Scene 2

 県立辻橋高校は、自然大好き海大好きのピースフルな学校だ。

 神奈川県の逗子海岸に面したこの学校では、窓を開ければ爽やかな潮風が吹き込み、少し歩けば昼休みの間に海へと飛び込むことができる。その先には富士山が見え、ご近所には山々だって連なるものだから、俺たちは自然を欠かしたことがない。そんな海山讃美をリリックに込めて校歌斉唱する学校こそが、この辻橋高校だ。

 そもそもこの逗子という街は鎌倉がお隣にあり、すぐ近くには神奈川県屈指の高級住宅地があり、直近では町をあげてのイベントやアートフェスも盛んだというものだから、移住者が増えてきているとも聞く。そのせいか辻橋高校の生徒にも個性的な連中がいるが、多様性を認めてくれているのか、俺のような冴えない男子と目が合ってもイヤな顔はされず、なんとか共生できている。そういった意味では、辻橋高校つじこーはバランスのとれた悪くない学校なのだろう。

「霧乃雫って誰だよ……」

 けれども、その秩序を喰い破らんとする混沌の権化が現れた。

 自分が世界の中心にいるとでも本気で思っていそうな、あの振る舞い。

 一年生の妹がいるらしいクラスメイトにおそるおそる聞いてみれば、別にそいつはあちこちで事件を巻き起こしている問題児ではないようで。俺はどんな絡み方をされていたのだろうか……。

 そんなことを考えながら東校舎と西校舎を繋ぐガラス張りの通路を渡り、旧視聴覚室がある西校舎四階に向かってゆっくりと歩いていく。

 この辺りは教材や備品を備える倉庫として使用している部屋が連なるせいか、空き家に忍び込んだかのような静けさがあった。廊下を歩く度にこーんと靴音が反響し、それが眠りこけた世界を覚ましてしまうのではないか。そんなふざけた物思いにふけりながら歩けば、いつの間にか旧視聴覚室の扉の前に到着していた。

 この旧視聴覚室は、今では空き教室になっているらしい。老朽化した扉が目前を塞ぐが、三回ノックしても返事がないものだから、ゆっくりと扉を開けることとした。

「……失礼しまぁす……」

 すると、風がふっと吹き抜ける。

 それに乗って微かに聞こえてくる、遠くの運動部の掛け声。吹奏楽部の演奏の音。

 なんでもない教室の、なんでもない放課後の景色。

 それでも、ここは俺の知る世界と別のもののように思えた。

 ここから十メートルほど先。

 教室の扉から真反対の位置にある、机ほどの高さの窓枠の上。

 そこに一人の少女が背を向けて立っていたから。

「誰……?」

 少女がそう言って振り向くと、頭の上でまとめられた長い髪が腰上でゆらめく。

 西日に溶け出すようなピンクゴールドの髪色。それはまるで光が髪の一本一本を包み込んでいるようで、目が覚めるような美をまとう少女がそこに見えた。

 クラスメイトの──さくらはるか。

 彼女の顔が見えると、その大きな瞳は揺れていた。

 やがて悲しげな表情がはっきりと見えた時。それはきっと只事ではないと悟った。

「さ……桜……?」

「…………城原くん?」

「お、おい、そこで一体なにやって……」

 四階という高さ。そこはベランダもなく、下にはきっと硬い地面が広がっている。

 だというのに彼女は窓枠の上で裸足になって、まるで水の上に立つように、ただ静かに直立していた。

 近くの柱にそっと片手を添え、今にもその一歩を踏み出しそうな状況。

 心臓が止まりそうになった。

 彼女が今、なにをしようとしているのか。はっきりと分かってしまったから。

「ま、まさか……飛び……降りようとしてんのか……!?」

「…………」

 ──俺が持つ桜はるかの印象は、まるで違う。

 クラスで同じ制服が並ぶ中、背筋をぴんと伸ばした彼女だけが異彩を放ち、それを見て誰かが「太陽みたい」だなんてたとえていたことをよく覚えている。

 とにかく流麗な曲線を描く彼女の身体はしなやかで、整った顔の部位ひとつひとつは、きっと彫刻家が何世紀にも亘って追い続けてしまうほどに美しい。

 その小さな口から発せられる声は滑舌よく、もしもそこから『好き』だなんて言葉が発せられれば、この世のすべてと戦うことができるのではないか。それだけ麻薬じみた陶酔感を彼女から感じるようだった。

 そんな高嶺の花とも思える彼女がどうして──教室から飛び降りようとしているのか。

「な、なんで……なんで桜がそんなこと……っ!?」

「……城原くんからはさ、クラスの中でワタシのこと……どう見えた?」

「どうって……いや、もう完璧女子だなって……」

「完璧……か」

 目線を床に向け、黙りこくる彼女。

 やがてふっと笑みをこぼすと、その目尻には深い疲れの影が見えた。

「ワタシ、失敗ばっかりだから」

「失敗……?」

「うん。本当のワタシはずーっと空回りばっかしちゃって。この間もね、ワタシの親友が落ち込んじゃった時、元気出してもらおうとしたら『あんたのそういうのが一番ウザい』ってさ」

「……まさかそれが原因で……」

「はは。そのまさか、だよ。もうそれからずっと無視されちゃって。ああ、ワタシって本当になにをやってもダメな奴なんだなぁって」

 桜は諦めてしまったように笑う。

 悩みなんてひとつもないと思っていた。幸福を容易く持ち歩きながら、人生を謳歌するような奴なんだと思っていた。

 そんな彼女が今、この四階の教室から飛び降りようとしている。

 ──冗談じゃない、と思った。

「ま、まあ、落ち着けって。ここ、四階だぞ……? 飛び降りたら痛いどころか、死んじゃって……」

「来ないで!」

 だけど、それは冗談だと笑い飛ばせるものではないらしい。

 桜の息はつっかえ、よく見れば足だって震え、瞳の中では覚悟と恐怖が叫びながら戦っているようにも見えた。

 どうする。止めるか。止められるか。いや──止めるしかなかろう。

 手をどれだけ伸ばしたって、桜を掴めそうにないこの位置関係。

 強引に走って止めようとすれば、彼女は飛び降りてしまうかもしれない。

 ならば今、一体俺になにができる。

 薄い西日が差し込む教室。憂える少女。されど対面には冴えない男。

 彼女がそんな男に求めているものはなんだ。説得か、同情か、共感か。

 いや、きっと彼女は俺なんかになにも求めていない。俺は彼女の中でのクラスメイトAであって、そんな人間の言葉が彼女に通じるだなんて、これっぽっちも思えなかった。

 じゃあクラスメイトAは今、なにができる。

「……分かった」

「城原くん……?」

「そっちには、行かない」

 桜が立つ窓から、少し離れた位置にある別の窓。

 そこに向かって、ゆっくりと足を進める。

 窓の前までやってくると、少し距離をおいて桜と横に並ぶ構図となった。

 が、窓枠に立つ桜と並ぶには、頭の位置がまるで合っていない。

 あともう半歩。窓枠に乗る準備を始める。

 解錠し、窓をガラリと開けると、生暖かい風が吹き込んだ。

「俺が先に確かめなきゃな。四階から飛び降りて、桜の望み通りになるのかって」

「え……」

「もう失敗したくないだろ? 失敗はさ、……俺だけで十分っていうか」

 窓枠の上に溜まったほこりを指でそっとはらう。

 指先は黒ずむが、感情は死んだように動くことがなかった。

「城原くん、なに言ってるの……?」

「……四階ってすっげー微妙な高さなんだよ。確実に死ぬか分からなくて。もし失敗したらその後はマジでやばそうっていうか……」

「そうかもしれないけど……」

「桜より俺の方こそ失敗ばかりの人生でさ。ずっと死のう死のうってタイミングを窺ってた。だから良かったよ、最期くらいは誰かの役に立てそうで」

 空に見惚れ絶望を懐かしみ、削がれ続けてきたような薄い声を出した。

 生まれて初めて自分の価値を見出したように、慣れない笑みをそっと浮かべる。

 それはずっと前から、自分の死に場所を探し続けてきた人間の所作だ。

 ──そして上履きを脱ぎ、靴下を履いた足を窓枠の上に掛けた。

 そのまま身体を上げ、歯を食いしばりながらブルブルと立ち上がる。

 下には本当に地面が見えた。高い。そして、呑まれそうなほど地面が黒く見える。

 膝が笑う。視界はぼやける。そよ風にすら身体がすべて持っていかれそうだ。柱に寄せた手が離れれば、きっと俺はすぐにでも落ちてしまうのだろう。

 彼女に別れを告げる。バイバイとでも言うように、声には最期の力が添えられた。

「桜が失敗しないよう、俺がリハーサルしてやるから」

 が。

 身体は強い力に引かれて後退。

 尻から床に着地すると、顔を青くした少女に手首を掴まれていた。

「……はぁっ、はぁっ……なに!? なんで関係ない城原くんが死のうとするの!?」

 桜がここにいるということは、飛び降りを中断してきたということか。

 良かった。ならばあと、もう少し。すくっと立ち上がる。

「なんでって。そりゃ……」

 死に場所を求めたクラスメイトA。

 やっと出会えた絶好の機会も止められ、なぜ私ではなくあなたなんだと問われる。

 が、そいつは俺とあまりに境遇が違う完璧女子。

 ならば、湧き上がる感情はたったひとつ。肺にいっぱいの空気を取り込んだ。


「俺のがッッッッ!! もっとヤバいだろッッッッ!!!!」


 彼女の目はきょとんと丸くなった。

「あれはッ! 中学一年の夏! 落ち込むクラスの女子を慰めるために三日三晩考えた長文メッセージを母ちゃんに誤送信した俺の方が十倍ヤバい!!!!」

「……え?」

「そしてッ! 中学二年の冬! 今度は別の落ち込む女子を慰めるために下駄箱に直接手紙を入れることにした! 前回の反省を活かしてだ!」

「な……え……あの、城原くん……?」

「すると翌日、職員室の落とし物箱にそれが入れられ人だかりができていた! 黒い封筒が格好良いと思って使ったら、呪物扱いされて『ヘル・ポエマー』だなんて皆に恐れられる始末! そんな俺の方が百倍……いや、千倍ヤバい!!!!」

「待っ……それなんの話……」

 桜の目はもう、正気に戻っていた。

 ならば頃合いだ。桜の両の手を取った。

「俺が飛び降りようだなんて、ウソだ! こんな俺ですら死のうと思ったことは今まで一度もない!」

「ウソって……あんな本気そうだったのに……?」

「そうだ、全部ウソだ! 俺はこれからもしぶとく生き続ける! だったら桜は俺より一億倍、生きていて大丈夫な人間だろ!!」

「大丈夫って、ワタシが……?」

「ああ、大丈夫! 桜だったらいくらでも巻き返せる! 俺なんかと違ってマイナススタートじゃないんだ! だから……だから……」

「城原くん……」

「……飛び降りようなんて……やめとけよ……」

 沈黙が続く。

 なんてザマだ。やはりもう少し別のやり方があったんじゃなかろうか。

 もっと俺がちゃんとした人間なら、立派な正論で説得してやることができた。

 でも、残念ながら俺にそんなことはできない。

 いっそこんな俺のことを知人友人に言いふらしてめちゃくちゃバカにして、それで桜の気がすかっと晴れれば、それだけで十分だ。

 そんな桜は今、なにを思っているのだろう。

 それがどうにも心配になって彼女の方を見やると、


「四十点」


 ぞくっとする声音が耳奥に触れた。

「……え?」

「ちなみに百点満点中の四十点ってことね。雫ちゃん、ちゃんと撮れた?」

 桜が視線を動かし、教室の前方に目をやる。

 それは教卓。

 死角となっていた裏側からノソノソと出てきた少女は、スマホのレンズを俺に向けながら声を上げた。

「! すごい、ギリギリ赤点回避ですね! 講評はどんな感じなんですか?」

「まず、変化球みたいな返しが多すぎる。もっと王道を求めていたのに、なんでそういう感じで来たのかな。過去のエピソードに至っては言葉の選び方が良くないし、コメディを見せられた感じ」

「ふむふむ。良かったところは?」

「思ったよりも鬼気迫るようではあった。没入感は雫ちゃんの言っていた通りかも」

「ということは?」

「まあ……一応、合格でいいんじゃないかな」

 一体なんの会話が繰り広げられている。

 霧乃雫と目が合うと、彼女は一礼してにこやかに笑ってみせた。

「おめでとうございます、先輩! 合格ですよ!」

「え? はい? 合格って…………え?」

「やだなー、オーディションですよ! 昨日言いましたよね、放課後に旧視聴覚室まで来てくださいとっ」

 とてとてと霧乃が近付き、それはまるで子猫が餌を見つけてやってきたかのよう。

 ……明らかになにかがおかしい。

 霧乃の小さな手が俺の両の手を掴むと、彼女は頬を明るく染めてこう言い放った。

「それじゃあ先輩、早速私たちと一緒に『映画』を作りましょう!」

 対して俺の頬は、色という色を失っていた。


      *


 旧視聴覚室の中央には巨大なプロジェクタースクリーンが天井から垂れ下がり、両隣には真っ黒いスピーカーが吊るされて並ぶ。その前には長机がずらりと広がり、部屋の照明が落とされると、まるで小さな映画館に案内されたようだった。

 が、教室の中をぐるりと見回せば、隅にはいくつもの備品が寄せられている。

 カメラを載せる三脚台や、巨大魚でも掬うかのようなドでかポイ。さらには先端にモフモフが付いたモップのような謎棒。バズーカのような形状のライトにその他もろもろ。

 旧視聴覚室は今や空き教室だと聞いていたが、これじゃあまるで秘密基地だ。桜とのやり取りに気を取られていたのか、この立ち並ぶ備品にまるで気が付かなかった。

 前の教壇に立つ霧乃は小難しい顔で絡まったケーブルとわしゃわしゃ格闘しているが、あれはプロジェクターでも使おうとしているのだろうか。

 教室の真ん中に座らされた俺は振り返り、ひとつ後ろで姿勢良く座る少女に訊ねた。

「あの。……これは今、一体どういう状況なんでしょうか」

「うん? これから雫ちゃんの説明を受ける流れでしょ?」

「そ、そうか。説明してくれるのか。いや、もうさっきからビックリの連続っていうか、桜の演技が見事すぎたっていうか……」

 一時は桜からも妙な冷気を感じたが、今の彼女は普段と変わらない。桜は頬杖をついて小さく笑っていた。

「ふふ、ワタシも驚いちゃった。まさかクラスメイトの城原くんが来るなんて思わなかったもん」

「はぁ、俺も驚いたんだけど……」

「なんだかすっごく余裕ない感じだったよね。緊張してたの?」

「いやいや、あんな状況で余裕ある人間なんていないだろ……」

「そっか、没入できてる証拠かな。場数を踏めばまた慣れてくるだろうから、次に活かせるようにはしておいてね」

「場数を踏む? え? あの、桜さんはそういうのへっちゃらな感じなんですか……?」

「? へっちゃらっていうか、むしろ楽しいなって思うけど」

「た、楽しい……? ひ、ひ、人が飛び降りようとするあの状況が!?」

 冗談じゃない、こいつは死神か。のけぞるように椅子から立ち上がってしまった。

「うん?」

 そう言う桜はただ顔をきょとんとさせているが、彼女の頭の回転は早かった。

 すぐに状況を理解し、霧乃の方をすっと睨みつける。

「……あー……雫ちゃん?」

「はい? なんですか?」

「なんですか、じゃない。城原くんにどこまで説明したの? まさか、オーディションの役のこともなにも伝えてないってことはないよね?」

「だってその方がイケてる感じになるかなぁと♡」

 霧乃がぱっと笑うが、対して桜は恨めしそうにこめかみを押さえていた。

「……それじゃあオーディションにならないでしょ。はぁ、映画に出演させたい人がいるって雫ちゃんが言うから適性を見ようと思ったのに……」

「でも、先輩がどんな人かは分かりましたよね?」

 桜の視線が俺に移る。

 それは、訝しむような。あるいは奇妙な生き物を見るような目だったかもしれない。

「一応確認するけど。さっきのアレ、本当にワタシが飛び降りると思ってやったの?」

「……そうするしかなかったんだよ」

「じゃあ素だったってこと? 自分が先に飛び降りるだなんてウソまでついて?」

「ま、まあ。でも足が震えすぎて、まじで落ちそうになったっていうか……」

「その後に出てきたおかしな話は?」

「あれは半分実話っていうか、……いや、やっぱ九割くらい実話っていうか……」

 そのまま沈黙してしまうと、桜はふーんと値踏みするように俺を見ていた。

「なーんか、クラスでのイメージとだいぶ違う」

「えぇ……」

「城原くんってもっと静かなイメージあったし、言っちゃ悪いけど、面倒そうなことには絶対関わらなそうだと思ってた。そんな場面に出会してもすーっと去っていきそうな?」

「そりゃ俺だって関わりたくないっつの……もっと静かに暮らしたいわけで……」

「だったらなんでそこまでしたの」

「へ……」

「クラスメイトが飛び降りようとしたら、普通はもっと違う方法で止めるよね? 高い場所が苦手で、リスクジャンキーでもない。なんでそんなバカな方法を選んだの?」

「バカって……い、意外と容赦ないんだな、桜は……はは……」

 なにやら普段の桜の様子とは違い、色がないように淡々とした話し方だ。

 クラスではもっと柔らかに話していた気がするが、今はところどころにトゲが混ざり込んでいるような。それはさっき感じた冷たい声音とも一致し、妙に身体が強張ってしまうのが小心者の俺だ。

 かといえば緊張の原因はそれだけでない。

 ぱっつんと切り揃えられた分厚い前髪から覗く、大きな目。そこから鼻筋はすっと伸び、口は小さく、つくづく整った顔だと思う。そんな彼女にじっと見つめられ、緊張しない男子なんているのだろうか。たとえ桜が有名な女優やアイドルだと言われても納得するし、むしろそんなお方に制服を着せた姿が桜はるかだと言っても過言ではないのかもしれない。

 対して霧乃のふにっとした可愛さは、親しみのあるものだ。親戚一同からめちゃくちゃに可愛がられるだろうし、きっとお年玉で王国を築くことすらできてしまう。……だからといって霧乃に緊張しないわけではないのだが……。

 やがて桜の視線に押し負け、俺の目がキョロキョロと教室のあちこちを巡回し始めたところで、彼女は小さく吹き出した。

「っぷ。じゃあ城原くんって謎に遠慮してるクセにあんなことしちゃうんだ? あはは、ブレーキとかないの?」

「し、知らねぇよ……ていうかイジるなよ、こっちだって必死に生きてるんだよ……」

「イジってないイジってない。でもかなり変わってるなーって。うん、まあ……良いんじゃない? じゃあとりあえずはヨロシクね、城原

 あっさりと言われ、無言で頷くことしかできなかった。

 桜こそクラスでのイメージと違い、なにやら腹黒そうな様子が怖い。つい霧乃の方に視線を移してしまった。

 が、しばらくほったらかしにしていたせいか。霧乃は「なに楽しそうにしているんですか」と不機嫌そうに頬を膨らませている。

「あの。それより、先輩。そろそろいい加減に私からの説明を受けてくれます?」

「お、おう。なんだ、準備は済んだのか」

「とっくに終わってます! お茶、ぬるくなっちゃってますからね! もう知りません!」

 つかつかと俺の席までやって来た霧乃は、紙コップを置いて教卓まで戻っていく。そのコップの外側には黒いマジックで「一億円」と書かれていた。まさかこいつ、これを飲んだら俺に請求する気か……。

 とはいえプンプンする後輩を蔑ろにしてしまっては可哀想だ。教卓の上のタブレットにはケーブルが差し込まれ、準備万端のようだった。

「えっと……映画、だったよな。皆で集まって自主制作している、みたいな?」

「! はい、そうです! 今は私とはるか先輩だけですが、自分たちで作った映画をたくさんの人に観てもらうんです!」

 霧乃はころりと機嫌を直したように笑うが、映画という言葉には彼女の様々な思いが込められている気がした。

 対して、俺は今ひとつ乗り切れていない。なんとなくの作り笑いを浮かべてしまった。

「あ、あー……映画ね。うん、わくわく……っていうか……あー……文化的というか……」

 そんな反応を見て、霧乃はきょとんと呆ける。まるで理解できないという表情だ。

「先輩、映画にあまりご興味なかったりします?」

「別に嫌いでもないけど、そんな好きでもないっていうか……」

「映画、楽しいですよ?」

 にっこりと同意を求められるが、そりゃ映画大好き人間はそう思うだろう。映画に興味を持たない理由が分からない、なんて。

 だけど、そもそも日常に娯楽が溢れかえる昨今、俺が映画というものに特別な関心を持っていないことも事実。ましてやそれを作る、だと? 一体どれだけの時間を要して、どれだけの数の人がそれを観るのだろう。文化祭で友人や親に観てもらうくらいか?

 モブ役集めや雑用やらで適当に声を掛けまくっているのだろうが、このミスマッチ案件……どうしたものか。いくら俺が曖昧な反応を見せても、霧乃が引き下がる未来はあまり見えてこない。彼女は笑顔のまま誘いを続けた。

「別に今、映画が大好きじゃなくても心配ありません。素敵な映画に出会えたら大好きになっちゃうのが映画の魅力ですからっ」

「は、はぁ。映画との出会い、ねぇ……」

「はい。確かに先輩みたいにまだ映画に興味ない方はいらっしゃるかと思います。でもそういう人たちにも私たちの映画を届けて、一緒にキュンキュンしてほしいんです!」

 霧乃の瞳は、ハートの形に変わってしまいそうなほど楽しそうに動いている。

 いかん、このままだと勢いで流されてしまう。抵抗しようと思ったせいか、つい皮肉めいた口調で返してしまった。

「いや、そもそも……俺みたいなのには届かないと思うけど……」

「はい?」

「なんか映画ってさ、ちょっと重いんだよ。映画館とか上映会行くっていうのもしんどいし……。だから普段、映画と出会うことなんてないっていうか……」

 別に映画作り自体を否定したかったわけじゃない。ただ、俺を誘ってくれている彼女の期待には応えられそうになく、冷たい突き放し方をしてしまった。

 だから、もっと映画に興味のある他の連中にあたってくれ。そう言って会話を終わらせようとしたところで──、

「やっぱり先輩はウソつきだ」

 霧乃の口角がにっと上がり、いたずらっ子のような目が俺に向けられる。

 ウソ。一体今の話のどこにウソがあった。そう言った彼女は教卓からぱたぱたと移動し、ちょこんと俺の席の隣に座った。近い……。

 やがて内緒のヒソヒソ話をするように、こんなことを質問された。

「ところで先輩って普段、おヒマな時はなにしているんですか?」

「な、なんだよ突然」

「よかったらこっそり教えてくれませんか?」

 甘い香りがこそばゆいが、その問いにはしばし沈黙。

 手元のスマホの真っ暗な画面を見つめると、まず思い浮かんだものはこれだった。

「……まあ、ソシャゲとか」

「あれってどんどん新しいキャラクターがリリースされるんですよね。これ強いかな? 使えるかな? って思ったらまず、どうします?」

「調べる」

「どうやって?」

「そりゃネットかね。まとめサイトとかWiKiとか。でも、最近は解説動画とかプレイ動画見た方が早いし分かりやすいっていうか」

「つまり動画サイトで調べていると?」

「あー、そんな感じ。調べるっていうか勝手にオススメされてくるな。だからテスト前に切り抜き動画とか見始めるとやばいっていうか」

「映画との接点、あるじゃないですか」

「へ? ……映画と? いやいや、今は動画サイトの話をしてるんだけど……?」

 そう訊ねると霧乃は席を立ち、教卓の方までステップを踏んで戻っていく。やがて両腕を頭の上で広げると、それは目に見えない大きなものを見せつけるような仕草だった。

「新宿や渋谷を歩くよりも、タイムズスクエアを歩くよりも、よっぽど情報量が多い動画プラットフォームを今、私たちは当たり前に使っている。それってとんでもないことだと思いません?」

「とんでもない?」

「はい。最も『コンテンツ』と『スクリーン』が多い時代、それが今! そんな時代に自分たちの作った映画が世界中の人にオススメされたら、どれだけの人が観てくれそうですかね? 百万? 一千万? いや、もしかすると一億?」

 霧乃がクスクスと笑いながら、ケーブルに繋がれたタブレットの画面を触る。

 すると、動画サイトのUtubeウーチューブのトレンド一覧がプロジェクタースクリーンに映し出された。そこには何百万回も再生されている動画の派手なサムネイルが並んでいる。

「そう! 今は動画の大・大・大バブル時代です! エンタメから音楽、ゲーム、スポーツ、アート、勉強、料理、オカルト、社会情勢、恋愛テクニックのハウツーに至るまで、すべての情報が動画で発信されている! そんな海みたいに広がって、誰とも繋がっている世界があるのに、それを利用しない手はありますか!? そこで天下を取れたら新時代を作れちゃうんですよ!?」

 得意満面の笑み。頬は仄かに赤らみ、霧乃の周辺だけ気温が上がっているかのよう。

 新時代。確かにUtubeは言わずもがな、クラスの連中の多くはTokTikトックチックを使い、SNSもテキストではなく動画投稿が主流となって、今の世の中を支配しているものは間違いなく動画だ。そこでヒットしたコンテンツはたちまち日常で話題になり、俺たちの価値観は偉い人や凄い大人たちが作ったものではなく、一般人が作ったコンテンツによって形成されているのかもしれない。

 だからこそ同じ一般人の俺たちにだって、そこらにチャンスが転がっている。そんな霧乃の趣旨は確かにと思いつつ……今の説明でその全てに賛同できたわけではなかった。

「今が動画の時代で、動画コンテンツにはすっげー可能性がある、ってのは分かった。で……霧乃はそこで『映画』なのか?」

「はい、そうです!」

 映画の可能性。そう問われると、その答えは悩ましい。

 オモシロ企画で高校生インフルエンサーを目指す。制服推しのショート動画でバズらせる。そんな高校生ならではのやり方ならまだしも、映画で戦うともなれば、それは難しい技術であったり、さらにはたくさんの機材やお金だって必要になるのだろう。

 俺たちにそんなことができるのか。そう考えていると、桜が横から割り込んだ。

「雫ちゃん、まずはワタシたちの映画を一度観てもらったら?」

 そう言われた霧乃は、視線をプロジェクタースクリーンに向けていた。

「そのつもりです! 先輩。それでは五分程度、お時間をいただけないでしょうか?」

 少しかしこまったように、少しからかったように、霧乃は両手でスカートの裾をちょこんと摘まんでお辞儀する。まるでメイドさんの動きだが、妙に霧乃にはまっているようだ。

 やがて動画が再生され始めると、スクリーンには見慣れた浜辺が広がっていた。

 その上を一人の少女が走っているが、あれは桜だろうか。

 彼女の顔立ちで初めて認識できたが、輝くようだった桜の髪色は真っ黒に染まり、色落ちしたTシャツに厚ぼったいメガネとひどく野暮ったい格好で、役作りだとしてもまるで別人じゃないかと後方の桜をチラ見する。当の本人は特に気にする様子もなく、スクリーンを凝視していた。

 ──スピーカーから物静かなピアノの音が流れると、小さな物語が始まった。


『世界の終わりと彼女』。

 そう題されたこの物語は、胸が静かに鳴るような、それは寂寥というべきか、なんとも言語化しにくい感情を運んでくるようだった。

 少女は、家庭や友人関係に様々な問題を抱えていた。

 ある日、少女がこんな願いを神様に託したことで、物語は始まる。

「ああ、神様。大嫌いなお父さんお母さん、それにクラスメイトに先生。もういっそ、私以外のすべてがいなくなった世界になりますように」──と。

 やがて願いが突然現実になると、少女は誰もが消失した世界に身を置くことになる。

 当然、インフラは止まる。資源は残されたものしかない。自身が活動できる時間はきっと、残りわずか。

 だけど、そこに絶望はない。

 むしろ自身が抑圧から解放された嬉しさから、少女はスマートフォンで日々の生活を記録するようになった。

 大好きなデザートを独り占めして食べる。

 大きな音の出る楽器をあちらこちらで吹いて回る。

 恥ずかしくて着られなかった色の洋服をまとい、大通りを出歩く。

 誰もいなくなった世界で少女は多くのことに挑戦し、失敗してはカメラの前ではにかむ。そんな映像が淡々と映し出されるが、そこに退屈という影が見えることはなかった。

 そう。綺麗だった。

 人がいなくなった世界は物寂しいのに、どうしてこんなに綺麗なんだろう。

 美しい物語も詩的な言葉もそこにはなく、静かに胸が締め付けられるようで。

 変わりゆく街の景色。哀感を誘う彼女の表情。失われていく光。

 画面は段々と色褪せていくのに、少女は小さく笑い続ける。


 やがて画面は暗転。短いエンドロールが終わる頃には、霧乃が本編を補足していた。

「これは全編スマートフォンだけでの撮影ですが、最近ではもう珍しくないですね。誰もが映画を撮れちゃう、すごい時代になったと思います」

「雫ちゃん。これ、再生数はどのくらいになった?」

「まだ二千回程度です。イイネやコメントは再生数の割に多いのですが……もっと伸びてほしいです」

「まあ、動画の時代だからこそコンテンツが溢れて時間の奪い合いが起きてるからね。これも短いけど、やっぱり隙間時間にタッチできるショートの方が伸びやすいんだと思う」

「でも尺があった方が感情を深められて、熱量のあるファンだって取り込めます。本当に良い体験を届けることが一番重要ですし、それが誰からも公平に評価される時代になったからこそ、長尺のネット映画には可能性があると思うんです!」

「分かってる分かってる。尺はワタシも必要だと思ってるから、後はやり方の話だよね」

 なにやら二人が論を繰り広げているが、俺はといえば映像のことばかりを考えていた。

 ──それはまるで、自分の中にひとつの世界が生まれたようだったから。

 本当に短い時間だった。それでも現実離れした情景が何度も映し出され、見たことのない繊細な光が視界に広がった場面は、観終えた今も頭の中で再生され続けている。

 その裏ではどれだけ緻密な作業をしていたのだろうとも思った。

 たった二千の再生回数。

 収益なんて絶対に生まれないだろうし、誰かに言われて作っているわけでもない。

 きっとそれは、恐ろしいほどにタイパの悪い活動だ。

 それでも自分の思いに懸け、ありもしない世界を創ろうとしている奴らがいる。

 俺がぼんやりと過ごしている日々の中で。

「ということで、先輩。実は天下取るには程遠い現状でしたが……なにか感想とか、ありますか?」

 ある。

 だけどきっと、俺の語彙力じゃ安っぽい言葉しか出てきそうにない。

 そう言われて俺が選んだ言葉は、本当につまらないものだった。

「……なんで俺なんだ」

「はい?」

「これって映画作りへの勧誘なんだよな。役者が必要だって言うけど、なんで俺なんだよ。俺は映画にも演技にも詳しくないし、そもそも……見た目だって冴えなくて、人間レベルも低すぎる。役者として誘うなら他にいくらだって人が……」

 だが、言いかけたところで霧乃と目が合った。彼女は目を細めて微笑んでいた。

「先輩の『ウソ』が必要なんです!」

「ウソ……」

「店長さんやはるか先輩の前で見せた、役への没入っぷり。なにより、なりふり構わず平気でメチャクチャなことをやっちゃう先輩のそれは才能です! 普通、もう少し躊躇ったりするものなんですよ?」

「いやすっげー躊躇ってるんだけど……その日は大体後悔で眠れないし……」

 だが、霧乃はクスクスと楽しそうに口元を押さえていた。


「でも──先輩のそんなウソを使って世界を欺けたら。後悔なんてする必要、ありますか?」


 確かにさっきの映像はウソだらけだった。

 画面に映る野暮ったい少女はこの世界のどこにもいない。世界から人はいなくならないし、そもそも光が舞うようなあんな景色、日常で見たことがない。

 フィクションという言葉ですべては片付けられてしまうが、仮にそれをウソとでも呼ばせてもらえるなら、あんなにも綺麗なウソがあったというのだろうか。

 ウソをついて悪事を働いてくれという話ではない。

 ウソをついて、とっておきの世界を創り上げようという話。

 その場凌ぎについてきた俺のウソにも、なにかできることがあるのだろうか。

「まあ、万が一ですケド。万が一、億が一にお断りされるようでしたら、先輩の個人情報を使って……住所はここですよね。お庭に竹や笹を埋めて差し上げて……」

「やるよ」

「先輩、知ってます? 竹や笹の繁殖能力は制御不能でして、お家の床をボコボコに……って、え?」

「だからやるって、役者。今、人がいないんだよな」

 途端、霧乃の目の中には光が集まっていくようにも見えた。

「本当ですか!? 本当の本当にやってくれるんですか!? ウソじゃないですよね!?」

「ウソじゃないって。ていうかなに悪魔みたいなこと始めようとしてんの……」

「⌇⌇⌇⌇っ! 聞きました!? はるか先輩! 言質とりましたよ!」

「そうだね。あとは途中で逃げ出さなければ問題ないかな」

「はい、そこは私がしっかりと見ておきますのでご安心ください!」

 本当に大丈夫かな。自宅を特定して土地ごと破壊しようとする人がいるんですけど。

 だが、宣言してしまったものはしょうがない。やれやれと頭を掻いた。

「まあ……役が決まったら教えてくれよ。ゾンビの役でもなんでも良いけど、初心者だからあんま無茶ぶりはしないでほしいっていうか」

 多少キツい所業が待っていようと、これまであの店長に鍛えられてきたんだ。毎日が限界突破のブラック運動部に入るわけでもないし、命を削るようなことだってきっとない。だからモブ役だろうとそこに俺の役割があるのならば、俺なりに頑張ってみるつもりだ。

 それに店長だって散々言っていた。俺の残りの高校生活はもっと楽しいことに──。

「では先輩。そうと決まれば早速始めましょうか! こちらを!」

「うん?」

 すると、プロジェクターにはなにやらWebページが映し出されていた。

 ──『デジタル・ショートフィルム・フェスティバルアンダー22』。

 見覚えのあるインフルエンサーが椅子に座って脚を組み、「来たれ、若き映像クリエイター」なんて見出しがデカデカと目立つ。その内容を読み進めると、それは22歳未満に限定した年に一度の短編映画専用のコンテストらしい。

「おお……? 世の中にはこんなものがあるのか」

 どうやら昨年の応募総数はゆうに三桁を超え、直近の最優秀賞作品にはスポンサーがついたことで、ストリーミングサービスのNetflexネットフレックスでの配信を開始したんだとか。

 今年からはスペシャルゲストに有名インフルエンサーを起用したらしく、いやはや随分と景気の良い話だ。U22ということは、俺たちより上の世代の大人たちが競い合っている世界なんだろう。ふんふんとのんびり眺めていた。

「なるほど、これを観て新鋭作家の技術や作品を勉強しろと」

 が、なにやら霧乃は「はい?」と不穏な笑顔を向けている。

「あの、なにすっとぼけたこと言ってるんですか?」

「へ?」

「私たちも作るんですよ? 来月の締め切りに向けて」

「はい? 来……月……?」

 桜と目が合うと、気の毒そうに苦笑いしている。あれは御愁傷様という顔だ。

「U22なので、私たちも当然出せます! 締切まで時間がないので、これから超特急でいきますよ! はるか先輩もご指導お願いします!」

「えっと、話の流れがまったく見えてこな……」

「ちなみに受賞作品はスポンサーの公式チャンネルで公開されます! そうすれば私たちの映画をたくさんの人に届けられます!」

「あの、霧乃さん。俺の話を聞いて……」

「なので先輩は、誰にも負けないくらい最高にイケてる役を演じてくださいね! とっても楽しみです!」

 これはきっと、生まれたての子鹿が奈落の底に突き落とされる物語。

 俺の役者生活とやらは、こうして本当に突然始まってしまったのであった。

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