁉ じゃあその人、どうなったんですか⁉」
「確か、お総菜屋で働いてるって聞いたわ」
「なんで⁉」
「さぁね。お惣菜が好きなんじゃない? 知らないけど」
「いや、そっちじゃなくて――肉体は狐にパクられたままなんですか⁉」
「そうなんじゃない? 知らないし、知る由もないわ。パンピーが現世の情報を得られる機会なんてないもの」
「そんなぁ……」
迷い込んだなんて言うから、てっきり帰り方があるものだと思っていた。
帰れないなら、姉や友人や想い人に会えないなら、それはもう死んだも同然ではないか。
再び絶望の海に沈んでしまった氷太朗。そんな彼が気の毒で仕方がなかったのか、少女は慌てて「神社の連中なら帰る方法を知ってるかもしれないわよ?」と言った。
「神社?」
「そう。正確には『常夜維持管理行政事務所』って言うの。神社に拠点を置いてるからみんな神社って呼んでるんだけど――そこが、現世とやりとりをしているの。望み薄いけど、アイツらに訊いたら何とかしてくれるかも」
「望み薄いんですか?」
「薄いわね。物凄く薄情だから。実際、八〇年前に迷い込んだ奴は相談したけど放置されてたわ――でも、もしかしたら、何かの間違いで助けてくれるかも」
「それは……」
助けてくれなかった前例があるなら、神社とやらが助けてくれる望みは薄い。普段ならば「じゃあいいです」とすぐに諦めていただろう。だが、何かの間違いでも助けてくれる可能性が僅かにあるのなら――賭ける価値はあるだろう。少なくとも、ここで泣いているよりかは有意義だ。
「ありがとうございます……。ちょっと相談してみます」
「うん。それが良いわ。神社はこの道を西にずーっと進んだら辿り着くわ」
「わかりました」
「私も一緒に行けたらいいんだけど……ごめんね。今から阿呆共と酒盛りしなければならないの」
「そ、そうですか……」
阿呆共と酒盛りはそんな重要なイベントではないように聞こえるが――それを口に出来る程、氷太朗は不躾ではない。それどころか、沢山の情報と着物を与えてくれた事に感謝しなければない。
氷太朗は深々と頭を下げる。
「色々教えてくれてありがとうございます」
「そう畏まらないでよ。袖振り合うも多生の縁でしょ? そう言えば、名前をまだ訊いてなかったわね」
「坂之上氷太朗です」
「氷太朗ね――私は
ニヒヒと笑い鋭い犬歯を見せるナル。
氷太朗の表情が少しだけ明るくなった。
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