第Ⅰ章 あなたは誰?

第5話 出会い①

◇◇◇


 う〜ん、ここはどこかしら?

 目を閉じて横になっているんだけど、この布団、肌触りに馴染みがないのよね。

 それに、寝ている時に近くに人がいたことなんて、あったかしら? 何故か、人の気配を近くに感じるし。


 だって、いつも一人で目覚める――……? あれ? 本当にそうだったかしら?


 ん? えぇ? そもそもわたしは……誰だろう。

 そう思いながら、むくりと起き上がれば、耳に心地良い穏やかな声が届く。


「あ、良かった……目が覚めましたか?」

「……」

 体を起こすとほぼ同時。目の前にいる見知らぬ好青年が、赤い瞳……いいえ、黒い瞳を細め、にこりと笑う。


 随分と見た目が良い。

 一度見たら目の奥に焼きつく容姿にもかかわらず、「この顔に見覚えは……ないわよね」と自問自答しているんだけど、彼はわたしの知り合いかしら……?


 どうしよう。よく知る人物の顔も見分けられないなんて、失礼にもほどがあるわ。


 優しい雰囲気の彼が一体誰なのか? 一向に思い出せず、ただひたすらドギマギしてしまう。

 

 彼を探るヒントを得ようと思ったけれど、あれれ……ここはどこかしら?


 首を左右に動かし周囲を見渡すけれど、全くもって見覚えがない。

 ……どうしてここにいるのかと、首を傾げる。


 目に映る部屋は狭くない。

 けれど、窓と思き場所は、厚地のカーテンが隙間なく閉められ、時計の針は五時を示している。

 それだけでは、朝なのか夕方なのかも分からない。


 小さな木の机以外、家具らしいものが見当たらない殺風景な薄暗い部屋。漆黒髪の紳士が、ベットの横に木製のチェアーを置いて座っていた。


 彼は読みかけの本を開いたまま手に持っているけど……やっぱり誰だろう? 分からない。


 上質ではあるものの、ブランドとは無縁のセーターを着る男性は、笑顔を保ったままだ。


 しばらく黙りこくっていれば、見知らぬ男性が読みかけの本をパタンと閉じ、椅子から立ち上がる。

 そうして、わたしの瞳を覗き込む。


「ここはカステン軍の事務所で、そこを僕が家として借りしているんです。へぇ〜。琥珀色の瞳ですか……珍しいですね」

「……」

 琥珀色の瞳。それがわたしの瞳を指すのかも分からず、ぼんやりと聞き流す。


「あなたの名前は?」

 と訊ねられてしまい、彼を見つめながら、こてりと首を傾げる。


 わたしの名前……? そう聞かれても、さっぱり分からない……。

「さ、さあね――」

 

「ふふっ。何もしませんから、そんなに警戒しないでください。僕はアンドレです。……家族に捨てられた身なので、家名はありませんけどね」


「ぁ…。ええ、アンドレね……」


「あなたの名前くらい教えてくれませんか。なんて呼んでいいか分からないですしね」


「それが……自分が誰なのか分からないのよ」

 事実を伝えると、それまで見せていた穏やかな表情から一変。顔をしかめた。


「あ〜。僕としたことが、とんでもない失敗をしたようですね。よりによって、面倒なものを拾ってきたのか……」

 と言いながら扉を一瞥する。


「ねぇ! 拾ってきたって、どこから? わたし……最後に何をしていたのかも思い出せないわ」

 彼はわたしを追い出そうと考えたのだろう。

 扉に向かい離れていこうとする。それに気づき、彼の腕を慌てて引き止めた。


 わたしの記憶には、しっかり、はっきりとルダイラ王国で生まれ育った記憶が残る。


 それにもかかわらず、周囲にいた人物の顔も名前も、何もかも思い出せない。


 けれど自分は、毎日のように魔法や魔物について、勉強していたのかもしれない。

 その類の知識に関しては、これでもかというくらい頭の中に詰まっている。


 だが、いざ「それを誰から習っていたのか?」と聞かれてしまえば、そこはさっぱり分からない。


 これまで培ってきた知識は残っているのに。自分は誰で、どこで、何をしていたのか、微塵も残っていない。


 自分という存在だけが、頭の中からすっぽりと消えているんだから。


 ――酷く気持ち悪い。



「君……。本当に自分のことが分からないんですか?」


「ええ、自分のことはさっぱり分からないの。ここがどこか教えて欲しいわ」


「ここはカステン辺境伯領だけど、君は馬で三十分離れた森の中の道沿いで眠っていたんだ。あんな所で寝ていてよく狼に襲われなかったね」


 平坦な口調で告げられた。


「どうして、そんなところで寝ていたのかしら。だけど、助けてくれてありがとう」

「どういたしまして」

 彼は当然のことをしたまでですと、微笑んだ。


 そう言ってくれるなら、穏やかな彼に更に甘えたいところだ。

 この部屋。どう見ても余っている客間だし、このまま居候したいと目論み、彼の人となりを探る。


「ねえアンドレの年齢は? 仕事は?」


 そうすれば、はぁ~っと深いため息が返ってくる。


「君ねぇ……。記憶がないわりに、随分と踏み込んだことを聞いてきますね。図々しいですよ」


「だって、わたし……。行く当てがなくて。しばらくここに置いてもらいたいもの。それに、年齢くらいは普通でしょう」


「やれやれ。新手の詐欺師ですか。本当に、とんでもないものを家に入れたみたいですね」


「詐欺じゃないわよ」


「まあ大抵の詐欺師はそう言うでしょう」

「だから違うってば」


「さあさあ、目が覚めたのなら出て行ってください」


「えぇぇ~。そんな冷たいことを言わないでよ」


「冷たいも何もないでしょう。森から拾ってきて、目が覚めるまでここに置いてあげたんですよ。それも、名前さえ知らないと言う変な女性を。それだけでも十分親切だと思いますよ」


「変な女って酷いわ。……自分の方が、何者なのか知りたいのよ」


「どうせ、その辺にお仲間でもいるんでしょう。その方に聞くといいですよ。本気で迷惑なので立ち去ってください」


 静かに怒りを露わにするアンドレに、バッと布団をはがされた。

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