ハッピーエンド~この地では君は神様だった~

桒原 真弥

一章 ムーンウォッチ

001 夢の月

 小高い丘の上に竹林に囲まれた武家家屋がある。純白の漆喰で塗り固められた外壁には罅割れはおろか、一点の黒ずみすらない。中庭もとても綺麗で、雑草や苔の気配は一切感じられない――これ以上なく綺麗な武家屋敷である。綺麗すぎて、まるでミニチュア模型のようだ。

 坂之上氷太朗サカノウエヒョウタロウは竹林に囲まれたこの武家屋敷を知っている。

同級生の酒月美夜サカヅキミヨの実家だ。

美夜と交流の深かった氷太朗はよくこの酒月邸の正門前の石階段に腰かけて月や星を見ていたものだ。高校生となった今では、ご無沙汰となってしまったが。

 思い出すだけで懐かしい気持ちになる。

 同時に、疑問も湧く。どうしてその酒月邸の正面門から延びる大谷石の石階段の上に居るのか、と。つい先刻まで自宅のベッドの上で横になっていたというのに――どれだけ脳をフル回転させても、何故ここに立っているのかわからない。

 首を傾げていると、背後から「氷太朗くん」と声を掛けられた。振り返ると、そこには白いワンピースを着た小学生の女の子が立っていた。酒月美夜だ。それも、小学生の頃の。

 その瞬間、氷太朗は覚った――これは夢だ、と。


「なに? 美夜ちゃん」


 先までの疑問なぞすっかり消え去った氷太朗は問う。


「これ、お父さんから借りて来た」


 そう言って美夜が差し出したのは溶接の際に使用する保護面であった。「これを顔につけて見たら目は潰れないんだって」


「そうなんだ、凄いね!」


 氷太朗が保護面を受け取った直後、空が真っ暗になった。

 昼間なのに突然空が真っ暗になるなぞまず在り得ない事だ。普段ならば驚いているだろう。だが、氷太朗は少しも驚きはしなかった。それどころか、待ってましたと言わんばかりに天を仰ぎ、保護面を被った。すると、真っ暗になった空の中心に、月に覆いかぶされた太陽を見つけた。

 そう、今日は待ちに待った皆既日蝕の日だ。

 氷太朗だけではなく、日本中の人が今日この時ばかりは空を見上げている。


「カッコいいね」


 氷太朗と同じように防護面を付け空を見上げていた美夜は言った。「私、いつか捕まえたい」


「何を?」

「日蝕を」

「日蝕って捕まえられるの?」

「わからない。たぶん、捕まえられると思う。月はは捕まえられたから

「誰が?」

「ご先祖様が」

「え?」


 思わず氷太朗は視線を美夜に移動させた。

 最初、氷太朗は冗談だと思った。美夜は時々、突拍子もなく非現実的な冗談を言うから――いつものソレだと思った。けれども、溶接用保護面越しに皆既月蝕を眺める美夜の瞳は真剣そのものであった。


「本当に……?」

「本当だよ。そんな変な嘘つかない」

「そうかぁ……?」

「本当だもん」


 と、言いながらも、美夜は太陽から――或いは月から、目を離さない。

 氷太朗はリアクションに困りながら、視線を太陽と美夜の横顔とを右往左往させる。

 そんなことをしていると、月はゆっくりと太陽から逸れ、太陽は輝きを取り戻した。皆既月蝕が終わったのだ。

 天体に微塵も興味がない氷太朗は余韻に浸ることもなく保護面を外す。対して美夜は、皆既月蝕が終わっても暫く太陽を見ていた。「終わっちゃったね」


「うん。一瞬だったね」

「次は七年後だって」


 漸く保護面を外した美夜はこちらを見て言う。「私たち、高校生になってるかもね」


「なってると良いね」

「絶対なってるよ。その時も、一緒に見ようね」

「勿論!」


 声が裏返る氷太朗。『今』から見ても恥ずかしい。


「ちょっと来て」


 美夜と小さく呟くように言うと、家の方に歩み始めた。氷太朗は慌てて付いていく。皆既日蝕が終わったから家の中で遊ぶのだろうか――そう予想したが、違った。美夜は門をくぐるとすぐに石畳から逸れ、庭を横断し、裏手に回った。

「ここに置いてある」

 そして辿りついたのは、小さな蔵だった。

 小学生の氷太朗から見ても、異質な蔵だった。と言うのも、先述の通り、酒月邸は苔一つ生えていないくらい潔白な屋敷なのだが、この蔵はその真逆で、今にも崩れそうなくらいボロなのだ。清掃された痕跡が全くない。まるで、蔵だけが時を歩んでいるようだ。

 美夜は小さな手で大きな戸を開け、中に這入っていく。

 臆病な氷太朗は、今にもオバケが出てきそうな薄気味悪い蔵なぞ近付きたくもなかったが、美夜が来いと言うのだ、意を決して進んだ。

 蔵の中は更に異質であった――と言うのも、数歩進んだ先に小さな神棚がぽつんと置かれているだけだった。

 蔵と言えば物で溢れ返っているというイメージを抱いていた氷太朗は更に不気味さを覚えた。


「見て」


 そんな氷太朗を気も留めず美夜はしゃがみ込むと、唯一の保管物である神棚の中を指さした。

 そこには一杯の盃があった


「お、おちょこ?」

「違う。その中」

「中?」


 目を凝らしてみると、盃の中に水が張られいることに気付いた。いや、それだけではない――驚くべ

きことにその水の中に新月が浮かんでいるではないか。

 と言う事は、美夜の先祖は本当に月を捕まえていたと言う事だ。


「ね? 嘘じゃないでしょ?」


 得意げな美夜。

 氷太朗は理解を超えた世界に、ただただ絶句した。


* * *


「夢……か……」


 上体をゆっくりと起こした氷太朗は、額に浮かべた汗を拭って呟く。

 予想通り、先程見たものは夢であったらしい。

 こんな良い夢は久々に見た。酒月美夜と面と向かったのは一体いつ以来だろうか。声を聴いたのも、久しぶりだ――姿は度々見る。と言うか、彼女を追うように同じ高校に進学したお陰で、彼女の顔は毎日のように拝める。しかし、氷太朗が行動力を発揮出来るのはストーキングが精々であった。折角同じ高校に通っているというのに、高校二年生になった現在も、天体観測に誘うことはおろか、声さえ掛けられずに居る。

 最近は、夏休み真っ只中と言うこともあって、姿すら拝めていない。

 なんたる体たらく。


「このチキン」


 氷太朗は部屋の鏡に映った自分を罵る。その鏡に映っている顔は決して悪いものではない。寧ろ、ガラス玉のように輝く綺麗な瞳や高い鼻からわかるように、整った顔をしている。整い過ぎて美人なお姉さんに間違えられる事は多々あるが――兎も角、顔の作りに関しては、決して色恋において足を引っ張る要因とはならないはずだ。身体もそれなりに鍛えているので引き締まっている。

 では何が彼の恋路を阻んでいるのだろうか。

 原因はわかっている――勇気が足りないその心だ。

 このままでは、小学生の頃から引きずった恋心は花開かないまま高校を卒業し、疎遠になり、後ろ姿さえ眺められなくなるだろう――それだけは避けなければならない。


「じゃあどうする……?」


 氷太朗は自問する。

 普段ならば、このまま自答することなく二度寝をして問題を先送りにするだろう。だが、今日は違う。夢の中で光明が見えた。

 氷太朗はすぐに枕元で充電されているスマートフォンを拾い上げ、検索エンジンに文字を入力する。


「次の皆既月蝕は……?」


 一〇歳のあの日、美夜は「皆既月蝕が次に見られるのは七年後だ」と言っていた。「一緒に見ようね」とも言っていた。

 美夜を捕まえて「小学生の頃の約束を反故にするな」と言うつもりはないが――まだ有効期限内であろう。

 この『最高の口約束』を口実に再び月を見上げることが出来れば、根腐れ寸前の恋も少しは報われる筈だ。

 そんな淡い期待をかけて検索をかけると、来月の第四日曜日に皆既月蝕が起こるということがわかった。それだけでなく、今夜、スーパームーンが見られるという情報も得た。

 これを千載一遇と呼ばずして何と呼ぶ。

 氷太朗の脳内に作戦が浮かぶ――何年も会話を交わしていない間柄でいきなり皆既月蝕を誘うのは聊かハードルが高い。切っ掛けが必要だ。ということで、切っ掛けとして今夜のスーパームーンを使う。


「………………どうやって使おうか」


 どれだけ考えても、肝心の作戦が浮かばない。当然と言えば当然だ。ここですんなり策が講じられる男ならもっと別の『高校二年の夏』を送っていたに違いない。


「とりあえずお茶でも飲むか……」


 気付けば大量の汗をかいていた氷太朗は、ベッドから降り、重い足取りでダイニングキッチンに向かった。

 ダイニングキッチンは日当たりが悪いお陰で自室と違いかなり冷えていた。ダイニングキッチンの隅ある小さな冷蔵庫は更に涼しい。

 氷太朗は冷蔵庫を開け、ドアポケットにある麦茶のペットボトルを手に取った。その際、冷蔵庫の中段に置いていたタッパーに手が付けられた痕跡が無い事に気付いた。

このタッパーの中には、姉のために作って置いていた夕食が詰められている。それが手つかずということは、


「昨日も帰ってないんだ……」


 もう何日、氷華と顔を合わせていないだろうか――氷太朗は寂しさと共に麦茶を飲み干す。

 坂之上氷華は三つ年上の姉である。七年前に両親を亡くした氷太朗の唯一の肉親で、このボロアパートに暮らしている唯一の同居人である。が、稼業が非常に多忙であるため偶にしか帰ってこない。氷太朗は生活を支えてもらっている身なので何も言えないが、弟としては帰宅する時間も潰して働く姉が心配で心配で堪らない。

「身を粉にする姉を後目に女の子と月を見るなんざ御目出度い限りだ」と心のどこかで誰かが呟く。一方で、「バイトを禁止された身だから家計を助ける術はないだろ」言う奴も居る――心の中で相反する意見が殴り合いを始める。どれだけ眺めて居ても雌雄など決するはずもないのに。


「半端な奴……」


 たった一人の想い人にも近づけず。

 たった一人の家族にも寄り添えず。

 一体自分は何が出来るというのだ。


「くそっ……」


 自己嫌悪感が波紋のように広がっているのを感じた氷太朗は、冷蔵庫のすぐ隣の蛇口を捻り、顔を洗う。そんな彼を他所に、ベッドの上に置き去りされたスマートフォンは何かを受信した。


〈バッティングセンターに行こうぜ〉


 それは友人からのお誘いのメールであった。

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